太宰治に関する評伝
2015.09.23 18:00| ・ ノンフィクション・歴史・小説、写真集、動画|
津村節子が吉村昭の闘病生活を書いた『紅梅』を読んでいて思いだしたのが、津島美知子の『回想の太宰治』。
作家のなかでも太宰には、私には理解できない類のエピソードが尽きない。
太宰に対して肯定的・否定的な両方の立場から書かれた評伝や分析を読むと、彼の生き方に共感できない部分は多い。
といっても、私は太宰信奉者では全くないけれど、太宰の作品を読むと、彼の天才を感じさせられるものは多い。
それに、昔ほどには嫌悪感みたいなものを覚えることは無くなっている。(それでも『人間失格』(などいくつかの作品)を再読したいとは全く思わない。)
太宰の伝記・評伝は多数あるけれど、太宰に対して、極めて”客観的”というか、距離を置いて冷静に回想したかのように思えるのが、津島美知子夫人。
太宰の人間的な弱さを手厳しく指摘したのは、太宰と同世代の作家で親交もあった坂口安吾。
この2人の文章から垣間見える太宰の人間像が、私には一番納得できる。
津島 美知子『回想の太宰治』
文筆家でもない夫人が書いた物故作家の回想録の中では出色。
美知子夫人は、太宰と結婚するまでは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)文科を卒業後、山梨県立都留高等女学校の教諭として、地理と歴史を教えていた。
理路整然とした観察的な文章のなかに、太宰の人間性を端的に集約したような形容が随所に現れている。
太宰と日常生活を共にした女性しか知らないエピソードも多く、戦時中に太宰の津軽の実家へ疎開した頃の生活や親族との関係など、あまり資料が多くはない時期の様子が詳しく書かれているのも貴重。
ただし、太宰の女性関係と情死に関しては、直接の言及はない。
他の評伝を読むと、太田静子が太宰の子供を出産し、太宰が山崎富枝の部屋で執筆を続けていた頃、太宰の自宅を訪れた堤茂久は、綺麗好きの美知子夫人にしては、障子・襖・畳は傷んだままで、荒れ具合が尋常ではなかったので、何か起きているのだと思ったという。
この回想にはそういう生活の様子や夫人の心情については一切書かれていない。
太宰が外泊続きで自宅にいないことも多く、子供2人を抱えて経済的・精神的にもかなり苦しい日々だったのでは..と想像できる。
こういう文章が書けるほどの知的な才女で常識的な妻に対して、太宰は息が詰まるような堅苦しさを感じていたいのかもしれない...と思ってしまった。
太宰晩年の短編「おさん」の結末では、(まるで太宰が自らの最期を予期(それとも予告?)したかのように)夫が女性記者と諏訪湖心中する。
妻に宛てた遺書の手紙を読んだおさんは、三人の子供を連れて遺体の引取りに向かう列車のなかで、「悲しみとか怒りとかいう思いよりも、呆れかえった馬鹿々々しさに身悶えしました。」
私には、太宰が妻の心の内を見透かして書いた短編のように思える。
<書評>
講談社文芸文庫『回想の太宰治』津島美知子[講談社100周年企画/この1冊]
『回想の太宰治』津島美知子(講談社)[評者:阿部公彦]
松本 侑子『恋の蛍: 山崎富栄と太宰治』
太宰と情死した山崎富栄の伝記。太宰の評伝で必ず登場する人で、あだ名が「スタコラさっちゃん」。
その名の由来は、てきぱきと手際がよく、太宰がわがままを言っても、すぐに応じて駆け出していくので。
彼女のプロフィールを調べたことがなく、昔は彼女に対するイメージが良いとはお世辞にも言えなかったけれど、この本を読んでそれがすっかり変わった。
父親の山崎晴弘は日本最初の美容学校である「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)の設立者で、富栄も優秀な美容師。
当時、三鷹の美容院に勤めていた戦争未亡人の富栄は、たまたま屋台のうどん屋で太宰と知り合った。
太宰にすっかり入れ込んだ富栄は、働いてこつこつ貯めた貯金(約20万円。当時では結構な金額)を、太宰の好きな食べ物や薬代などに使ったり、体調の悪い太宰を看病したりと献身的な人で、太宰もそれに甘えてかなり頼っていた様子。
日記には、太宰との生活が克明に書かれていて、当時の状況が良くわかる。
現在進行中の日記ということもあって、美知子夫人の回想録とは正反対の極めて情緒的な筆致。
山崎富栄の立場や視点のバイアスがかなりかかっているかもしれない。
坂口安吾『不良少年とキリスト』
太宰と親交があった安吾らしい太宰論。
安吾は太宰本人を知っていただけあって、太宰の人間的な弱さをよく突いている。
太宰の作品や伝記を読んだ印象でも、安吾の指摘は全くその通りと思える。
「芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。」
「思想とは、個人が、ともかく、自分の一生を大切に、より良く生きようとして、工夫をこらし、必死にあみだした策であるが、それだから、又、人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。
太宰は悟りすまして、そう云いきることも出来なかった。そのくせ、よりよく生きる工夫をほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、尚、できなかった。然し、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちッとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イヤというほど、知っていた筈だ。
太宰のこういう「救われざる悲しさ」は、太宰ファンなどゝいうものには分らない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青くさい思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。
太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいゝ、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ。
それをさせなかったものは、もろもろの彼の虚弱だ。そして彼は現世のファンに迎合し、歴史の中のM・Cにならずに、ファンだけのためのM・Cになった。」
「だいたいに、フツカヨイ的自虐作用は、わかり易いものだから、深刻ずきな青年のカッサイを博すのは当然であるが、太宰ほどの高い孤独な魂が、フツカヨイのM・Cにひきずられがちであったのは、虚弱の致すところ、又、ひとつ、酒の致すところであったと私は思う。」
「然し、太宰の内々の赤面逆上、自卑、その苦痛は、ひどかった筈だ。その点、彼は信頼に足る誠実漢であり、健全な、人間であったのだ。
そういう自卑に人一倍苦しむ太宰に、酒の魔法は必需品であったのが当然だ。然し、酒の魔術には、フツカヨイという香しからぬ附属品があるから、こまる。火に油だ。」
不良少年とキリスト[青空文庫]
長部 日出雄『桜桃とキリスト―もう一つの太宰治伝』
太宰が書き残した言葉「井伏さんは悪人です」に関する読解がわかりやすい。その部分はかなりページを割いて論証している。
猪瀬直樹の推理よりも、緻密で説得力はあると思える。井伏像についても、文人として、太宰の師として、肯定的。
太宰が下書きしていた、井伏への批判文を読むと、太宰の身勝手さがよくわかる。
自分は人を愛することができない...と言っていた通り、極めて自己愛の強いナルシストなので、批判されることには耐えられない人なのだろう。
それにしても、井伏の面倒見の良さには驚いてしまう。太宰の死後、「私は太宰には情熱をかけました」と語ったという。
猪瀬直樹『ピカレスク』
猪瀬の見解では、「太宰は生きようとしていた。死は、まだ道具だと思っている。」
情死の顛末については、定説だった山崎富栄主導論に近い。
長部の伝記とは異なり、井伏鱒二は世評ほどに優れた文人ではなく、太宰に関してもかなり冷淡なところもあったような描き方。
<参考サイト>
太宰ミュージアム公式サイト
※右カラム中段の「タグリスト」でタグ検索できます。
作家のなかでも太宰には、私には理解できない類のエピソードが尽きない。
太宰に対して肯定的・否定的な両方の立場から書かれた評伝や分析を読むと、彼の生き方に共感できない部分は多い。
といっても、私は太宰信奉者では全くないけれど、太宰の作品を読むと、彼の天才を感じさせられるものは多い。
それに、昔ほどには嫌悪感みたいなものを覚えることは無くなっている。(それでも『人間失格』(などいくつかの作品)を再読したいとは全く思わない。)
太宰の伝記・評伝は多数あるけれど、太宰に対して、極めて”客観的”というか、距離を置いて冷静に回想したかのように思えるのが、津島美知子夫人。
太宰の人間的な弱さを手厳しく指摘したのは、太宰と同世代の作家で親交もあった坂口安吾。
この2人の文章から垣間見える太宰の人間像が、私には一番納得できる。

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文筆家でもない夫人が書いた物故作家の回想録の中では出色。
美知子夫人は、太宰と結婚するまでは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)文科を卒業後、山梨県立都留高等女学校の教諭として、地理と歴史を教えていた。
理路整然とした観察的な文章のなかに、太宰の人間性を端的に集約したような形容が随所に現れている。
太宰と日常生活を共にした女性しか知らないエピソードも多く、戦時中に太宰の津軽の実家へ疎開した頃の生活や親族との関係など、あまり資料が多くはない時期の様子が詳しく書かれているのも貴重。
ただし、太宰の女性関係と情死に関しては、直接の言及はない。
他の評伝を読むと、太田静子が太宰の子供を出産し、太宰が山崎富枝の部屋で執筆を続けていた頃、太宰の自宅を訪れた堤茂久は、綺麗好きの美知子夫人にしては、障子・襖・畳は傷んだままで、荒れ具合が尋常ではなかったので、何か起きているのだと思ったという。
この回想にはそういう生活の様子や夫人の心情については一切書かれていない。
太宰が外泊続きで自宅にいないことも多く、子供2人を抱えて経済的・精神的にもかなり苦しい日々だったのでは..と想像できる。
こういう文章が書けるほどの知的な才女で常識的な妻に対して、太宰は息が詰まるような堅苦しさを感じていたいのかもしれない...と思ってしまった。
太宰晩年の短編「おさん」の結末では、(まるで太宰が自らの最期を予期(それとも予告?)したかのように)夫が女性記者と諏訪湖心中する。
妻に宛てた遺書の手紙を読んだおさんは、三人の子供を連れて遺体の引取りに向かう列車のなかで、「悲しみとか怒りとかいう思いよりも、呆れかえった馬鹿々々しさに身悶えしました。」
私には、太宰が妻の心の内を見透かして書いた短編のように思える。
<書評>
講談社文芸文庫『回想の太宰治』津島美知子[講談社100周年企画/この1冊]
『回想の太宰治』津島美知子(講談社)[評者:阿部公彦]

![]() | 恋の蛍: 山崎富栄と太宰治 (光文社文庫) (2012/05/10) 松本 侑子 商品詳細を見る |
太宰と情死した山崎富栄の伝記。太宰の評伝で必ず登場する人で、あだ名が「スタコラさっちゃん」。
その名の由来は、てきぱきと手際がよく、太宰がわがままを言っても、すぐに応じて駆け出していくので。
彼女のプロフィールを調べたことがなく、昔は彼女に対するイメージが良いとはお世辞にも言えなかったけれど、この本を読んでそれがすっかり変わった。
父親の山崎晴弘は日本最初の美容学校である「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)の設立者で、富栄も優秀な美容師。
当時、三鷹の美容院に勤めていた戦争未亡人の富栄は、たまたま屋台のうどん屋で太宰と知り合った。
太宰にすっかり入れ込んだ富栄は、働いてこつこつ貯めた貯金(約20万円。当時では結構な金額)を、太宰の好きな食べ物や薬代などに使ったり、体調の悪い太宰を看病したりと献身的な人で、太宰もそれに甘えてかなり頼っていた様子。
日記には、太宰との生活が克明に書かれていて、当時の状況が良くわかる。
現在進行中の日記ということもあって、美知子夫人の回想録とは正反対の極めて情緒的な筆致。
山崎富栄の立場や視点のバイアスがかなりかかっているかもしれない。

![]() | 堕落論 (角川文庫) (2007/06) 坂口 安吾 商品詳細を見る |
太宰と親交があった安吾らしい太宰論。
安吾は太宰本人を知っていただけあって、太宰の人間的な弱さをよく突いている。
太宰の作品や伝記を読んだ印象でも、安吾の指摘は全くその通りと思える。
「芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。」
「思想とは、個人が、ともかく、自分の一生を大切に、より良く生きようとして、工夫をこらし、必死にあみだした策であるが、それだから、又、人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。
太宰は悟りすまして、そう云いきることも出来なかった。そのくせ、よりよく生きる工夫をほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、尚、できなかった。然し、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちッとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イヤというほど、知っていた筈だ。
太宰のこういう「救われざる悲しさ」は、太宰ファンなどゝいうものには分らない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青くさい思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。
太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいゝ、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ。
それをさせなかったものは、もろもろの彼の虚弱だ。そして彼は現世のファンに迎合し、歴史の中のM・Cにならずに、ファンだけのためのM・Cになった。」
「だいたいに、フツカヨイ的自虐作用は、わかり易いものだから、深刻ずきな青年のカッサイを博すのは当然であるが、太宰ほどの高い孤独な魂が、フツカヨイのM・Cにひきずられがちであったのは、虚弱の致すところ、又、ひとつ、酒の致すところであったと私は思う。」
「然し、太宰の内々の赤面逆上、自卑、その苦痛は、ひどかった筈だ。その点、彼は信頼に足る誠実漢であり、健全な、人間であったのだ。
そういう自卑に人一倍苦しむ太宰に、酒の魔法は必需品であったのが当然だ。然し、酒の魔術には、フツカヨイという香しからぬ附属品があるから、こまる。火に油だ。」


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太宰が書き残した言葉「井伏さんは悪人です」に関する読解がわかりやすい。その部分はかなりページを割いて論証している。
猪瀬直樹の推理よりも、緻密で説得力はあると思える。井伏像についても、文人として、太宰の師として、肯定的。
太宰が下書きしていた、井伏への批判文を読むと、太宰の身勝手さがよくわかる。
自分は人を愛することができない...と言っていた通り、極めて自己愛の強いナルシストなので、批判されることには耐えられない人なのだろう。
それにしても、井伏の面倒見の良さには驚いてしまう。太宰の死後、「私は太宰には情熱をかけました」と語ったという。

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猪瀬の見解では、「太宰は生きようとしていた。死は、まだ道具だと思っている。」
情死の顛末については、定説だった山崎富栄主導論に近い。
長部の伝記とは異なり、井伏鱒二は世評ほどに優れた文人ではなく、太宰に関してもかなり冷淡なところもあったような描き方。
<参考サイト>
太宰ミュージアム公式サイト
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