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メルニコフ ~ ショスコターヴィチ/24の前奏曲とフーガ 第7番イ長調
ショスタコーヴィチの《24の前奏曲とフーガ》は、20世紀以降に書かれたピアノ作品のなかでも傑作の一つ。

昔からの名盤とされるのがニコラーエワ。3度のスタジオ録音やライブ録音があけれど、ニコラーエワのバッハが好きではないので、やっぱりこのショスコターヴィチとも相性が悪い。

この曲集の全曲録音は多くはないので、以前からあるのは、アシュケナージ、シチェルバコフ、ムストネンくらいだろうか。
アシュケナージはベートーヴェンのヴァイオリンソナタ以外で聴くことはないピアニストなので、ショスタコーヴィチを聴くときは、シチェルバコフとムストネン。
両者とも音の純度と透明感が高いけれど、ムストネンは独特のノンレガートなタッチとアーティキュレーションが面白く、ほかのピアニストでは聴けないような演奏。
シチェルバコフの方は、蒸留水のような透明感のある音色で、アーティキュレーションもクセがなく、水彩画のような色彩。多分一般的にはシチェルバコフの方が聴きやすい。
それに、ムストネンのスタジオ録音は、バッハの平均律曲集の曲が、数曲ごとにショスコターヴィチと交互に入っているおいう、変わった構成。
ショスタコーヴィチだけ聴きたいときにはCDプレーヤーでプログラム登録するか、音源をデジタル化して再編集したCDを作らないといけない。

(たぶん)最新の全曲録音はアレクサンドル・メルニコフのharmonia mundi盤。
”BBC Music Magazine Awards 2011”の器楽部門で受賞した録音で、聴いてみればそれも当然と思わせられるほどにとても魅力的。

ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ Op.87(全曲) (Shostakovich : The Preludes & Fugues / Alexander Melnikov) (2CD+1DVD) [Import from France]ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ Op.87(全曲) (Shostakovich : The Preludes & Fugues / Alexander Melnikov) (2CD+1DVD) [Import from France]
(2010/05/21)
アレクサンドル・メルニコフ

試聴ファイル


HMVのレビューで、ショスコターヴィチのこの曲集を"解読した"演奏というレビューがあって、この表現にはなるほど~と納得。
ダイナミックレンジが広くディナーミクが大胆、色彩感豊かな音色と弱音の微妙なコントロールとニュアンス、リズム感の良さなど、技巧的な切れ味が鮮やかで、現代的なシャープさとスマートさが爽快。
そういう技巧的な面以上に、各曲ごとの曲想が明確に弾き分けられ、生き生きとした躍動感と淀みない流麗な音楽の流れ。
現代的な曖昧で不確実なくぐもり感、コラールのような思索的・瞑想的な静けさや孤独感、"暴力的な"フォルテの持つ力強さと荒々しさまで、この曲のもつ様々な側面を解き明かしてくれる。

ムストネンとシチェルバコフは、いずれも音色の美しさと明晰な演奏で聴きやすくはあるけれど、タッチとアーティキュレーションが曲ごとにやや似かよった部分もあって、全曲聴きとおすには少し単調さを感じることがある。
メルニコフは、ディナーミク、色彩感、リズム感、ソノリティなど、技巧的な要素がずっと多彩で、曲ごとの表情の変化がダイナミック。全曲聴いていても飽きることがなく、いろいろ新しい発見が多くて、とても刺激的。
シチェルバコフが蒸留水や水彩画のような透明感があるのとは違って、メルニコフは水彩画でも濃淡が明瞭で、濃厚な色彩の油絵にもなる。
表現の幅が広くて多彩なので、第1番から第24番まで聴いていくと、次から次へと色彩も図柄も変わっていく絵巻物を音で聴いているような感覚。
あまりにも面白くて魅力的すぎるので、メルニコフ以外でこの曲集を聴くのは当分できなくなりそう。


こちらはCDのプロモーション用公式映像。
Alexander Melnikov: 24 Preludes & Fugues, op.87



この曲集でもっとも好きなのは、第3番と第7番のフーガ。
特に第7番のフーガのピュアな美しさは一度聴いたら忘れられないほど。
5音音階のフーガの主題は、もともとはピオニール(少年団)のラッパの旋律。
この曲のメルニコフの演奏はとりわけ美しい。
複数の声部を、音色の違いと明確なフレージングではっきりと弾き分けているので、立体感があって、明晰。
弱音からフォルテへと盛り上がっていくところはダイナミックで、きらきらと明るく輝いている。
ソノリティの美しさは格別。弱音の多彩な音色とニュアンスが素晴らしく、特に高音の綺麗なこと!
澄み切った湖のような透明感や色とりどりの鐘が鳴っているような美しい響きがとても素敵。

Alexander Melnikov plays Shostakovich Prelude and Fugue,Op.87,No7 in A major)(Fugueは1:08~)




アレクサンドル・メルニコフにインタビュー[サイト:ピアニストたちの素顔]


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tag : ショスタコーヴィチ メルニコフ フーガ

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ジャンケレヴィッチ著『ドビュッシー 生と死の音楽』 ~ 3.出現 【読書メモ】
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読書メモ(要点抜粋)
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3 出現
水に映る影
ドビュッシーは、一見するところ、無定形に溶解するものの詩人であることに限りはない。
彼にとって、無定形とは無数の形への可能性を意味する。...重要なのは、ドビュッシーが連続か不連続かの二者択一を超越していることだ。連続する生成が前進できるのも、それを動かす不連続の瞬間のおかげである。限りなく不連続になったトビュッシーの連続があり、それは視角によってつながったり、途切れたりするように見えるのだ。

ドビュッシーは、《前奏曲》のタイトルを曲の終わりに記した。彼にとっては、楽想を大雑把に固定し、ひじょうに漠然とした枠組みをわれわれの夢に与えるだけで充分なのである。この枠組みなら、前奏曲から生まれる詩的な震動が広がっていけるであろう。ドビュッシーはまるで、自分が選んだ舞台背景をできるだけわれわれから遠ざけようとしているかのようだ。デルフォイも、カプリも、マドリッドも、非現実なあたかも存在しないかのような場所となる。

遠景とは、広がりであるばかりか、収縮でもあるということだ。
現実は彼方の神秘によって変形され、昇華される。精神の屈折でできた光暈が、どんなにくっきりと描かれた姿形でも曇らせてしまう。
この意味で、完全な写実主義者といえば、ドビュッシーではなくラヴェルであろう。ラヴェルは、《子供と魔法》で見られるように、木、火、灰、といった物自体にしゃべらせ、ドビュッシーは物に対する自分の感じ、もしくはフォレのように、その感じに対する感情を伝えてくる。印象は、間接的に受け入れられるか、あるいは別の感覚を通して屈折されることになる。....たとえば何かの形を通して聴こえてくる音、《葉ずえを渡る鐘》、《水に映る影》、《映像》など....。ドビュッシーではあらゆる物音が、多かれ少なかれ葉ずえを渡って濾過されるようだ。

ドビュッシーの音楽は、どれだけ事物や物音に密着しようとも、それらと一体化するまでにはいたらず、またそれらをもとのままの形で伝えることもない。ドビュッシーには文字通りの擬音はない。どのざわめきも、音も、溜め息も念入りにつくられ、見分け難くなっている。


ほとんど無なるもの、風と雲
永遠と非在、出現と消滅、実在と虚性が一致するのは一瞬のことである。ドピュッシーの音楽の無限小の芸術であるからだ。....物音が沈黙から立ち昇るときや、物音が沈黙へ戻るときに、彼はピアニッシモを使う。存在は、どっしりと厚みのある量の中にではなく、きわめて微細な薄さの中に求められる。実際、瞬間のきらめきが出現するのは衰弱や稀薄が極まったときである。
ドビュッシーの言葉が語る自然の力や大気現象は、森羅万象の中でもっとも頼りがいも重さもなく、感知しがたいものである。
ドビュッシーにおいてほとんど無なるものは、といわけ軽妙でうっとりするような事物の形となって現れている。たとえば夕暮れの大気の中を漂う発散物であり、束の間の色合い、虹以上に気化しやすい蜃気楼、水に映る影など。ドビュッシーが好むのは、堅さや実体のない幻影そのものであるからだ。


メリザンド、最後のピアニッシモ
《高雅な踊り手》を見ればもうわかるように、ほとんど無なるものというこの神聖な頼りなさを具現するのは女性である。

ドビュッシーの音楽は、実際静けさに満ちている。そのすき間には沈黙が入り込み、音間は広がり、譜表は風通しがよくなっている。沈黙とは大洋の中心であり、和音たちが一息つくところである。
ドビュッシーの静寂は、音楽の内部だけでなく、とくにその始めると終わりの両端にある。クレッシェンドとデクレッシェンドが、沈黙から出て沈黙へ帰る一つの物語を形成する二斜面のように呼応している。つまり終わりから論じ始めたのだ。
全ての音楽が生まれる最初の静寂からでなく、大河が宇宙の周期を巡って海へ戻るように、全ての音楽が立ち帰る最後の静寂から。

《花火》は、虚しい一日の、いわば24番目のひとときであり、降るような星と大きな打ち上げ花火のもとで終結する。
虚しい一日は、真夜中の極めて虚しい虚飾に満ちた、束の間の大詰めによって終わりを告げる。《ペリアス》第4幕最後のように「星がみんな落ちてくる!」。落下して消えていく打ち上げ花火、これは粉々に砕けた時間性の最後の名残であろう。
《花火》の渦巻きは、ドビュッシーの不動性を表す虚しい宙返り。ドビュッシーの場合、速度そのものがその場に止まっていることの方が多い。
夜空には、キラキラ光る不協和音な音が縦横無人に走り、細かい音の滝が、突然光線によって遮られる。
24の最後の瞬間を捉えた曲集の最後、《前奏曲》第24曲の終わりでは、最後の打ち上げ花火が落下して7月の暑い夜空へ消えていき、はるか彼方でマルセイェーズ”が息途絶える…。虚無の虚しさ!世の栄光はこうして過ぎ去っていく。昔の恋人たちは死に絶え、国の祝日の束の間のにぎわしさも消えてしまう。ひとたちこの華やかさがなくなれば、あとに残るのは煙の刺激的な香りだけである、きらめく火房とベンガル花火の魔法に照らし出されたと思う間もなく、夜の闇が空間を再び支配する。

ドビュッシーでは、最小のニュアンスにまで微分された衰退のあらゆる段階が表現されている。<弱まりながら><消えるように><できるだけ弱く><かろうじて聞こえるように><それとわからぬほどに><ほとんど聞こえないほど><さらにほとんど聞こえないほどに><もはや聞こえないほどに><消滅するように>。


最初のピアニッシモ
もう一つの非在、もう一つのピアニッシモ、存在が出現する最初の非在、この出現を包む最初のピアニッシモ。
最後の静寂の境い目にあるあの世のピアニッシモと、最初の静寂の境い目にあるこの世のピアニッシモとは、お互いに全く違っている。たとえ音の強度が同じであっても、最後のピアニッシモ-最後の一吹きや死にゆくものの臨終の域にも似ている-は過去の思い出であり、最後の名残に過ぎない。
だが、最初のピアニッシモは、逆に未来へ向かっているのだから、その本質からして約束、希望、予言である。...これは意識に向う側へ行ってしまった沈黙ではなく、まだ意識にのぼらない沈黙である。

ドビュッシーでは、この最初のピアニッシモが朗々と響き渡るピアニッシモになっていることがよくある。
ドビュッシーの響きの秘密は、倍音の使用、声部間の開き、和音の中の適切な音によるアタック、属九のまろやかさにある。
強烈なピアニッシモ、情熱的に響くピアニッシモは未来を告げているからこそ、始まりのピアニッシモなのだ。

喜びの島と消え行く出現
生まれる前の静けさと死の静けさとの間で、初めと終わりの真ん中で、まわりを非在という海に取り囲まれた響き渡る島のように音楽が浮かび上がってくる。
《喜びの島》は、その歌といい、踊りといい、ドビュッシーのものでしかありえない。音楽内部の沈黙であるオアシスは、砂漠という永遠の沈黙の中で、笑い声や詩や歌のある人間的なオアシスとなるだろう。

瞬間とは単に消滅であるのみならず、当然出現でもある。
瞬間のきらめきは、ひらめきと消滅の両方である。まさに正午が絶頂であると同時に引き潮の始まりでもあるように。
《花火》の天空で輝く多彩な閃光は、すぐに消滅する華というだけでなく、何よりもまず消えるからこそ華にもなる。
24の《前奏曲》、前の続きではない不連続の瞬間、これらは24のまたたき、24回繰り返される不意の出現である。だから2巻の曲集全体が、永遠に始まろうとする音楽なのだ。そこで連続することといえば、行進という行為そのものだけといえよう。消え行く出現である《前奏曲》。


束の間の出会い
人間の生は、先立つ永遠と後続の永遠という静寂の中から立ち現れる。
不思議な凍てついた前奏曲《雪の上の足跡》では、未知からやって来たその人は、雪の中をあてものなくさまよい歩き、ふたたび神秘へと戻っていく。見捨てられ、誰もいなくなった荒涼としたその風景には、ほろ苦い後悔が屍衣のようにまとわりついている。
この世という中間地帯に隣接する神秘の世界は、この中間地帯の実性をより明らかにし、白日のもとに輝かせるためののみ存在する。敏速な《運動》とゆったりあした《雪の上の足跡、それらが意味するところは同じだ。

《運動》の動きは、無から無へ...、無から出てさらなる無へと行く。この頭も尾もない、初めも終わりもない運動、それは、荒野をわたる風と同じく運動そのものではないか? 前奏曲《荒野をわたす風》は、太古からの風のうめき声を、創世以来ずっと続いてきた、そして永久に終ることのないうめき声をいわば切り取ったものである。

どの前奏曲も、《枯葉》や《雪の上の足跡》を思わせるものでさえ、新しい始まりであると言ったが、それは24の前奏曲が24回繰り返される再生だからである。絶えず新しく、そしていつも動かない旅立ち、つねに現在である今、永遠の至点、絶えず繰り返される初めての歓迎、これこそが、初めと終わりの神秘によって明るみにだされるものである。

ちょうど落下と浮揚、深淵への傾斜と高みへの上昇が、生という一つの躍動に二相に他ならないように、死と愛は、まったく同一の神秘にほかならないのである。ドビュッシーの音楽は、生と死の連帯、われわれが運命づけられている非在、存在のワクワクするような豊饒さを我々に告げているのである。その音楽は、神秘と詩の言葉によって、この世で何よりも大切なのは、世界そのものとその偏在性であると教えている。


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tag : ジャンケレヴィッチ ドビュッシー 伝記・評論

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ジャンケレヴィッチ著『ドビュッシー 生と死の音楽』 ~ 2.実在 【読書メモ】
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読書メモ(要点抜粋)
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2 実在
光と高さ(ドビュッシーの秋の詩とは違った側面について)

《グラナダの夕暮れ》《アナカプリの丘》《デルフォイの舞姫》《パゴダ》《イベリア》は、大洋の風景画ではない。これは東洋の、あるいは真昼の地中海の景色、光に燃え立ち、目も眩む光線に焼かれた風景だ。単色ノグリザユのあとには眩い光がある。
ドビュッシーの豊かな嬰音への好みは、光に対する意欲の現れである。

《金色の魚》でも嬰へ長調がきらめいて光の束を投げかける。《パゴダ》も黒鍵を駆使し、《そして月は廃寺に落ちる》でも経過的に豊かな嬰音が現れる。《グラナダの夕暮れ》はとくにあらゆる調性、光、香りの校訂本のようなものだ。
《喜びの島》は、熱の篭もった甲高いイ長調のギラギラした率直な光に照らされている。

ドビュッシーにおいては、夜そのものが光るのだ。
《イベリア》の夜の音楽である《夜の香り》と《月の光がそそくテラス》では6個の嬰音が、星をちりばめた闇の中でサファイヤのようにキラキラと輝いたり、また、「高い枝枝が成す薄明かりのもと」で無数の眼差しのような嬰音が燐光を放つ。

ドビュッシーの音楽:下方領域、地底の深淵、あるいは海底の深淵。残りの半分の上方領域の大気空間。
ドビュッシーのピアニズムではピアノの澄んだ高音域が使われる。

空間と遠景
遠景の効果は、特にドビュッシーの大得意な魔法である。ムスルグスキーとアルベニスは別として、彼ほど広がりや広大な空の印象を与えてくれる音楽家は、おそらくいないだろう。生物、大気現象、鉱物をあのように同時共存させることができるのは、宇宙的な偏在感覚に加えて、遠近法の視点があるからなのだ。早足で通りすぎて東西南北を結びつける風、荒野の風に運ばれた物音は、無限の彼方からやって来て、また無限の彼方へ去っていく。ドビュッシーの空間を満たす物音は、近づき、遠ざかる。現前から見えないところへ去り、ついにはもとの沈黙の底へ消えていく。

ドビュッシー固有のものは、何と言っても偏在性に対するある種の直観であろう。並はずれて鋭敏な感覚の持ち主である彼は、全世界の多様な存在を同時に感じ取れる。つまりそこに居ないすべての存在と、こうした不在が居るはずの無数の<他所>の潜在的な存在を感知できるのだ。
天、地、海の生き物が....大気という無限の広がりを通り抜けて、自分たちの運命のままに、奇妙にもお互いに脈絡なく存在しているのだ。
空間とは散在する全ての存在の運命が共存する場ではないか?


客観性
ドビュッシーのなかにある感覚信仰や自然の存在への愛着が、ショソンを代表とする苦む主観性や内省的意識への治療薬として作用する。ドビュッシーは果てしなく反芻される内省や孤独な独白、また唯我論に陥ったりはしない。
彼にとって、風景は心の状態ではない。風景は風景だ。

ドビュッシーが前奏曲と呼ぶ典型的な、静止した絵のような映像は、いかなる心情の吐露とも違って、つねに非個人的、客観的性格を持っている。
音楽によって浮かびあがった、幻覚を誘うこうした映像のどこかにドビュッシー個人がいるのだろうか?個人としてのドビュッシーその人は、陶然となって、夜と、光と、真昼の光と、真夜中の闇と一体化する。金色の魚、フェルトの象、道化役者の体長にと次々と姿を変える。
このように主体が客体の中へ埋没すること、<写実主義>と呼ぶのがふさわしいだろう。

直接性、物自体
ドビュッシーの客観性は、少なくとも一見したところ無媒介の客観性である。彼にとって現実の喚起とは、主観を通して現実を置き換えることではないし、まして感じられた与件に関する説明付きの省察でもない。彼の音楽においては、全存在のどんな卑小な物音でもほとんど直接に、つまり象徴的な置き換えなしに伝わってくる。
最初に与えられたものが、いかなる第2次的な構築よりも優先する。ピアノのための《映像》第4曲では、たしかに<葉ずえを通して>鐘の音が感知されるが、音楽的なざわめきを濾過するのは物自体なのだ。湿った葉が鐘の響きを蒸発させ、<虹色に輝く水蒸気>に変えて行く。

ドビュッシーも......音楽は髪のためではなく、耳のためにつくられるものであると断言している。それは抽象的な図形ではなく、聴かれる実体なのだ。
彼が目指そうとするのは、美化するための距離を置かない粗野な真実、媒概念のない、お上品ぶった理想化のない生の真実であるからだ。
ドビュッシーの音楽は、鳥の歌や泉の湧き出る音をそのまま語ることになる。すなわち様式化は最小限に止められるわけだ。

24の前奏曲を終らせるのは、勝利でも輝かしい栄誉でも気取った行列でもなく、現実に国の祝日で聴かれる本物の騒音である。
概して、《前奏曲》は、ヒース、水上の帆、枯葉、打ち上げ花火、風、霧といった物、自然現象、事象をテーマとしている。しかしときには《交代する三度》に見られるように、三度音程という上品で気取った抽象的な対象を使って、両手が鍵盤上で曲芸をすることもある。
《前奏曲》がたまたま生き物の姿を喚起するとしても、それは、パック、水の精、亜麻色の髪の乙女、ラヴィーヌ将軍といった非現実な、この世にいない存在である。これは現実感の欠如ではなく、むしろ無名の事物への好みをあらわしている。これらの人物は誰でもない。事物が物理的にそこにあるだけだ。
《雪の上の足跡》では、この足跡を残した人間、無名の通行人、匿名の人はどこにいるのか?そこにいない人によって雪の中に残された痕跡とは、過ぎ去った過去の証しにすぎない。この人は存在しないに等しい。《運動》もやはり、動くものが何もない運動そのもの、動く主体のない運動だ。
ドビュッシーの作品は、全体として、このようにいかなる主観性からも超脱しているところがある。ドビュッシーが描く<子供らしさ>は、ラヴェルやサティの場合にも似て、奇妙にも物に動じない、うわべは泰然自若とした様子を見せている。

子供や動物と同じく女性も、この無邪気な世界では単なるものとしての形をとることがある。


点描画法、不連続と形式
ドビュッシーには、トルストイにも見られる分析的明晰さのようなものがある。トルストイは、蟻、テントウ虫、そのほかの虫たちが草原を見るように低いところから、上からではなく下から生を見ることを勧めている。
この音楽は、.....偏在する生命の無限小の細部が強烈な照明によってクローズ・アップされ、超好感度の精緻な筆致が、ピアニッシモで無数のささやきを分析してみせる。
ひしめく光と物音は、ドビュッシーにおいて見事に表現されている。常軌を逸した音が、濃霧の中からたち現れて点々と光ることがある。

ドビュッシーは神秘的ではあるが、彼の神秘は輝かしく、鮮明である。神秘的でありながら繊細を極めている。このくっきりした神秘は、ロマン主義の曖昧で霧深い夜の神秘とは正反対である。
ドビュッシーの音楽をすべて、暈し、擦筆画、なんとなく物憂いの気分の美学に管弦したり、ドビュッシーの中に解けて朧に霞むものだけを考慮して、シニャックやスーラにも似た<点描画法>を認めないとすれば、ドビュッシーの真実の反面を無視することになるだろう。
ドビュッシーには、曖昧さを拒否し、いかなる混乱とも正反対の<持続の弁証法>がある。


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ジャンケレヴィッチ著『ドビュッシー 生と死の音楽』 ~ 1.衰退 【読書メモ】
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読書メモ(要点抜粋)
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1 衰退
屈地性
ドビュッシーの下降線は、無限の彼方にある地点、絶対下よりもっと低く、非在すらも越えてしまう地点を目指している。
ドビュッシーの旋律線の特徴をなす傾きは、下向きの傾斜として譜表上に現れている(フォーレの特徴が上向きの浮上であるのとは正反対)
晩年の作品では、旋律線が描くアラベスクは、ザラザラした半音階にすっかりおおわれ、苦しげにきしんだ音をたてる。

海の深さ、波と噴水、雨
ドビュッシーの音楽はつねにセイレンや妖精オンディーヌの声に耳を傾けてきた。男たちを死の深みへと惹きつけるのは、川や湖の誘惑の化身ルサルカなのだから。彼女は魔女の歌を歌い、遭難した人々を海の底へ引きずりこむ。
海底の深さが、いかなるエネルギーもゼロになる<絶対下>であるのなら、海そのものは、何よりもまず廃墟の場、もしくはミシュレの言うように、解体を企てる場。ドビュッシーの音楽が暗示しているのは、物質の風化と崩壊。
窓ガラスに、屋根にあたる雨足のとは、何よりもドビュッシー的なものだ。雨とは水の要素が水滴となって、無数にならんで空間を落ちていくものだからである。それはデモクリトスの空間を移動する原子同様に単調な落下だ。
「・・・水滴がクラブサン音楽風に、ホ短調で規則正しく、容赦なく舞い落ちてくる」と、ドメル・ディニエ夫人が《雨の庭》について語っている。

グリザユと霧、二度について、連打される音
ドビュッシー的風景に特有の色は冬の白さではなく、むしろ秋の灰色の景色であろう。大洋の景色、砂と灰の色をした景色、また霞と憂いに満ちた風景である。
ドビュッシーは対照性の際立った、彫の深いくっきりとした風景画を求めたりはしない。パレット上で多色配合をすることではなく、無限小の段階にまでニュアンスを分ける。

二度はもっとも調和しない響き。この不協和音は隣り合う音をトゲトゲしく震わせる。
各々の手でピアノの白鍵と黒鍵を弾くと、<霧>の和声、灰色の和音が得られることになる。
短二度の向うにはただ一つの音があるだけだ。音程が狭くなり、単一の音、点としての音へ解消されるとき、それは和声解体の最終段階である。....ゼロの地点、深みの絶頂点、いかなる傾斜もなくなる深淵の頂き、天底に到達した旋律は、音階の同度上に並んだ単一音へ解体されるのだ。繰り返し音は、その場ではね回り、弦上の弓のように自分自身の上でバウンドし、そして最後には沈黙の中へ消えていく。.トレモロはもはや同一音の繰り返しでしかない。

阻止された生成、淀む水
反復音は崩壊の最終段階だけでなく、生成の停止をも表している。
解決のない属7や属9の完全和音の連続は、この凝固状態の兆候である。そこでは時間が止まり、風化するのだから。結局、あらゆる活力が衰え、下への傾きをつくっていた持続の前進的なリズムが弛緩するからだ。

ドビュッシーの生成は、どこにも通じて折らず、その終わりにはただ<無名の墓>があるだけだ。したがってこの生成は、袋小路、出口のない道、閉ざされた、いわば終末的な時間である。
ドビュッシーは、むしろ重い水、淀んだ水、動かない水......の音楽家。どこかへ行く水の流れ、小舟を運ぶ川、流れ進んで他の場所へ通じるものには関心がなく、水盤の同じ場所へふたたび落ちてくる噴水を眺めながらうっとりと夢見心地になるのだろう。
淀んでいるのは水の音楽だけでなく、ある意味では、ドビュッシーの音楽全体が、妙に静的で静止しているように見える。

運動:旋回について
ドビュッシーの音楽が、運動の精によって活気付くようにみえるときでさえ、その動きには停滞感がある。
ドビュッシーの旋律は、内側に曲がって、球状や、螺旋状になる。

ピアノのための「映像」の《運動》について:
真の動きではなく、回転木馬のような、その場を動かない運動である。
文字通り動かないものへの<無窮動>。《雪の上の足跡》と同じく、どこからどこへ行くのでもないこの《運動》は、出発点も目的地もない。動くと同時に静止した運動とは周期運動にほかならない。


前奏曲、さえぎられたセレナーデ
ドビュッシーにとって、一つの音楽的<思すい>とは、進歩しないもの、つまり始めと同様、中間になっても<前進>しないものである。
ドビュッシーは、感情の盛り上がりや表現の誇張には見向きもしない。ト短調のヴァイオリンとピアノのための《ソナタ》の人を陶然とさせるテーマは、展開への限りない可能性を含んでいるからこそ魅惑的であるのだが、ドビュッシーは意識的にそれを利用しようとはしない。彼の表現の簡素さには類がないだろう。

<静止状態>と論理的展開への嫌悪が特別な形で現れている。始まりが絶えず繰り返され、けっして後が続かない、展開への序文でもある《前奏曲》は、前口上であり続ける。
《前奏曲》とは、序文で永久に動かなくなった音楽だ。それは本題への果てしない前文であるから、本題が始めることはない。
《前奏曲》では、生まれたばかりの感情の流れがそっけなく寸断されることがよくある。
ドビュッシーの前奏曲は、それ自体がこの瞬間である。シューベルトやラフマニノフの《楽興の時》でいわれるロマン的、気分的な意味での<時>ではなく、瞬間なのだ。一時のうちの瞬間。ドビュッシーの24の前奏曲は、24枚のスナップ。完全に不動の24の光景、<全存在>の24枚の映像を固定したものである。各前奏曲は、事物の普遍的な生の一瞬を、世界の歴史の一時を不動化する。この普遍的な生はここで縦割りにされる。つまいその生は、いかなる生成からもいかなる連続からもはずれ、一切の前後関係をもたない永遠の現在のうちに留められるのだ。瞬間と永遠を合わせ持つこれらの映像は、<束の間の幻影>が入り混ざるつづれ織りを形作る。

《前奏曲》《版画》《映像》のいずれにおいても、世界の歴史は、瞬間的なひらめきの中で、束の間の出会いの一回性の中で捉えられる。しかしこの束の間が、ドビュッシーにおいては、永遠の<現在>になるのだ。そこにあるのは、もっとも虚しい事象、つまり枯葉、霧、ヒースだけであり、またもっとも無意味な雑報、つまり水に映る影、葉ずえを渡る鐘、広大な荒野を吹き抜ける風、雨の庭、窓ガラスの向うで踊る雪だけである。他にはまったく何も起こらない。舞い舞う白い蝶と変哲のない歌を歌う以外には。

ドビュッシーにおいては、過去そのものが、現在の裂け目から再現する。それもロマン主義者たちに見られるように夢という永続的な形をとるのではなく、プルーストやヴェルレーヌにおけるように瞬間的な閃光や稲妻によって現れるのだ。


正午の瞬間
前奏曲に縮約された世界の不動性は、一日の真ん中で頂点に達し、その時こをあらゆる可能性が現実態となる。正午とは、長い午後への先がけとなる静止した時間だ、
ドビュッシーの音楽は、瀬戸際で遅れがちになり、未決定の時間を引き延ばす。すべてを断ち切る決定的瞬間の間際で、一歩手前の瞬間が、一時停止のままになっている。
正午とは存在がその歩みの絶頂に達し、いままさに反対斜面を降りようとする時である。
だから、ドビュッシーの正午は、すでに黄昏の翳りの方へ傾いている。この太陽は、ボードレールにおけるように、衰えてもう瀕死状態の太陽である。


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ジャンケレヴィッチ著『ドビュッシー 生と死の音楽』 ~ 2.実在 【読書メモ】
ジャンケレヴィッチ著『ドビュッシー 生と死の音楽』 ~ 3.出現 【読書メモ】


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音楽サヴァン症候群 ~ 2000曲のオペラを記憶している「生き字引き」
脳神経学者オリヴァー・サックスの著作で、度々取り上げられている症例の一つが"サヴァン"。
"サヴァン症候群(savant syndrome)"とも呼ばれ、博識・碩学・賢者などを意味するフランス語の"savant"が語源。
サヴァン症候群の研究書として有名なものが、ダロルド・A・トレッファート『なぜかれらは天才的能力を示すのか―サヴァン症候群の驚異』(草思社,1990年)

トレッファートの定義によれば、サヴァン症候群とは、「発達障害(精神遅滞)ないしは重篤な精神病(早期幼児自閉症あるいは分裂病)による重度の精神障害をもつ人間が、その障害とはあまりにも対照的に驚異的な能力・偉才を示すこと」で、サヴァンの特異な能力は美術・音楽・文字読み・数学・記憶力などの分野で現れ、中でも音楽サヴァンがもっとも多く、美術の才能を示すサヴァンは少ない(出典)。サヴァン症候群に関するWikipediaの解説はこちら

サックスがとりあげる症例では、音楽サヴァンよりも視覚サヴァンが多い。
いずれも驚異的な視覚記憶力を持ち、一度見た物や情景を精緻に再現できる絵画の天才(児)が何人も登場する。
視覚サヴァンは音楽の分野でも同様の記憶力や演奏力を持っている場合もある。

音楽サヴァンで有名なのは、トレッファートの著書で紹介されているレスリー・レムケという女性。
音楽教育をほとんど受けていないのに、一度聴いた曲は何年経っても絶対に忘れず、ほぼ完璧にピアノで再現できるという。

サックスの『妻を帽子をまちがえた男』で取り上げられている音楽サヴァンは、2000曲のオペラを記憶している「生き字引き」のようなマーティン・A。

妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)
(1992/01/30)
オリバー サックス

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マーティンは、サックスが勤めているケアホームに61歳の時にやってきた。
子供の頃に患った髄膜炎による精神遅滞があり、パーキンソン病も患っていた。
正規の学校教育はほとんど受けていなかったが、メトロポリタン歌劇場の有名な歌手の父親から、直接音楽に関する教育を受けていた。
両親が亡くなってから、多くの職を転々としていたが、もしマーティンに「音楽的な才能や感受性がなく、音楽が与えてくれる喜びがなかったら、彼の人生は、憂鬱でつまらないものになっていただろう」とサックスは言う。

マーティンは、音楽について驚異的な記憶力を持ち、オペラなら2000曲以上知っているとサックスに話していた。
しかし、音楽を系統的に学んだというわけではく、譜面も読めない。彼の音楽的才能はその人並外れた耳の良さにあり、一度聴いただけで、オペラでもオラトリオでも記憶できたし、ピアノでそのメロディを弾くこともできた。
マーティンの父親は、音楽的な素養ばかりでなく、音楽に対する情熱をも、密接な親子関係を通じて、おそらくは精神遅滞の子に対する優しい愛情を通じて、彼に伝えたのだった。

マーティンは痙攣性音声障害のために歌手にはなれなかったが、彼は「生き字引き」として多少は名を知られていた。
熱狂的なオペラ通で、その音楽や膨大な数の公演内容(歌手名、背景や演出、舞台装置の細部など)を記憶している。
彼はこの驚異的な記憶力に子供のような喜びを感じているが、心から喜びを感じるのは、教会で聖歌隊の一員として歌っている時だった。
彼の人生にとって、それは唯一の支えになっていた。

マーティンの内面世界がどういうものなのか、サックスが説明しているが、世間知らずで実際的な知識はわずかで、そういうものに興味も持っていないようだった。
しかし、百科事典や新聞、アジアの河川地図やNYの地下鉄路線図などを、たちどころに直観的に記憶してしまう。
こういう記憶は、リチャード・ウォルハイムの言葉によれば、実存的自我とは無関係な単なる「非中枢性の」記憶。
そこには、何の感情も存在せず、脈絡なく、発展性もないし、応用性も無い。記憶銀行(メモリーバンク)のようなもので、生身の人格の一部ではないのだという。
しかし、その唯一の例外となる記憶が『グローブ音楽・音楽家事典』全9巻。全巻暗記しており、まさしく"生きたグローブ事典"。
このグローブ事典の記憶は、「きわめて個人的で敬虔な動機にもとづいた記憶」だった。病床にあった父親が、30歳になる息子に声楽のレコードを聴かせ、楽譜を出して、次から次へと歌っていった。
マーティンは読み書きはできなかったが、6000ページもあるグローブ事典を父親から読み聞かせてもらうと、全てを記憶していった。
グローブ事典を思い出すたびに、父親の声が聴こえ、彼は胸がいっぱいになるのだった。

ケアホームへやってきてから、マーティンは他の入所者とうまく付き合えず、精神的にも憔悴していった。
マーティンは何かを渇望しているようだったが、ケアホームのスタッフたちはそれが具体的に何なのかわからなかった。
「歌わなければいけないんです。歌なしでは生きていけません。それもただの音楽ではだめです。祈ることができませんから。」 
マーティンがそう訴えたとき、サックスたちはようやく彼が求めているものが何かを理解した。
ホームの近くの教会があったので、マーチンはそこの聖歌隊のメンバーとなり、それも、聖歌隊の幹部、相談役として迎えられた。
それ以来、彼の本来の居場所を取り戻したように感じることができたし、日曜ごとにバッハを歌って祈ることができた。聖歌隊幹部としてのささやかな権威も誇らしかった。

あるとき、サックスが<カンタータ>や<マニフィカト>のカセットを持って、マーチンを訪れた。
マーティンは精神遅滞という状態にも関わらず、バッハの複雑な技巧のほとんどを完全に理解できる音楽的知性を持っていることにサックスは気がついた。
「知能など問題ではなかった。バッハは彼のためにあり、バッハこそ彼のいのちだった。」

マーティンのような異常に優れた音楽的能力は、「適切な場面において自然なかたちで用いられるのでなければ、たんに常軌を逸したものにすぎない」と、サックスは書いている。

「父親にとって大切だったこと、それがマーティンにとっても大切だった。二人は、音楽の魂、わけても、宗教音楽の魂、声の魂を共有していたのである。」
「マーティンが実際に歌っている姿、音楽と一体になり、法悦の境地で一心に聴き、全身全霊をかたむけている姿こそ、まさに驚異であった。そのとき彼は「変身して」いたのである。欠陥や生理学的な問題はすべて消え去り、調和のとれた快活さ、統一のとれた健全さだけがあらわれていたのである。」

                         


サックスは、『音楽嗜好症』のなかでも、「2000曲のオペラ-音楽サヴァン症候群」という章でマーティンの症例を取り上げている。

音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々
(2010/07)
オリヴァー サックス

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マーティンは音楽的能力に加えて、驚異的な記憶力があり、読んだ本はすべて覚えていた(ただし、理解していないことも多かったが)。
音楽と同じく、耳から聴いたものを記憶する能力に優れており、まるで「蓄音機のような」記憶力がある。

マーティンは、『メサイア』や『クリスマス・オラトリオ』だけでなく、2000曲以上のオペラ、それにバッハのカンタータを全て知っているとサックスに話していた。
そこで、サックスは数曲の楽譜を使って、マーティンの能力をテストしてみたが、彼のあら探しをするのは不可能だと知ったのだった。
彼はメロディー(主旋律)だけではなく、各楽器や各声部の旋律まで記憶していた。
また、マーティンが聴いたことがなかったドビュッシーの曲をサックスが演奏すると、マーティンはピアノでそれをほとんど間違わずに再現した。しかも、それを移調してドビュッシー風に即興を交えて演奏した。
マーティンは、耳に入ってきた音楽なら、知らない曲だったり、趣味に合わない曲であっても、そのルールと約束事を理解することができるのだった。

症例報告だった前著の「生き字引き」とは幾分違って、「2000曲のオペラ-音楽サヴァン症候群」では、マーティンや他の音楽サヴァンたちの音楽的才能の源泉が何かということについて医学的考察が加えられている。
以下は、サックスの考察の要点。

マーティンは、父親の豊かな音楽的才能を受けつぎ、子供のころから音楽教育を父親から受けていた。
それだけではなく、視力が弱かったせいで、聴力と潜在的な音楽的能力が強化されたのか、それとも、大脳皮質の制御力や高次の能力を奪った髄膜炎が、それまで埋もれていたサヴァンの力を刺激したか、あるいは、解き放ったのか。

ロンドンのヘルメリンたちの研究では、音楽サヴァンの能力は、音楽の構造とルールの認識(おそらく潜在的で無意識下)に依存していることを確認している。
これは一般的な音楽スキルであり、それ自体は異常ではない。異常なのは、それが突出していることであり、言語や抽象的思考の発達が著しく遅れがちな頭脳にあって、その能力だけが異常に、ときに驚異的に、発達している。
左脳半球は抽象化と言語能力、右脳半球は知覚機能に関係しており、生後数週間で右脳半球の知覚機能が確立される。左脳半球はペースは遅いが発達しつづけ、やがて、独自の能力(概念形成と言語能力)を獲得すると、右半脳球の知覚機能の一部を抑制・阻止するようになる。

左脳半球が損傷を受けると、右脳半球優位への転換が起こる場合がある。これは5歳くらいまでの幼児や、程度は低いが成人にも起こりうる。
左側頭葉の損傷により、右脳半球の機能に対する制止や抑制を解く「脱抑制」が行われることがある。
この現象は、現在では経頭蓋磁気刺激法(TMS)で実験することができるが、解放効果があったのは被験者のうちの一部のみ。
研究者によって導きだされた結論は、「これらのメカニズムは誰にでも使えるものではなく、そのようなメカニズムにアクセスできる能力や、そもそもそのようなメカニズムをもっているかどうかが、人によって異なる可能性がある。」

サヴァンになるには、特別なメカニズムが必要であるかもしれないが、それだけでは不十分で、サヴァンたちは何年もかけて、自分の能力を伸ばしたり磨いたりしていると、トレッファートは言う。
「サヴァンであることは、ひとつの生き方であり、一つのまとまった人格なのだ」と、サックスは結んでいる。


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ポール・ジェイコブス ~ ドビュッシー/映像第2集
ドビュッシーの映像第2集は、第1集の『水にうつる影』に輪を掛けて幻想的。
そのせいか、捉えどころがなくてあまりきちんと聴いていなかった。
好きなはずのアラウの演奏だとちょっと重たい感じがして、ぴたっとこないところがあったので、こういう時は一番相性の良いピアニストの演奏で聴いてみるに限る。
現代曲を得意としたジェイコブスの演奏は、第1集よりも第2集の方が色彩感と響きの両方が多彩で、さらに冴えている。
ファンタスティックではあるけれど、音の視覚喚起力が強く、曲のタイトルとなっている情景がとてもリアルに浮かんできそう。

Debussy: Images/EstampesDebussy: Images/Estampes
(2002/08/04)
Paul Jacobs

試聴する(米amazon)[Nonesuch原盤にリンク]



《映像 第2集》 "Images 2" [ピティナの作品解説]

1.葉ずえを渡る鐘の音 "Cloches a travers les feuilles"
冒頭は、シサスク風の神秘的な和声でとても幻想的。
まるで宇宙のどこかで物質が徐々に融合し化学反応を起こして、新しい何かが生成していくようなイメージが湧いてくる。
やや冷たく硬い音色の高音が宇宙の冷たさを感じさせる。
"葉ずえを渡る鐘の音"を思い浮かべるなら、細かい伴奏的なオスティナートのパッセージが葉のざわめきで、高音の旋律線が鐘の音なんだろうと思う。
やがて、アルペジオと重音で動的なパッセージに変わり、フォルテで音がキラキラと輝いてくると、これは地上の世界のイメージ。
鐘の音が葉の間をするすると駆け抜けていくようなスピード感と方向感がある。
この曲は特に音色と響きが多彩で、葉が風に揺れるさわさわざわざわ感と、硬くて煌きのある鐘の音との質感の違いがよくわかる。
ジェイコブスの演奏は色彩感豊かで、単に音が並んでいるのではなく、歌うような細やかなニュアンスと流麗な旋律の流れがとても綺麗。
水・風・樹木などの自然をモチーフにしたドビュッシーの曲のなかでは、、最も一番ファンタスティックできらめくような色彩感があるので、一番好きな曲の一つになってしまった。

2.そして月は廃寺に落ちる "Et la lune descend sur le temple qui fut"
この曲は初めて聴いた時は、やたら音のまばらで隙間だらけの曲だな~と思ったもの。
朽ち果てた寺が人気のない静寂さのなかで佇んでいる雰囲気は"pagoda"とは違って、"temple"のイメージ。
時折現れる高音の旋律は東洋風で、これは月明かりに照らされたお寺の情景?
旋律や和声がとてもファンタスティック。残響が消えて音がほとんどない時間が挟まれていて、静(白黒)・動(カラー)が交錯していくのが面白い。

3.金色の魚 "Poissons d'or"
とても具象的なモチーフなので、幻想性が稀薄で、活動的で質感・量感のある具体的なイメージが湧いてくる。
金色の濃いが水の中で跳ね回って、水しぶきがあがったり、鱗が明かりに反射してきらきら輝いている様子。


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ジャンケレヴィッチ著『ドビュッシー 生と死の音楽』
今年も、昨年同様、随分暑い夏になりそうだけれど、なぜか夏になるとよく聴くのがドビュッシー。
昨年はアラウやベロフ、今年はポール・ジェイコブスのCDを手に入れたこともあるし、そもそもドビュッシーの音楽は夏に聴いても、全然暑苦しくないので。

昨年はじめてアラウのドビュッシーを聴いていると、ミケランジェリとツィメルマンではどうもピンとこなかった《版画》《映像》《前奏曲》が、とても不思議な音楽に聴こえてきて、面白い音楽体験だった。

アラウが"別の惑星の音楽"と言っていたドビュッシー。
ドイツ音楽とは全然違う、それにラヴェルやプーランクとも違う、捉えどころのない感覚をおぼえたので、ドビュッシーの作品を解説本を探してみた。
ピアニストの青柳いづみこさんのドビュッシー本が有名らしく、文庫版をいくつかちょっと見てみたけれど、どうも私の知りたいこととずれているような....。
結局、一番ピタっときたのが、フランスの哲学者ジャンケレヴィッチの『ドビュッシー 生と死の音楽』(船山隆・松橋麻利訳、青土社、1999/10/05)。
たまたま図書館で見つけた本。ジャンケレヴィッチはアドルノのように音楽評論の著者がいくつもあって、ラヴェルやリストに関する著書も翻訳されていた。

ドビュッシー―生と死の音楽ドビュッシー―生と死の音楽
(1999/09)
ヴラディミール ジャンケレヴィッチ

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『ドビュッシー 生と死の音楽』は、フランスの哲学者独特のスタイルというか、大学時代にいくつか読んだ現代フランスの哲学書や文学評論を読んでいるような感覚。
文体自体は読みやすいし(翻訳がわかりやすいせいかも)、アドルノの音楽評論のような哲学的知識が必要な難解さがないいので、ほっと一安心。
ジャンケレヴィッチは、博識を駆使してドビュッシーの音楽に流れている様々な概念を解き明かしていくので、ドビュッシーの作品全般に加えて、ラヴェルやフォーレ、バルトーク、リスト、ショパン等も聴いていないと、作品を例示/比較対照して論じている部分ではイメージが湧きにくい。

ドビュッシーというと、印象派の絵画に喩えられるように、色彩感豊かな絵や風景をイメージさせる視覚喚起的な音楽と思われている(たぶん)。
たしかにそういうところはあるのだろうけれど、音が綺麗に並んでいるような演奏よりは、アラウのように有機的な生命力を感じさせたるドビュッシーや、ジェイコブスのような"Songful"な演奏の方を聴く方が個人的にはずっと面白い。
そういう点で、ジャンケレヴィッチのドビュッシー音楽論は、謎の多いドビュッシーの音楽のミステリーを、直観的で詩的な感性と論理的な文章でもって、解き明かしてくれる。
ドビュッシーの音楽を構成している要素が何か、それが曲のなかでどういう音や配列で表現されているのか例示しているので、曲を知っていれば知っているほど、納得できるところは多い。

主な目次をひろっていくと...

1 衰退
●屈地性●海の深さ、波と噴水、雨●グリザユと霧、二度について、連打される音●阻止された生成、淀む水●運動:旋回について●前奏曲、さえぎられたセレナーデ●正午の瞬間

2 実在
●光と高さ●空間と遠景●客観性●直接性、物自体●点描画法、不連続と形式

3 出現
●水に映る影●ほとんど無なるもの、風と雲●メリザンド、最後のピアニッシモ●最初のピアニッシモ●喜びの島と消え行く出現●束の間の出会い

「衰退」で分析されている概念は、下降線、物質の風化と崩壊、調和しない二度の響き、内側に曲がり球状や螺旋状になる旋律、永久に動かなくなった"瞬間"の音楽(前奏曲)、寸断されり感情、瞬間的で束の間の出会いと永遠の現在、崩壊と生成の停止をあらわす反復音、など。

「実在」では、光に対する意欲(嬰音好み)、遠景、宇宙的な偏在感覚、遠近法、客観性(非個人的、客観的性格)、無媒介の客観性=直接性・物自体(象徴的な置き換えがない)、非現実なこの世にいない存在(妖精、架空の人物など)、主観性から超脱した分析的明晰さ、輝かしく鮮明で繊細な神秘、上からではなく下から生を見る視点、偏在する生命の無限小の細部、ピアニッシモの無数のささやき、など。

「出現」では、無数の形への可能性をもつ無定形、限りなく不連続になった連続、無限小の芸術(瞬間のきらめきが出現するのは衰弱や稀薄が極まったとき)、始めると終わりの両端にある静寂、過去の思い出で最後の名残りの"最後のピアニッシモ"、未来へ向かう約束・希望・予言の"最初のピアニシモ"、消滅と同時に出現である"瞬間"、絶頂であると同時に引き潮の始まりでもある"正午"、など。

ジャンケレヴィッチの結びの言葉。
「ちょうど落下と浮揚、深淵への傾斜と高みへの上昇が、生という一つの躍動に二相に他ならないように、死と愛は、まったく同一の神秘にほかならないのである。ドビュッシーの音楽は、生と死の連帯、われわれが運命づけられている非在、存在のワクワクするような豊饒さを我々に告げているのである。その音楽は、神秘と詩の言葉によって、この世で何よりも大切なのは、世界そのものとその偏在性であると教えている。」

ジャンケレヴィッチ自身、ピアノ曲が好きで、自身でもピアノを弾くせいか、とりあげている作品はピアノ曲が多い。
ドビュッシーのピアノ作品全集をよく聴いている人なら、例示として多数の曲があちこちで言及されているから、曲と楽譜を思い浮かべれば、理解しやすいはず。
ただし、有名な管弦楽作品への言及も多いし、特に《ペリアスとメリザンド》についてはかなり詳しい。ドビュッシーの作品全般をよく聴いていれば、この本は面白いさと理解しやすさが数倍は向上すると思う。

ジャンケレヴィッチの改行が少ない文章と独特の文体で、直観的な鋭さを感じさせる詩的な言葉が淀みなく流れるように湧き出てくる。
具体的な旋律な和声の構成で説明する楽曲解説とは違い、哲学的な概念分析に基づいた文学的・詩的評論の趣き。
最初読んだときは、この独特の文体と出てくる作品の多さで、ドビュッシーの音楽のように捉えどころがないような印象がした。やっぱり学生時代と違って、この種の本を読むには頭が錆びついているに違いない。
それでも2度読むと、文体や文章を展開していくパターンにもなれて、ドビュッシーの音楽を聴いていても一体何を表現しようとしているのか、捉えどころかなかった部分が、ジグソーパズルのように少しづつ姿形をあらわしてきたように思える。


<書評>
橋本典子「書評 Vladimir Jankélévitch - La vie et la mort dans la musique de Debussy」

かなり詳しい書評、というよりも、本書の要旨。
章・節ごとに要旨と例示されている曲が簡潔にまとめられていて、頁数も20頁くらいなので、本書を読んでいない人でも理解しやすくて、とても参考になる。
ただし、文章は硬くて面白くもないので、ポイントをつかむには良いけれど、ジャンケレヴィッチの文章そのものを読んだときとは、ドビュッシーの音楽に対する感覚的・視覚的イメージが随分違ってくる。
やはり、ジャンケレヴィッチのドビュッシー論は、彼自身が書いた詩的で文学と哲学の薫りのする文章で一度は読んでおきましょう。


<関連記事>
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ポール・ジェイコブス ~ ドビュッシー/《映像第1集》より ”Mouvement”
ポール・ジェイコブスのドビュッシー。今回は《映像第1集》の"運動(Mouvement)"。
ドビュッシーの《版画》以降の曲には名曲がひしめいているので、"運動"が特に好き...という人はあまりみかけない。
なぜか私が好きなドビュッシー作品は、"雨の庭"と"運動"。それに、《前奏曲》の"交代する三度"や"花火"も面白い。
元々緩徐系が苦手なので、ドビュッシーに限らず、こういうアクティブな曲に好きなものが多い。

この"雨の庭"と"運動"も速いテンポでリズム感と躍動感があって、印象派風絵画よりも、ずっと鮮明な色使いとシャープな輪郭で描かれているようなイメージ。
摩訶不思議な雰囲気がすることの多い他の作品と比べて、ピアニストによる弾き方の違いがかなりはっきりわかる。

Debussy: Images/EstampesDebussy: Images/Estampes
(2002/08/04)
Paul Jacobs

試聴する(米amazon)[Nonesuch原盤にリンク]


《映像 第1集》 "Images 1" 

1.水の反映 "Reflets dans l'eau"
2.ラモーを讃えて "Hommage a Rameau"


3.運動 "Mouvement"
タイトルどおり、"運動"という抽象的な概念を音で表現している曲。
メカニカルな動きからいろいろ連想できるし、楽譜を見ながら聴いてみると、この音の配列だと、こういう音の塊と響きになるんだな~と、とても面白く聴ける。

同じような音の動きなのに、クリスピーなタッチを多用してメカニカルな動きの印象が強かったり、強弱のコントラストを強くつけてダイナミックに表現したりと、ピアニストによってやっぱり違いがある。
CDを選ぶときに、収録されていれば必ずこの曲(それに《雨の庭》)を聴いて判断すれば、後で他の曲を聴いてCDを買ったことを後悔することがまずない。

ジェイコブスの場合は、音のニュアンスが幅広くて、レガートな流れは物語風。
冒頭は序章的な旋律で、テヌートがついた音のニュアンスがちょっと面白い。
柔らかい音色で、あまり音が立ってこないので、メカニカルではあっても、どことなく楽しげな雰囲気。

冒頭の三連符のオスティナートの響きは、回転する独楽を連想する。
主題的な旋律は、右手高音で弾くフォルテの和音。煌くような輝きのある音で、旋律は空間的な広がりと何かが始まるような躍動感。
En augmentant に入ると、タービュランスのような混沌感に変わり、冒頭部分が再現されて、終わりは独楽が回転力を失って徐々にゆっくり回り始めてとまるように、フェードアウトしていく。

ジェイコブスの"運動"は、音色が暖かくまろやかなで、明るく快活なタッチ。
コラージュ的に次から次へと変化する主旋律はレガートで、ニュアンスも豊か。
ミニマル的な動きの細かな三連符やアルペジオは、ペダルをかなり使って残響がやや長めで、クリスピーな響きが少ないせいか、あまりメカニカルな感じはしない。

曲自体にダイナミズムがあるので、"独楽"のような単体の動きというよりは、物質が化学反応しながら新しく何かが生起していくようなイメージの方が強い。
でも、ジェイコブスの演奏には開放感と躍動感があるので、時に太陽がきらきらと輝く田園の風景だったり、子供が楽しげに遊んでいる情景だったり、モチーフが変わるたびにいろんな具体的な情景が浮かんできてしまう。

                              

ジェイコブスの他に好きな"運動"というと、アラウのスタジオ録音。
指回りが良いとは全然いえないけれど、そのせいでメカニカルな感じがかなり稀薄。
それとは正反対に、厚みと丸みのある響きと相まって、三連符は虫の羽音みたいだし、何か得体の知れない生き物のような"有機的な生命体"が音の背後で蠢いている気が(私には)する。
クリアな色彩感と音色で弾かれるドビュッシーとは違っていて、こういうところがアラウ独特のドビュッシー。

Claudio Arrau plays Debussy Images: Book Ⅰ, no.3, "Mouvement"



オーソドックスというか、やはりドビュッシーの"Mouvement"はこういう曲なんだろう思うのがミケランジェリ。
主題が再現される直前のフォルテのパッセージで、少しタッチが重くなってリズム感が鈍くなる(スタジオ録音はもっと粘りがでる)。ここはベロフも似たような弾き方をしていた。

Michelangeli plays Debussy Images 1/3 - Mouvement

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スティーヴン・ハフ/ピアノ・コレクション
スティーヴン・ハフがHyperionからリリースしたアルバムの中から、11曲プラス初出2曲を自選した録音集『Steven Hough Piano Collection』。

Steven Hough Piano CollectionSteven Hough Piano Collection
(2005/06/14)
Steven Hough

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ハフがブックレットに序文を書いている。
リサイタル後のサイン会でよく質問されるのが、「どのCDが一番お勧めですか?」、「どのCDが一番お好きですか?」。
ハフはテーブルに山積みになったCDに視線を落としながら、一番売れていないCDを勧めたい気持ちに駆られることが時々ある。(もちろん、冗談)
彼は見るからに生真面目な感じがするけれど、イギリス人らしいちょっとシニカルなユーモアのセンスをもった面白い人なんでしょうね~。
ハフ自身は自分のCDを聴くことはめったにないし、自分自身の好みについて客観的であることは難しいとも言っている。
ハフによると、このコンピレーションCDは、ハフの録音を聴きたいけれど、どれが良いかわからない人向けのもの。Hyperionからリリースしたアルバムからそれぞれ1トラックを選び、さらに初出の2曲を収録。

このCDは、トラック単位で抜粋収録されているので、1曲完結したものと、1つの楽章だけ抜き出されたものがあり、ベスト録音というよりは、サンプラー盤的。
11曲の選曲にテーマ性は全くないので、作曲家、作曲年、構成・様式は多種多様。
初出の2曲(1曲はアンコールピース、もう1曲はハフが作曲した作品)は、ハフのファンにとっては稀少価値あり。合計収録時間は約80分とボリュームも十分。
アルバムのサンプラー的性格のためか、価格がかなり安くて、それなのにこれだけいろんな演奏が聴けるので、ハフ入門にはぴったり。
問題は、このCDを聴くとアルバム自体が聴きたくなって、曲がだぶってもいいから、CDを買いたくなってしまうこと。

こちらはVirgin盤の『The Piano Album』。これもハフを初めて聴くには好適なアルバム。
2枚組CDでこの内容で価格が1000円なら、とってもお買い得。
ただし、稀少曲の小品が多いので、有名な曲の演奏をたくさん聴きたいというのであれば、Hyperion盤の方がおすすめ。
Stephen Hough : The Piano AlbumStephen Hough : The Piano Album
(1998/08/27)
Stephen Hough

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Steven Hough Piano Collection
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Ballade for piano No.3 in A flat major,Op.47,CT.4
ショパンが好きでない私でも、ハフのシャープなタッチで涼しげなバラードならOK。
ショパンのバラードやスケルツォのCDはもう買わないことにしているのに、ハフのバラードを聴くと全曲聴きたくなるのが悩ましい。

Mompou:Paisajes, for piano: No.1, La Fuente y la Campana
モンポウの『風景』より第1曲「泉と鐘」

Ben Weber:Fantasia (Variations), for piano
ベン・ウェーバーの『ファンタジ(変奏曲)』。
ハフの解説では、十二音技法を調性と合わせて使ったリリカルでパッショネイトな曲。
十二音技法の曲にしては、音と音が比較的メロディアスにつながったように安定感があって、ハフの解説どおり意外にリリカル。
楽譜を見ないと(見ても?)、変奏パターンがよくわからないところはあるけれど、幻想的な雰囲気と氷のような冷ややかな感覚がなぜか気持ちよく感じる。
もともとの収録アルバムは『New York Variations』。米国の現代音楽作曲家の変奏曲(的)作品ばかり集めたもので、とても珍しい選曲。米国の現代ピアノ作品を聴きたい人にはおすすめ。

Yu-Hsien Deng:Pining for the Spring Breeze
雨賢の「望春風」という台湾の歌をハフが編曲したもの。
伝統的な東洋風の音階で書かれている旋律と和声は、日本風というよりはやっぱり中国風。
でも、ハフは2番の方をできるかぎり西洋風なスタイルに編曲・演奏したという。
確かに、リピートして2番に入ると、明るく開放感のある和声と響きに変わって、東洋風の雰囲気がかなり薄くなっている。

これは台湾のコンサートで、アンコール曲としてこの曲を弾いているライブ映像。
ピアノの高音のきらきらと輝いて、甘い感じのする響きがとても綺麗。

史帝芬‧賀夫演奏望春風鋼琴改編曲。(スティーブン・ハフの演奏-望春風(ピアノ編曲版))


Brahms:Piano Sonata No. 3 in F minor, Op. 5 Scherzo
シャープで切れ良いタッチなので、ブラームス特有の重音の響きも軽やか。

Bowen:Berceuse, for piano, Op. 83
イギリスのピアニストで作曲家エドウィン・ヨーク・ボウエンの『子守歌』。
現代の作曲家にしては、ロマン派的な調性の安定した可愛らしい曲。

Piano Sonata No. 10 in C major (fragment), D.613 Finale
とっても可愛らしいシューベルトのピアノ・ソナタ第10番のフィナーレ。
長大になりがちなシューベルトの曲でも、抜粋して1楽章だけだと聴きやすいし、特にこの楽章はとっても魅力的。(でも、やっぱり長い)
ハフの軽く甘い響きの音色が、旋律と和声の雰囲気にぴったり。
ハフの解説によると、演奏至難の曲で、この曲が未完のままに終ったのは、音楽的アイデアの問題ではなく、指の方が縺れてしまったせいではないかと...。

Franz Schubert - Piano Sonata in C major, D 613 - II. Without tempo indication (演奏者不明)


Hummel:Piano Sonata No. 5 in F sharp minor, Op. 81 Vivace
珍しいフンメルのピアノ・ソナタ第5番からVivace。ベートーヴェンの面影を残しつつ、メンデルスゾーンのコンチェルトの急速楽章のような音の配列と動きが入っているような曲に聴こえる。

Tchaikovsky:The Swan Lake, ballet, Op. 20 Pas de quatre
チャイコフスキーの『白鳥の湖』より、"四羽の白鳥たちの踊り (小さな白鳥の踊り)"のピアノソロ版。
編曲はピアニストのアール・ワイルド。ワイルド自身も気に入って度々弾いていた。
小さな白鳥たちが、ちょこまかと踊っている様子が目に浮かぶような編曲は技巧鮮やかだけれど、とっても可愛らしい雰囲気。アンコールで弾くととっても受けそう。

Reynolds:Poems (2) in Homage to Fauré Chanson d'automne
ハフの親しい友人で英国の現代作曲家であるレイノルズが書いたフォーレへのオマージュは、とても美しい曲。
フォーレはあまり聴いたことがないけれど、流れるような旋律と透明感のある叙情性がフォーレ風なのかも。
”Chanson d’automne”(秋の歌)というと、ヴェルレーヌの詩のタイトルにもなっている。

ハフの演奏ではないけれど、この曲があまりに綺麗なので。(カワイのピアノで弾いている人は楽器屋さん?。タッチが強すぎてキンキン響いてしまう)
Kawai KG-3 1970 - Reynolds: Chanson d'Automne


Liszt:Polonaise, for piano No.2 in E major, S. 223/2 (LW A171/2)
リストの《ポロネーズ第2番》は、シフラの演奏が有名らしい。
ハフは完璧な技巧とシャープなタッチで、シフラみたいに大仰に弾かずにインテンポでスラスラ弾いている。
ハフがショパンやリストを弾くと、技巧的な派手さと難しさを感じさせないせいか、過剰にヒートアップせずにとっても涼しげ。そのせいか、ショパンのポロネーズに比べて、土俗的な舞曲の雰囲気は薄くて、洗練されて品良い感じ。

Hough:Suite Osmanthus, for piano
ハフの自作自演曲で初出の《オスマンサス組曲》。"Osmanthus"とはモクセイ属のこと。
献呈した中国人Dennis Changの名前のなかの6つの音名をベースに作曲。ハフのイニシャルも入っている。
Changの中国名の漢字の意味が"Osmanthus"。
現代音楽的ではあるけれど調性がわりと安定して、ブリテンのピアノ作品にちょっと似た感じ。(ハフはVirginレーベル時代にブリテンのピアノ作品集を録音している)
曲想が曲ごとに明確に変わり、静・動の対比も鮮やかで、聴いていて面白いし、やや曖昧で不確実性を感じさせる現代的な乾いた叙情感が心地良い感じ。

 1.Prelude: Andante Malinconio
 2.The Musical Chocolate Box: Senza Tempo-Allegretto Innocente
 3.Changes: Andante Intimo
 4.Elegie Enigmatique: Allegretto Mesto
 5.Etude Da Capo: Allegro Brillante
 6.Nocturne-Cavatina: Tempo Rubato

Franck:Chorals (3), for organ, M. 38-40 Troisième Choral, M40(1890)
「オルガンのための3つのコラール」から第3番のピアノ編曲版。
フランクの作品は晩年の最後の6年間に書かれたものが多く、最後の作品がこの「3つのコラール」。
"フランクの音楽遺書"とも言われているそうで、特に最後の第3番はオルガン作品のなかでも傑作といわれている。
バッハなどのコラール作品とは異なり、宗教歌などをベースにしたものではなく、フランクのオリジナル旋律を使って書かれている。

ハフが初めてこの曲を弾いたのはオルガン。とても刺激的な体験で、知っている曲のなかでは感動的な作品の一つだという。
ピアノソロ版はハフ自身の編曲によるもの。ピアノをオルガンのように響かせるために、考えられる限りのあらゆるペダリング技術を実験したという。
ハフの音はもともとクリアで芯のしっかりした音なので、弱音でも明瞭に響くし、残響が重なりあっても混濁することがなく、
内省的な静謐な弱音から、シンフォニックな荘重なフォルテまで、済んだ響きがとっても綺麗。
最も好きな録音は?と聞かれれば、それはこの曲になるだろうと、ハフ自ら言っているほど。

tag : シューベルト フランク チャイコフスキー スティーヴン・ハフ

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耳鳴りと栄養・サプリメント(2)カフェイン
耳鳴りがする場合は、カフェインを控えるようにというアドバイスを良く見かける。
具体的な根拠は何なのだろう...と思って調べてみても、すぐにはわからない。
カフェインは、耳鳴りに関わらず、過剰摂取は健康上良くないのは知られている。
特にカフェインと耳鳴りの関連性について、何かわかるものはないかと、数値データを調べてみた。

嗜好品とカフェイン
耳鳴りに限定した記述はないが、”カフェイン中毒を引き起こすとされる1回量は500mg”。
100~200mgなら問題なく、300mg以下が良いらしい。
(出典:【嗜好品とカフェイン】

このホームページの記事を読むと、カフェインが入っているのは、コーヒー・紅茶・緑茶・烏龍茶・プーアル茶・コーラ飲料・ソフトドリンク・強壮ドリンク剤・カフェイン配合の医薬品である解熱鎮痛薬・かぜ薬・総合感冒薬・鎮咳去痰薬やテオブロミン系のココアやチョコレートなど。

精神安定・催眠効果のある薬にはカフェインは入っていないはずだが、効かないという人も多いあの「ナリピタン」(「ナリヤマン」だ...なんて言っている人も見かけた)には、なぜかカフェインが入っている。
「カフェイン水和物」が、1日3回9錠として180mg。

飲料時のカフェイン含有量
全日本コーヒー協会のデータ「飲料時のカフェイン含有量」によると、カップ1杯(100ml)に含まれるカフェイン量は以下の通り。

レギュラーコーヒー  約60mg
インスタントコーヒー 約60mg
玉露 約 160mg
煎茶 約 20mg
紅茶 約 30mg
ウーロン茶 約 20mg
コーラ飲料 10~13mg

紅茶は、リーフよりもティーバックの方がカフェインが少ないという説もあるが、根拠は何か調べてみても、元データが不明。
リーフやティーバックの種類と抽出濃度によっても違うので、一概には言えないような気がする。
出典:http://www.towncoffee.com/Caffeine.html

「飲料時のカフェイン含有量」の表は、飲料100ccの含有量。
実際は150~200cc飲むことも多いだろうから、この1.5~2倍のカフェイン量と考えた方が良い。
それに、抽出条件、銘柄などで、カフェイン含有量も変わる。

単純計算すると、紅茶マグカップ2杯(200cc×2杯)なら120mg、煎茶湯のみ4杯(100cc×4杯)なら80mgで、合計200mg。
さらに、コーヒー、ソフトドリンク、栄養ドリンクなどを飲むと、カフェイン摂取量が300mgを超える。

私がいつも飲んでいる麦茶・黒豆茶・ルイボスティ・健康茶(そば茶、杜仲茶、ハブ茶、ハトムギ茶など)などの健康茶系飲料は、カフェインゼロが多い。
どうしても緑茶が飲みたいというのなら、カフェインが比較的少ないのは番茶。
それにしても、玉露のカフェイン量は凄い。そんなに大量に飲む種類のお茶ではない(と思う)けれど、飲みすぎは禁物。

私の1日あたりのカフェイン摂取量を概算すると、紅茶60mg、コーヒー90mg、日本茶類はノンカフェインなのでゼロ。栄養ドリンクや薬の類も飲まないし、緑茶ベースの蓮茶や桂花茶、ココアはほんの時たま飲むだけ。
このごろはコーヒーの代りに、はったい粉&きな粉ドリンクやしょうが湯(夏はひやしあめ)を作って飲んでいるので、これもノンカフェイン。
結局、通常摂取しているカフェインは。せいぜい1日150mg前後、多くても200mgぐらい。
個人的なケースとして考えると、耳鳴りを悪化させているとは全然思えない。(実際、悪化していない)

紅茶のカフェインがどうしても気になるなら、カフェインレスの紅茶も売っている。
多少割高だけれど、これなら心置きなく何杯でも紅茶が飲める。コーヒーも同様。


耳鳴りとカフェイン摂取に関する実験論文
”耳鳴りの緩和のために行うカフェイン制限療法には効果がない”という実験結果の論文が2010年に発表されている。
この論文の解説記事を読むと、カフェインと耳鳴りに絞った実験というのは今までなく、単に通説としてカフェインが耳鳴りによくないと言われてきた。

この実験は、毎日少なくとも150 mgのカフェインを摂取している人が、摂取量を段階的に減らしても(その後、元通りに増やしても)、耳鳴りの強度に影響しなかった。
逆に、カフェイン削減によるマイナス面の兆候が現れたことから、耳鳴りに加えてさらに新たな重荷になりかねない...という結論。
本文全体を読んでいないので、被験者別の結果など詳細は不明。
たとえば、毎日300mg以上のカフェイン摂取の人が被験者に入っているのかとか、確認したい点がいくつか。

<論文抄録>
”Caffeine abstinence: an ineffective and potentially distressing tinnitus therapy.”
(Int J Audiol. 2010 Jan;49(1):24-9.Claire LS, Stothart G, McKenna L, Rogers PJ./Centre for Hearing and Balance Studies, University of Bristol, Bristol, UK.)

<論文の解説記事>
 Study casts doubt on caffeine link to tinnitus[University of Bristol]
 Caffeine and Tinnitus[Arches Tinnitus Formula]


いろいろなデータや論文を見ると、普通のカフェイン摂取量だと耳鳴りには影響しないように、個人的には思える。
それでも気になるのであれば、カフェインゼロの飲料を飲むのが一番。
嗜好品に限らず、カフェイン含有の薬や栄養ドリンクを習慣的に飲む場合は、注意した方が良さそう。


参考までに、コーヒーに関するウェブサイト<百珈苑>に、コーヒー中のカフェインが身体に及ぼす影響に関する論文リストが掲載されてます。

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オリヴァー・サックス著 『火星の人類学者-脳神経科医と7人の奇妙な患者』
オリヴァー・サックスの著書『音楽嗜好症』を読んでから、人間の脳のメカニズムの不思議さに興味を引かれて、サックスのほかの著作も数冊読んでみた。
大学時代に話題になっていた『妻を帽子とまちがえた男』、映画の原作にもなった『レナードの朝』(英題は"AWAKENINGS(めざめ)")、症例解説というよりルポルタージュ的な物語ような『火星の人類学者』。
いずれも米国で大変評判になった本ばかり。日本では映画『レナードの朝』が一般に知られているけれど、原作まで読んだ人は少ないに違いない。

症例として頻繁に取り上げられているのは、過去をすぐに忘れてしまう記憶障害とサヴァン(天才児)に関するものが多い。記憶障害の場合、音楽だけはなぜか記憶に残っていくのが不思議な現象。サヴァンのケースは驚異的な記憶力で絵を描く視覚サヴァンが多いが、音楽サヴァンも登場する。

『火星の人類学者-脳神経科医と7人の奇妙な患者』で取り上げられているケースは7つ。
全色覚異常の画家、トゥレット症候群の外科医、視力を回復したことで社会に適応できなくなった盲人、過去の記憶が失われる記憶障害、驚異的な記憶力の画家、自閉症の視覚サヴァンの少年、人間の感情を理解できない自閉症の動物学者。
症例数は少ないけれど、その分個々のケースが詳しく紹介されている。
それまでの著作が、どちらかというと神経学者の視点による症例報告的な筆致で書かれているものが多く、サックス自身の共感が感じられるものと、そうでないものと、症例や患者によっても、かなりトーンが異なっていた。
それに比べて、『火星の人類学者』では、語り口がかなり物語的なタッチになっているせいか、個々の患者の内面に深く踏みこみ、サックスと患者との距離感が縮まっている。
医学的に"異常"な症例としての分析も入っているけれど、それ以上にその"異常"さと共存し、やがて欠くことのできない独自の個性になっていたプロセスを追い、彼/彼女たちの生き方に関する洞察が多くなっている。

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者
(1997/03)
オリヴァー サックス

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これはハヤカワNF文庫版。
火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)
(2001/04)
オリヴァー サックス

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個人的に一番興味を引かれたのが、色覚を失って全てが白黒の世界になってしまった画家と人間の感情が理解できない自閉症の動物学者。

画家の話が印象に残ったのは、絵を見ることが好きなので。
後天的全色覚異常という稀な状況に陥った画家は、白と黒だけを使った絵を描くことで新しい創造力を開拓したために、再び色覚を蘇らせる手術を拒否して、白黒だけの世界で生きることを選ぶ。
色彩感覚を喪失してもカラーの世界に拘っていた時期は、絶望感からネガティブで陰鬱な絵画表現に繋がっていた。
やがて、色覚の回復を諦めて白黒の絵を描こうと決心してから、誰にも書けないような斬新で個性的な作風に変わって行く。
残された機能を最大限に生かしていくことで、全色覚異常という障害を個性に変えてしまったというストーリー。

それ以上に印象が強く、共感のようなものを感じたのが、自らを"火星の人類学者"と喩えた自閉症の女性動物学者テンプル・グランディンの自伝的ストーリー。
理由を考えてみると、感情という観点から人間性というものについて考えさせられるテーマであったこともあるけれど、テンプルが女性だったので、男性の場合よりも心情的にシンクロしやすいため。(サックスの著作で取り上げられているケースは、どちらかというと男性が多い)
それと同時に、動物学者であるテンプルの価値観と信条やそれにまつわるエピソードに共感できることが多かったこと。
テンプルは、『我、自閉症に生まれて』という有名な自伝を書いているし、それをもとにした伝記映画『Temple Grandin』も製作されている。この映画は、第62回(2010年)エミー賞のテレビ映画部門で作品賞・主演女優賞などを受賞。

                         

「火星の人類学者」に登場するテンプル・グランディンは、自閉症患者には稀なことに、大学で学位ととって動物学者となり、州立大学で教え、自ら会社を設立・経営し、家畜用施設専門のコンサルタント・設計士として世界中を飛び回っている。
自閉症には、大きく分けてカマー型とアスペルガー型の2種類のタイプがある。「高い機能を持つ」自閉症はアスペルガー型症候群と呼ばれて、言語能力が発達し、社会生活を送る技術を身につけ、なかには知的な業績を残す人もいるという。

3歳頃までは言葉を全く覚えられずに感情的な衝動で暴力的な傾向があったテンプルが、言葉を覚えて以来、精神的な落ち着きを見せ、強い集中力と意志で"アニマルウェルフェア"を実践する動物学者になる。
テンプルは、人間の感情的側面が全く理解できないという自閉症に特徴的な症状を持っているけれど、なぜか動物に対しては深い愛情と思いやりを持り、動物の持っている感情を理解できる。
彼女は、動物と人間とは(基本的な知覚と感覚が)共通だと考えているので、人道的な扱いを主張している。
テンプルが強く望んでいるのは、畜産業が動物の感情に対する感覚を取り戻すこと。そのため、家畜を最終的に苦痛なくして死なせる"処理方法"やプラント建設のコンサルティングのために世界中を飛び回っている。

欧米では、家畜の快適性に配慮した飼育管理を行う"ファームアニマルウェルフェア(家畜の福祉)"という思想が近年強まっている。
このテーマについては、興味があって以前に調べたことがあり、EUでは、「農業目的で保持される動物の保護に関する理事会指令」(98/58/EC)や、子牛・鶏・豚に関する家畜別理事会指令により、家畜に関する飼養管理についての最低基準を定めている。
また、2006年には、「EU動物福祉5カ年行動計画2006年-2010年」が発表されている。
畜産業で"有機畜産"という思想が広がっていることを考えれば、テンプルのように動物に深い愛情を持ち、動物の感情や行動に対する理解に優れ、"アニマルウェルフェア"の発想でプラント・設備設計ができる動物学者は、とても貴重なのかもしれない。

テンプルにとって、人間社会のコミュニケーション方法やルールなどを理解するのには大変な苦労があるが、動物の気分やしぐさは直観的にわかるという、動物とのコミュニケーションに優れた能力を持っている。このギャップがサックスには衝撃的だった。
テンプルの思考は"視覚的"であり、頭になかで常にあるシーンを思い浮かべて「シミュレーション」している。
サックスは、ビジュアルにだけ考えるとしたら、非視覚的な思考はわからないのではないか、言葉の持つ豊かさや両義性、文化的な含意、深みなどは理解できないだろう、と書いている。

テンプルは自らを"火星の人類学者"と喩えている。
まるで火星から来た人類学者が行うように、ヒトの言動やヒト社会におけるコミュニケーションのパターンを観察し、頭に中に膨大なデータベースを構築している。
そのデータベースを常に参照して、似たような状況で人がどのように行動するのか予測できるという。さらに、業界新聞や経済専門誌、本を読むことで、ヒトに関する知識を拡げている。これは彼女にとって「完全に論理的な作業」。
知識はストックできても、いわゆる"気配り"とか"社交的なやりとり"ができないため、ビジネスライクというか、真面目だけれど、面白みがなく、素っ気ない印象を与える。

テンプルは、「単純で力強く、普遍的な」感情なら理解できるが、「複雑な感情やだましあい」といったもの理解できないし、深いところで感情的、主観的な反応が起こらないために、音楽や美術に対して感動することもない。
感情というものを感じなければ、精神的に抑圧するものがないため、言動に表裏がなく、ある種の純粋さと率直さにつながっている。
人間社会での社交的な行為(社交活動、交友関係、恋愛など)はどうしても理解できないものなので、そういう関わりを持つことはすっかり諦めて、「仕事がわたしの人生のすべてです」と言う。
その言葉のなかには、苦痛とあきらめ、決意、そして容認がない交ぜになっていると、サックスは感じている。

テンプルは人間の感情は理解できないけれど、スター・トレックの登場人物でアンドロイドの"データ"のことはわかるという。
サックスによれば、自閉症の人で、スポック(スター・トレックシリーズで登場するキャラクター)やデータと同一視する人は多いという。
アメリカで"STAR TREK"を知らない人はまずいないだろうし、スポックやデータは特に人気のあるキャラクター。
地球人とヴァルカン人の混血であるスポックは、人間的な感情に左右されることは非論理的であり、ヴァルカン人的な理性と論理を重んじる思考・行動パターン。
データの場合は、アンドロイドなので、そもそも感情というものを持っていない。人間のようになりたいという願望が強いため、常に人間を観察して、その言動(社交面や人付き合いなど)を模倣している。
後に、"感情チップ"を回路に挿入すれば、感情を味わうことができるようになる。このチップはON/OFFできるので、状況に応じて感情を感じないようにもできる。
テンプルは、感情というものに対する感覚や他者の言動を観察・分析し模倣するという点では、まだ人間社会に慣れていない頃のデータにとてもよく似ている。
この本でスタートレックの話が出てくるとは思わなかったけれど、子供の頃から"トレッキー"の私としては、テンプルがデータを理解できると感じている理由がよくわかる。私は子供の頃からスポックが好きで、彼のように論理的かつ理性的で、感情をコントロールできるようになりたいと思ったものだった。

テンプルが神の存在や宇宙論について話すたびにサックスは驚いた。自閉症患者がそのような概念を持っているとは思いもしなかったから。
そして、感情な関わりは理解できないはずのテンプルなのに、ラストシーンでは自らの感情に突き動かされたような言動を見せる。
これは、テンプルと数日間行動を共にしていたサックスにとっては、思いもかけないことだった。
感情といっても、簡単に定義できないほどに多種多様で、テンプル自身が自覚していない感情的なものを感じさせる言葉や行動が文章から読み取れるし、おそらく疎外感のようなものを感じることはあったのでは...と思わせられるエピソードもある。
そもそも、動物に対する愛情をもつこと自体はきわめて人間的な感情であるし、自分に対してシンパシーのようなものを感じている人間に対して、なんらかの感情が湧き出てくるのも不思議ではない気はする。
読めば読むほど、ごく普通の感情を持っている人間とは違った形で、テンプルはある種の感情的なものを持っていると思えてくるし、それ以上に、彼女の動物に対する愛情と信条、そして自らの信念を実現していく行動には、人間的な深みを感じさせられる。


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備考:アニマルウェルフェアに関する参考文献
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「アニマルウェルフェア畜産物の生産・流通・消費拡大の可能性と課題」
((独)農畜産業振興機構、2010年3月)

「海外駐在員レポート/EUにおける家畜の動物愛護に関する規則について」
(月報「畜産の情報」(海外編)、(独)農畜産業振興機構,1999年8月)

『日本とEUの有機畜産―ファームアニマルウェルフェアの実際』
(松木洋一・永松美希編、農山漁村文化協会,2004年4月)

『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』
(テンプル・グランディン,キャサリン・ジョンソン著、日本放送出版協会、2006年5月)


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伊福部昭,グスタフ・ホルスト/日本組曲
伊福部昭の《日本組曲》の第2曲は「七夕」。7月7日が七夕だったので、思い出した。
「七夕」は静寂で粛々とした雰囲気で、まるで古いモノクロ映画(かドラマ)の「赤穂浪士」のサントラでも聴いている気分。
《日本組曲》は全4曲で構成。第1曲「盆踊り」、第3曲「演伶(ながし)」、第4曲「佞武多(ねぶた)」。
いずれも日本の土俗的・民族的エネルギーを感じさせるところが、伊福部作品らしい。(Wikipediaの作品解説)

 伊福部昭《日本組曲》の音源(盆踊、七夕)

                         

伊福部昭の《日本組曲》について少し調べていて、たまたま知ったのがグスタフ・ホルストのバレエ音楽《日本組曲》。
ホルスト=「惑星」という連想パターンなので、ホルストと日本の間に接点があるのは全然知らないので、意外な感じがした。
管弦楽曲に詳しい人にとっては、わりと知られた曲なのかもしれないけれど。

Wikipediaの解説によると、日本人舞踏家伊藤道郎が委嘱した曲。第二次大戦前に海外で活動していたというハイカラな人だったらしく、1916年のロンドンで伊藤道郎自身がこの曲の舞踊公演も行ったという。

ホルストの《日本組曲》は、落ち着いた音色と洗練された雰囲気で、遠い異国である日本をイメージした瀟洒なジャパネスクな曲といった趣き。
同じ《日本組曲》というタイトルではあっても、伊福部昭とホルストの作品を聴くと、浮かんでくる情景から心情まで全く違ってくる。

1.Prelude - Song of the Fisherman
「漁師の歌」。日本の伝統的な音階を使っているのだろうけれど、楽器の音色や響きが洗練された西洋風。
日本の民族主義と外国人の抱くエキゾティシズムが混在したような感覚。
(なぜか、ジェリー・ゴールドスミスが作曲した映画「Star Trek: The Motion Picture」のサントラを連想するような和声の響きや旋律がちょっと出てくる。)

2.Ceremonial Dance
「儀式の踊り」は勇壮な行進曲風。これも日本特有の民俗調の旋律。
この曲なら太鼓が入ったらもっと日本風に聴こえそう。

3.Dance of the Marionette
「人形の踊り」。トライアングル(らしい)の音色がきらきら輝いて、フルートなどの管楽器が軽快で、とても可愛らしい感じ。
なぜかエキゾティシズムがすっかり消滅して、普通の西洋音楽風に。

4.Interlude - Song of the Fisherman
間奏曲は、再び「漁師の歌」。弦楽器の息の長い旋律が波のようなイメージ。

5.Dance Under the Cherry Tree
”五木の子守歌”の ねんね~んころり~よ、おころりよ~、というもの哀しいメロディが出てくる。
わりと明るいイメージがする「桜の木下の踊り」というタイトルの曲と、寂寥感漂う”五木の子守歌”のメロディとは、ちょっと違和感が...。”桜”のイメージが英国人とは違うのかも。

6.Finale - Dance of the Wolves
フィナーレは「狼たちの踊り」。一番リズムカルでスピーディな曲。
狼のイメージしているせいか、ちょっとワイルドな感じも。

 ホルスト《日本組曲》の音源

tag : 伊福部昭 ホルスト

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ヨゼフ・スークを悼んで
HMVのニュースランキングをたまたま見ていたら、”ヨゼフ・スークさん死去”というニュースが目に入った。検索してみると、朝日・産経新聞のネットニュースでも訃報が掲載されている。
スークは2002年に引退して、最近は闘病生活を送っていたという。
高齢のせいもあってか、最近ではリイシュー盤以外にスークの新譜を見かけることもほとんどなく、昔の録音を時々聴いていた。
おそらく最後のセッション録音となったのが、アシュケナージのピアノ伴奏で2009年9月(79歳くらい)に録音した『ドヴォルザーク:ヴァイオリン、ヴィオラとピアノのための歌曲編曲集』。

スークの演奏を初めて聴いたのが、カッチェンと録音したブラームスの《ヴァイオリンソナタ全集》
ピアニストのパネンカと第2番・第3番を1960年代初めに録音しているけれど、全集版はピアノ伴奏がカッチェン(1967年)、バドゥラ=スコダ(1997年)の2種類。
同世代のカッチェンがピアノ伴奏していたブラームスのヴァイオリンソナタは、スーク独特の澄んだ深みのある美音と、自然な趣きのある爽やかな叙情感がとても美しい。
これですっかりスークのヴァイオリンが気に入ってしまい、スークの録音は廃盤も探し回って、30枚以上は集めたものだった。

Josef Suk,J. Katchen,Brahms Violin Sonata G-major 1


スークのレパートリーはドイツ音楽とチェコ音楽を中心に、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チェコの作曲家では、ドヴォルザーク(スークの曽祖父)、ヤナーチェク、スーク(祖父の作曲家)、マルティヌー、フィビヒ、さらには仏のドビュッシー、プーランク、ラヴェルなど。

ソロで有名な録音といえば、バッハの《無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータ全集》
どちらかというと地味な演奏なのだろうけれど、スークの深く響く美音が温かく、自然に湧き出るような包容力のある情感が心地良い。

Josef Suk plays Chaconne Bach Ciaccona (1/2)



スークとスークトリオによるドヴォルザーク作品の演奏は特に有名で、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ三重奏曲全集や『ヴァイオリンとピアノのための作品集』など名盤が多い。
スークのドヴォルザークはどれも良いと思うけれど、一番好きなのは『ヴァイオリンとピアノのための作品全集』
それに収録されている《4つのロマンティックな小品》の第1番は、川が悠然と流れるように流麗でとても綺麗な曲。
これは晩年のパネンカとの珍しいライブ映像。

Dvořák Romantické kusy No. 1 and 2 , Josef Suk & Jan Panenka



ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全集録音は、ピアニストのヤン・パネンカが伴奏している。特に好きなのが第4番。
パネンカが手の故障でスーク・トリオを離れてからは、ピアニストがヨゼフ・ハーラに代り、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲全集を録音。(それ以前にパネンカがピアノ伴奏して録音した曲があり、別盤でリリースされている)
ハーラとデジタル録音した曲はベートーヴェン以外にもいろいろあり、珍しいレパートリーも入っているけれど、レーベルがマイナーだったりしたこともあって、廃盤になっているものも結構ある。

ヴァイオリン協奏曲の録音は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス(二重協奏曲)、メンデルスゾーン、ベルク、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、マルティヌーなど。
特にメンデルスゾーンやベルクは、張りのある澄んだ音色と清楚な叙情感が美しくて、よく聴いたものだった。

カッチェンと録音したブラームスのヴァイオリンソナタや、シュタルケルを加えて録音したピアノ三重奏曲は、いまでも時々聴きたくなる。ブラームスに関しては、他のヴァイオリニストとピアニストの録音を聴こうという気になれないほど、しっかり記憶に刷り込まれてしまったらしい。
数年前に集めたスークのCDがたくさんあるので、少しずつ聴き直したくなってきた。今日の夜は、バッハのシャコンヌを聴いて眠ることにしましょう。

tag : スーク バッハ ベートーヴェン ドヴォルザーク

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ファジル・サイ ~ バッハ=リスト編曲/前奏曲とフーガ BWV543
リスト編曲のバッハ《前奏曲とフーガ BWV543》の録音を探していたら、Youtubeでファジル・サイの音源を偶然発見。
聴いてみたら、"奇才"のサイにしては至極まっとうな演奏だった。
たしかサイのCDは以前何枚か買ったけれど、たぶん処分したはず...と思ってCDラックを探したら、モーツァルトとバッハのCDがまだ残っていた。
一番評判になったストラヴィンスキーのCDは見当たらなかったので、バッハとモーツァルトだけは、考え直して手元に置いておいたらしい。

シャコンヌ!~サイ・プレイズ・バッハシャコンヌ!~サイ・プレイズ・バッハ
(2004/03/24)
サイ(ファジル)

試聴する
国内盤(廉価盤)が8月17日に発売予定。HMVで予約可能。

《フランス組曲第6番》、《イタリア協奏曲》は、ノンレガートで切れ良いタッチ。
コツコツとした硬質なタッチなので、ガヴリーロフのレガートな響きのフランス組曲ばかり聴いていると、ちょっと雰囲気が違った曲に聴こえる。
CDジャケットを見ると鍵盤が逆立ちしたりしてちょっとアブナイ感じがするので、サイだから何か奇抜なアイデアがあるのかも...と思って聴くと、そういう点ではたぶん面白くはないと思う。
最後の《平均律曲集第1番》は、ゆったりとしたテンポとやわらかめのタッチ。
どちらかというと、とてもまともなバッハよりも、ロマン派的なドラマティックな編曲ものの方が聴いていて面白い。

リスト編曲の《前奏曲とフーガBWV543》が、個人的にはこのアルバムの中で一番良くて、特にフーガにちょっと感動してしまったくらい。
冒頭からゆったりとしたテンポで、インテンポで淡々と進んで、内省的な静けさが漂うところが予想外。
それほど起伏が激しくはないけれど、静かに歌うような滑らかな起伏があり、旋律の流れがとても自然。
特にニュアンス豊かな弱音のささやくような歌い方と澄んだ叙情感がとても綺麗。こういうところは何度聴いても美しい。
もともと力感の強いタッチの人なので、弱音から抜け出てしっかりしたと一音一音をマルカート気味で弾くと、切々と訴えかけるような音の圧力がある。
終盤にさしかかると、フォルテの打鍵がパワフルで、低音がとても力強く響く。弱音部分のタメがよく聴いているせいか、抑えられていた感情が内面から湧き上がってくるかのよう。
こういうドラマティックなところは好きだけれど、フォルテは力で押した威嚇的な感じがするのと、低音の響きが少し濁りがちであまり綺麗に響かないのがちょっと残念。
レーゼルのようなコントロールされた力感のあるタッチと深く澄んだ響きのフォルテだと、格調があるんだけど。
フォルテのタッチはともかく、静謐な叙情感の美しさとドラマティックな展開には"奇抜"を感じさせるところはなく、そのせいで曲そのものの美しさが伝わってくる。


FAZIL SAY PLAYS J S BACH FUGA A MOLL BWV 543


Liszt/Preludes and Fugues BWV 543 by J.S.Bach No.1 (S.462/1) [楽譜ダウンロード:IMSLP]



《前奏曲とフーガ》がとても印象的で気に入ってしまったので、それと比べると個人的な好みとしては《シャコンヌ》はもう一つ。
《シャコンヌ》は録音も多くて、いろいろ聴きすぎているし、好きな演奏がだいたい決まっているせいもあるかもしれない。
《前奏曲とフーガ》と違って、かなり起伏が大きく表現意欲が強くなっている。緩急のコントラストが強めで、ゆったりとしたテンポの弱音で弾くときは、打鍵もずっと丁寧で表現にも繊細さがありけれど、急速部分はちょっと速すぎてせわしない感じ。
ブゾーニ編曲なので重音が多く、もともと低音の和音に濁りがあるので、ペダルを使うとそれが目立ちやすく、これがかなり気になる。和声とか残響を美しく聴かせるというところはやや無造作かも。
パワフルで力感のある人なので、フォルテはよく鳴るけれど、勢いがつきすぎてタッチや表現ともやや雑な感じがする。特にテンポが速くなると、弱音でもタッチが粗くなりがちのような...。

《前奏曲とフーガ》のCDレビューは<Kyushima's Home Page>”J.S.バッハ/リスト 前奏曲とフーガ イ短調BWV543”
ファジル・サイの録音については、このレビューどおり。《シャコンヌ》のレビューもあり。


tag : バッハ フランツ・リスト

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米国の耳鳴関連統計データ
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米国の耳鳴り等に関する統計データ
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耳鳴りに関する統計データは、一般的によく見られる症状にしては意外に少ない。
厚生労働省が3年毎に実施している「患者調査」では、傷病別の推計入院・外来患者数のデータが載っている。
統計表の傷病分類は、「耳及び乳様突起の疾患」として、「外耳疾患」、「中耳炎」、「その他の中耳及び乳様突起の疾患」、「内耳疾患」、「その他の耳疾」の5項目。「耳鳴り」に限定したデータはない。
その他の耳疾患関係統計としては、難病指定されているメニエール病の有病率・罹患率突発性難聴の全国年間受療者数推計や、個別の研究論文の限定的なデータがあるくらいで、耳鳴りに関して全国的に実施された大規模な疫学調査がなかなか見当たらない。(詳しく探せばあるのかもしれないけど)

米国の慢性的な耳鳴りの有病率(Prevalence of Chronic Tinnitus)は、”National Health Interview Survey”で調査されている。
米国国立衛生研究所(National Institutes of Health:NIH)には、国立聴覚・伝達障害研究所(National Institute on Deafness and Other Communication Disorders:NIDCD)という専門分野に特化した研究所がある。
”National Health Interview Survey”は、1957年から開始され、個人の面接調査でデータが収集されている。
調査自体は、米国国勢調査局(US Census Bureau)が行っている。

米国の慢性的耳鳴り有病率

Prevalence of Chronic Tinnitus(Graph Version)
有病率_convert_20110710065227

Prevalence of Chronic Tinnitus (Text Version)


難聴等に関する統計データの解説[要約]
-男性の方が女性よりも難聴になりやすい。
-米国内の65歳以上の高齢者のうち、男性では12.3%、女性では14%が耳鳴りを患っている。耳鳴り患者は白人に多く、南部の耳鳴り有病率は北部の2倍。
-米国人の成人の約17%(3600万人)が何らかの難聴を経験している。
-難聴と年齢には強い相関。米国人の成人では、45-64歳の18%、65-74歳の30%、75歳以上の47%が聴力障害をもっている。
-NIDCDの推計では、20-69歳の米国人の約15%(2600万人)が、労働・余暇活動での騒音が原因で、高周波の聴力損失にかかっている。
-補聴器装着により効果が期待できる人のうち、実際に補聴器をつけているのは5人中1人だけである。
-おおよそ約2500万人のアメリカ人が耳鳴りを経験したことがある。
-世界では人工内耳を移植しているのが約188,000人。米国内では概算で大人が41,500人、子供が25,500人。
-米国内では、突発性難聴(sudden deafness)の新規患者は毎年約4,000件。突発性難聴経験者の10人中9人は、方耳だけの聴力損失。また、原因が判明しているのは10~15%。
-米国内では約615,000人がメニエール病と診断され、毎年45,000人が新規罹患者。

その他の耳関係の統計データ


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米国の耳鳴り経験者へのアンケート調査 
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”Arches Tinnitus Formula”という耳鳴り用錠剤を購入している顧客へのアンケート調査。
アンケートは2006年実施。ランダムに抽出した3500人のカスタマーへアンケートし、回答率は10%以上。

調査主体は、Arches Natural Products, Inc.。耳鳴り用ハーブやビタミンを販売している米国企業。1998年設立。主力製品は”Arches Tinnitus Formula”。
アメリカはハーブやビタミンの種類が豊富で、常用する人も多いので、耳鳴り用健康食品専門という特化型事業でも経営が成り立つらしい。


Arches Tinnitus Formulas - Customer Survey (アンケート結果:グラフとコメント)

カスタマーの年齢層
41~50歳が23%、51~60歳が39%、61歳以上が23%。
”Arches Tinnitus Formula”の購入者を対象にしたオンラインアンケートなので、米国政府の統計調査と比べて、耳鳴り経験者の年齢構成が若い方に偏っている。

耳鳴りの原因は?
半数が「原因不明」。残り半数は、「騒音」が最多で19%、次は「その他」の17%。
他に、「薬」、「感染症」、「事故」が各3~5%くらい。「アレルギー」も若干あり。

どちらの耳?
両耳が52%、片耳が29%。頭の中で鳴るのは19%。

耳鳴りはどんな音?
「Ringing」(リーン)40%、「Whistling」(ピー)19%、「その他」17%、「Buzzing」(ブーンやブーブー)14%、「Humming」6%、「Pulsating」(パルス型。拍動性耳鳴り)2%、「chirping」(虫・鳥のようなさえずり)3%。「その他」の回答で“musical tinnitus”が1名。

耳鳴りの一番悪い点は?
「不安とストレス」が3割。「その他」も3割近い。「集中できない」18%、「眠るのが困難」が15%。「気鬱(Depression)」5%、「不機嫌(Moodiness)」4%。

試してみた他の治療法は?
”Arches Tinnitus Formulas”以外に実践した治療法は、「サプリメント」が33%で最多、「薬」が21%。合計で半数以上の人が錠剤服用。
「サウンドジェネレーター」11%、「マスカー」8%と「音響療法」が続くが、「TRT」は3%。
TRT利用者が少ない原因として考えられるのは、治療には多大な時間がかかりしっかりと取り組む必要があること(”serious commitment”が求められること)、医療費が高額であること。(米国は医療費が高いし、音響・音楽療法の大半は、保険ではカバーできない)
「バイオフィードバック」、「催眠療法」が各2%。「その他」が各2割と多い(鍼、ヨガなどがはいっている可能性あり)。

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備考:上記に記載した内容の詳細については、リンク先に掲載されているデータや解説で直接ご確認ください。
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シサスク/ピアノ曲集《銀河巡礼》
今日は七夕なのに、あいにく外は雨。星空は見えない。
その代わり、まるで宮澤賢治の本に出てくる"銀河鉄道"で"天の川"を縦断している気分にさせてくれるのが、ウルマス・シサスクの《銀河巡礼/Starry Sky Cycle》。

ウルマス・シサスクは1960年生まれのエストニアの作曲家。
音楽と天文学を勉強してきたので、彼の曲は宇宙にちなんだ曲が結構多い。
北欧の現代音楽のCDを集めていたときに、たまたま見つけたのがこの「銀河巡礼」。英文タイトルは《Star Sky Cycle》。
子供の時に天体望遠鏡で天体観測をしていたせいか、宇宙とか星といったテーマの曲にはつい手を出してしまう。

シサスク:ピアノ曲集《銀河巡礼》シサスク:ピアノ曲集《銀河巡礼》
(2000/02/23)
バインマー(ラウリ)

試聴する

収録曲は、北半球の音楽である《Starry Skay Cycle No.1 "Northern Sky Op.10"》(1980-87)。
第2集は南半球の音楽である《Starry Skay Cycle No.2 "Northern Sky Op.52"》(未収録)。

この曲集は調性音楽の範囲にはあるけれど、かなり神秘的な響きがする。
スクリャービンのような情念が漂い得たいの知れない不気味な存在を感じさせる神秘性ではなくて、本当に宇宙という自然そのものがもつ神秘の響き。人間を超えた限りなく無限で壮大な世界の響き。
この曲は、宇宙の一生(誕生、衝突、爆発、消滅など)を目の前で見ているような気にさせられる不思議な旋律と響きがする。
同じ宇宙物といっても、ホルストの「惑星」のような天体のイメージと音楽が連想しやすいようなわかりやすさはなく、宇宙のなかで起こる事象を抽象的な概念で表現しているような音楽。

ドビュッシーのような印象派の曲に似ているところがあるけれど、ベートーヴェンのような旋律も出てきたりするし、あまり形式にとらわれているわけではない。
全編を支配しているのは宇宙的な静寂。どんなに激しい動きの曲になっても宇宙の静けさと冷たさが流れている。
この静寂で神秘的な響きは、もしかしたらエストニアという風土が関係しているのかもしれない。
アルヴォ・ぺルトもエストニアの作曲家。彼の静寂な祈りの音楽とどこかしら通じるところがあるような気もする。

曲にはそれぞれ星座名がついていて、その後にモチーフとなっている概念が書かれている。
この星座名と概念の繋がりが良くわからない。星座にまつわる神話は日本では少ないので、星座に対するイメージをほとんど持っていないからかもしれない。
星座についているモチーフの中でも、動きを示す概念(性急、力、出現、破局など)は、ピアノで上手く表現できている。
でも、精神的なもの(夢、不安、あこがれ、孤独、幸福など)は、ストレートにはイメージできない別世界の概念かのように感じられる曲が多い。
水がめ座 の「夢」は確かに夢といえないこともないけど、”ドリーム”の夢ではなくて、不可思議さに満たされた「夢」。曲としてはとても面白い曲。
琴座の「幸福」はとても美しい旋律。調性がどことなく不安定なところがなんとも不気味。
子ぎつね座 の「不安」はまさに不安そのもの。でも、どこか違う世界の概念の「不安」という感じ。
やっぱり星座のモチーフとなっている概念は、宇宙という別世界のなかの概念のような感じがする。
心で感じるというよりも、頭で考えながら聴かないといけない音楽だけれど、こういうものを聴くのは意外と面白い。

曲の構成は、単純なモチーフが提示されて、そこからさまざまに変形してクライマックスへいたり最後には静かに収束するというパターン。
この音が変転し拡大していく様子がとてもダイナミックで、音楽自体は全然平板ではない。
響きそのものがこの上なく澄んでいて美しい。
一切の感情を捨象して、ピアノの音色と響き自体がどんなイメージを想起させるのかを追求した実験音楽のようでもある。

この曲集はプラネタリウムで聴くと、宇宙や星の持つ神秘性をイメージと聴覚から体感できて良いかも。
家庭用のプラネタリウムも売っているが、そんな物を持っている人はほとんどいないだろうからそれは無理としても、寒い冬の夜に部屋の明かりを消して真っ暗闇にしてから、この曲を聴くのはなかなか良いもの。
自分が宇宙の深淵を垣間見ているような錯覚が味わえたり、いつの間にかぐっすり眠っていたりする。

"こぐま座(平和)"。
Starry Sky Cycle Urmas Sisask


"プレアデス(すばる星)座 3.タイゲタ"
Urmas Sisask "Pleyad"-3  from "Starry sky sycle"


珍しい連弾曲の"Milky Way op.24"の演奏映像。内部奏法の実演あり。(CD未収録)
Milky Way Urmas Sisask op. 24 Grieg pianoduo excerpts


作曲者の自作自演による"Freude im Nebel"。(CD未収録)
Urmas Sisask Freude im Nebel Live Karlsruhe Piano Solo (from ”Starry Sky Cycle Southern Sky”)



<収録曲>
1. 水がめ座 (夢)
2. 子ぎつね座 (不安)
3. いるか座 (結合)
4. 大犬座 (性急)
5. 髪の毛座 (転変)
6. くじら座 (あこがれ)
7. アンドロメダ座 (力)
8. 牛飼い座 (回転)
9. うさぎ座 (孤独)
10. はと座 (動き)
11. 雄牛座 (鋭利)
12. へび座 (出現)
13. 矢座 (動揺)
14. からす座 (吹雪)
15. 琴座 (幸福)
16. プレアデス (すばる星)座 1.エレクトラ
17. プレアデス (すばる星)座 2.マイア
18. プレアデス (すばる星)座 3.タイゲタ
19. プレアデス (すばる星)座 4.アルキオネ
20. プレアデス (すばる星)座 5.メローペ
21. プレアデス (すばる星)座 6.アステローペ
22. プレアデス (すばる星)座 7.ケレノ
23. 雄羊座 (緊張)
24. へび使い座 (破局)
25. こぐま座 (平和)
26. 小犬座 (混乱)
27. オリオン座 (凝固)
28. うみへび座 (永遠)
29. ペルセウス座 (瞑想)

[備考:この記事は、2008年12月16日付けの記事に一部加筆修正したものです]

tag : シサスク

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ポール・ジェイコブス ~ ドビュッシー/忘れられた映像,版画
現代曲を得意としたポール・ジェイコブスのCD化されている録音には、ブゾーニを始め、シェーンベルク、ドビュッシー、メシアン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ジェフスキ、コープランド、ボルコムなど、バラエティ豊か。

特に多いのがブゾーニとドビュッシーの作品。
ブゾーニの場合は編曲ものも録音しているので、オリジナル曲としては、ドビュッシーがCDにして4枚分と一番多い。
《忘れられた映像》(1894年)、《版画》、《映像Ⅰ・Ⅱ》、《前奏曲集Ⅰ・Ⅱ》、《12の練習曲》。《ベルガマスク組曲》と《子供の領分》以外の主要作品を録音している。

ドビュッシーの試聴ファイルを聴いた時から、直観的にぴたりとくるものがあったので、全曲CDで聴くとやはりその通り。
全体的に技巧的に安定しているわりにメカニカルな感じはないし、柔らかな暖色系の音色で、カラフルな色彩感というよりも、響きのバリエーションが多彩。
色彩感以外でドビュッシーを表情豊かにしようとすると、ダイナミックレンジを広くとって、特にフォルテを強く弾いて強弱のコントラストを強調する人が多い(気がする)。
ジェイコブスの場合は、極端なディナーミクはつけず、弱音の繊細さにも過度に拘ることなく、彼独特の生き生きとしたリズム感と柔らかいレガートでしなやかに歌うようなドビュッシー。(”songful”とレビューで書いていた人がいた)
綺麗な音が並んでいる絵画的な印象派風の音楽というよりは、いろいろな情景が生き生きとしたリアルさと情感を伴って連想されるような物語風。伸びやかで無理のない自然な趣きがあって、これを聴いてどういうドビュッシーを聴きたいと思っていたのか、よくわかったと思えたくらい。

同じような方向の録音を思い浮かべてみると、厚みと丸みのある響きで有機的な生命力や情動的なものを感じさせるアラウのドビュッシーにちょっと似た感じがしないでもない。
でも、ジェイコブスの方が、打鍵もずっとシャープで響きの濁りが少なく、曖昧模糊したところがない明晰さを感じるので、現代的なスマートさがある。
多彩な響きのバリエーションで和声的な感覚の鋭さを感じさせるところは、エゴロフに似ているけれど、エゴロフのドビュッシーはさらさらと音楽が流れていき、無色透明のような淡白さがあるので、和声的センス以外は正反対かも。
ジェイコブスは、現代音楽が得意なピアニストにしては、打鍵のタッチも音楽のつくり方も尖ったところが少なく、自然な情感が流れるリリシズムを感じさせるところがユニークかもしれない。

ドビュッシーの録音が好みに合うかどうか判断する曲は決まっていて、《雨の庭》(版画:第3曲)と《運動》(映像第1集:第3曲)。
youtubeで《雨の庭》を聴いても、試聴ファイルで《運動》の冒頭を聴いても、好みにぴったり。
経験的にこの2曲がぴったりとくれば、他の曲もたいてい気に入るので、CDを買っても外れずことがない。

Paul Jacobs plays Debussy Jardins sous la pluie



Apex盤に収録されているのは、《映像》(1894年)、《版画》、《映像第1集&第2集》。
原盤はNonesuch。Apex盤は廉価盤でリリース年が新しい。
作品解説はそれほど詳しくないけれど、独特の言い回しが入っているので、たぶんLPリリース時にジェイコブス自身が書いたものを転載しているのではないかと思う。

Debussy: Images/EstampesDebussy: Images/Estampes
(2002/08/04)
Paul Jacobs

試聴する(米amazon)[Nonesuch原盤にリンク]


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《忘れられた映像》 "Images oubliées" (1894年)
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1.レント(憂うつに、そしてやさしく) "Lent(melanolique et doux)"
2.ルーヴルの思い出 "Souvenir du Louvre"

同じ《映像》といっても、後年のような色彩感のある音のタペストリーで印象主義的な作風とは違って、ロマン派的叙情感のある旋律がとても綺麗。
何度も聴いていると、《子供の領分》や《ベルガマスク組曲》よりも気に入っている気がする。
"レント"と"ルーヴルの思い出"を聴いていると、淡いパステル画のような柔らかい響きとメランコリックで優しい雰囲気がするせいか、マリー・ローランサンの絵を見ているような気分。
やや押さえた悲愴感がそこはかとなく漂う"ルーヴルの思い出"は、《ピアノのために》として改訂されているので、かなり似ている。

3.「いやな天気だから、もう森には行かない」の諸相 "Quelques aspects de 'Nous n'irons plus au bois'"
ドビュッシーらしい一風変わったタイトル。(といっても、出版社がつけたらしい)
前2曲とは曲想が一転して、速いテンポで快活で躍動的、それにちょっとユーモラス。
どこかで聴いたことがあると思ったら、《版画》の"雨の庭"と同じ主題が使われている。この曲を元にして、さらに主題を追加して書かれたのが"雨の庭"だった。
冒頭しばらくしてから、"雨の庭"でも使われている主題旋律が登場して、それが何度も変形されていく。
元々はフランスの童謡のメロディで、原曲を聴くと、"雨"のイメージとは全然違って、とっても楽しそう。子供たちがピクニックに行く情景を思い浮かべても、全然違和感がないくらい。
 原曲の童謡”nous n'irons plus aux bois” [Youtube]

《もう森になんか行かない Nous n'irons plus aux bois》はフランスの童謡。
なおゆきさんという方のブログ<nouse>の記事”フランスの古童謡 "Nous n'irons plus au bois"”に、この童謡について詳しく解説が載っている。日本語に訳した歌詞もあります。
童謡のタイトルは"もう森には行かない"という意味で、 「いやな天気だから」という言葉は全く入っていない。
ドビュッシーの曲の正式タイトルが、"Quelques aspects de “Nous n'iron plus au bois” parce qu'il fait un temps insupportable”。
「いやな天気だから」にあたる"parce qu'il fait un temps insupportable"がついている。

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 《版画》"Estampes"(1903年) [ピティナの作品解説]
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1.塔 "Pagodes"
ドビュッシーが1889年のパリ万博でバリ島民の演奏するガムラン音楽を聴いたのがきっかけで書かれた曲。
"パゴダ"というと、日本ではなぜかミャンマーの仏教寺院を指すが、これは日本特有の使い方らしく、英語では単に仏塔を指すらしい。
英語の仏塔にはパゴダ(pagoda)とストゥーパ(stupa)の2つの言葉があり、パゴダは中国・日本風の仏塔、ストゥーパはインド風の仏塔を指すことが多い。

この曲では東洋の五音音階が使われているので、いかにもエキゾチックな響きと旋律。
モノトーン系のお寺ではなく、東南アジアにあるカラフルな仏塔(アンコールワットとか)のイメージ。
竜宮城のようなファンタジックな雰囲気もするし、煌くようなアルペジオは金銀の豪奢な装飾だったり、海中をおよぐカラフルな熱帯性の魚たちだったり。
いろんなイメージが沸いてくるところがとても楽しい。
ドビュッシーは寺院をテーマにするのがなぜか好きだったらしく、"沈める寺"、"そして月は廃寺に落ちる"など、タイトルに「寺」が入っている曲が数曲。

2.グラナダの夕べ "La soiree dans Grenade"
この曲やラヴェルの"スペイン狂詩曲"に使われている"ハバネラ"は、フランスの作曲家が好んだリズムらしい。
スペイン風に限らずラテン系の曲はあまり相性が良くない。ラテン系で好きな曲といえば、リストの《スペイン狂詩曲》やアルベニスの《イベリア組曲》、それにヴィラ=ロボスの《ブラジル風バッハ》のピアノが入った曲くらい。


3.雨の庭 "Jardins sous la pluie"
主題は《眠れ坊や眠れ Dodo, l'enfant do》というフランスの童謡がベース。
終盤(Tempo)には入ると、《もう森になんか行かない》の旋律が出て、主題旋律と交錯する。
原曲の童謡”Do do l'enfant do”[Youtube]

今まで聴いたことのある"雨の庭"は、雨の粒を表現するかのようなスタッカート的なタッチで同音連打を弾く人が多い。
ジェイコブスのスタッカートは、響きが柔らかく、音の粒が滑らかなスタッカートで軽やかなリズム感があり、旋律の流れがレガートのように流麗。
クレシェンドとデクレッシェンドは波のように寄せては弾くような連続したうねりでダイナミズムがある。
アルペジオや持続音の響きが層的に重なったり、同音連打の響きが平面的に拡散したり、色彩感というよりも響きが多彩なところが面白い。
ジェイコブスのピアニズムの特徴である生き生きとしたリズム感、鋭い和声感覚、それに歌うようにしなやかな音楽の流れが、"雨の庭"を聴いているとよくわかる。
線的な"雨"のイメージではなくて、雨が降り注ぐ"庭"の空間的な広がりがあり、タイトルどおり"映像"を見ているように、洒落たフランス庭園の庭の情景が音を通して移り変わっていくような感覚。


tag : ドビュッシー ジェイコブス

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ポール・ジェイコブス 『Busoni ;the Legendary Recording』 ~ ブゾーニ/多声演奏の訓練のための6つの小品
ブゾーニのオリジナルのピアノ作品で有名なのは、長大な《対位法的幻想曲(Fantasia Contrappuntistica)》。
唯一の《ピアノ協奏曲》も演奏時間が長いことでは良い勝負だろうけれど、どちらの曲も聴いたことのある人は少ないに違いない。
ピアノ独奏曲なら”カルメン幻想曲”として知られる《ソナチネ第6番》は録音もわりとあるので、知られている方かも。

20世紀に入るとブゾーニはかなり現代的な作風に変わっていったらしい。
ピアノ作品に限って言えば、有名なバッハなどの編曲ものとは違って、調性感が曖昧になり、やや捉えどころない曖昧さと形式が自由な幻想曲風なタッチの曲が多い。

ブゾーニが書いた珍しい練習曲集が《多声演奏の訓練のための6つの小品/Sechs kurze Stucke zur Pflege des polyphonen Spiels》(1923年)
録音も少ない曲なので、ジェイコブスのアルバムで初めて聴いたところが、予想外に面白い。
練習曲といっても対位法の練習曲なので、メカニック用の練習曲とは随分違っていて、単に指回りを”練習”するだけではないピアノ曲。
ジェイコブスはバッハとブラームスの編曲ものを弾くときとは違ったタッチで、シャープな打鍵とクリアな響きでとても明晰。
幻想曲風の和声の響きを聴くと、ドビュッシーを連想するけれど、感性的にはずっと乾いている。
対位法を使っているので、かっちりとした構成感もあり、ドビュッシーの《エチュード》ほどに摩訶不思議なところは少ない。

Busoni;the Legendary RecordingBusoni;the Legendary Recording
(2000/07/24)
Paul Jacobs

試聴する(allmuisc.com)

                      

この小品集には、最初に5曲版、最後に7曲版、それにジェイコブスが録音した6曲版の3バージョンがある。
録音をよく見かけるのは5曲版。
6曲とも旋律がメロディアスで和声がやや不協和がかったところがあって、晩年のブゾーニらしい現代音楽風。
葉巻をくゆらしたようなもやもや感とふわふわした浮遊感が漂っている気がする。
ほんの少し、ショスタコーヴィチの《24の前奏曲とフーガ》に通じる現代的な不確実さのような雰囲気を感じる。

1. pledudietto
可愛らしいオープニング風の雰囲気のある練習曲。私にはカッコウの二重唱みたいに聴こえる。

2. Sostenuto
冒頭とエンディングの半音階が密やか。対位法で取り巻かれた息の長いパッセージの旋律も摩訶不思議な雰囲気。

3.Andante moltotranquillo e legato
前曲と同じく不可思議なもやもや感のある旋律の動きと和声。

4.Allegro
この曲集の中で唯一エネルギッシュな曲。
練習曲の典型のような曲とはいえ、波のように疾走するパッセージとその上を流れる主旋律との対比が鮮やかでダイナミック。
これがそれぞれ左手と右手(低音部と高音部)に交代して現れて絡み合っていくところがとても面白い。

Busoni / Paul Jacobs, 1976: Etudes 3 & 4,
from Sechs Kurze Stücke Zur Pflege Des Polyphonen Spiels




5.Preludio:‘Andante tranquillo’
冒頭はややスローテンポ。パッセージが細かくなると加速感があり、数パターンの旋律が現れて、これも面白い練習曲。

6.‘Nacht Mozart’:Adagio
モーツァルトのオペラ《魔笛(Die Zauberflote)》の"the Armed Men"が出てくるシーンの音楽。(Youtubeでリファレンスのために少し観た)オペラよりもずっと秘めやかな雰囲気。
声部の音色がそれぞれ違っているので、シンプルな旋律なわりに立体感もあるし、そもそもオペラは全く聴かないので、歌なしの劇伴音楽だけの方が聴きやすい。

Busoni / Paul Jacobs, 1976: Etude 6, from Sechs Kurze Stücke Zur Pflege Des Polyphonen Spiels


tag : バッハ ブゾーニ ジェイコブス

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新生姜を使ったご飯
ちょうど新生姜がお店に並んでいる時期。
こういう旬の野菜は、えんどう豆や筍のように、炊き込みご飯にして食べるのが恒例。

白米だけのご飯はほとんど食べず、いつも雑穀米や豆、野菜やお魚を混ぜた炊き込みご飯と炒めご飯。
赤飯のときは別として、押し麦はいつも1/4合を混ぜている。

雑穀米の場合は、それに加えて玄米1/2合、または、五穀米大さじ1.5を混ぜるのが定番。

お豆の場合は、炒った大豆や黒豆、軽く茹でた緑豆か小豆。緑豆や小豆にはデトックス効果があるらしい。
もち米を混ぜるとおこわ風。(押麦は入れない)

野菜を混ぜるなら、かぼちゃ、さつまいも、大根、にんじん(おろしたもの)のどれか。
あとは旬のたけのこや新しょうがなど。
他には、きのこご飯(まいたけ、しめじ、えのき)、ひじきご飯(にんじん、切干大根も)など。

お魚なら、鮭、秋刀魚、マグロなど。
必ず焼いてから一緒に炊き込むと生臭さがなくて、香ばしい。
シーチキンなら、油分を除くか、そのまま入れる。

季節とその時の気分で、混ぜ込むものが変わるので、ご飯ものはいつも充実している。
特におかずが多くないときなら、具材を多めに入れると、ボリュームが出て、いろんな味が楽しめるので、とっても重宝。


新生姜をつかったご飯でも、具材をいろいろ加えたり、炊き込みではなく炒めご飯や混ぜご飯など、バリエーションはいろいろ。

新生姜の炊き込み混ぜご飯[Farmer's KEIKO 農家の台所]
このレシピだと、かつおぶしとちりめんじゃこも混ぜて、炊き込み&混ぜご飯。
両方とも常備していないので、新ショウガだけでも十分美味しいし、とっても良い香り。

たけのごご飯のように、薄揚げを一緒に炊き込むのも、お揚げで味がしっかりして美味しい。
✽爽やか 美味しい 生姜ご飯✽ [Cookpad]

珍しいのは、炒めご飯。
おあげとしょうがの炒めごはん(*^^*) [Cookpad]


新しょうがは、まとめて数個パックされているのを買ったので、一部は千切りにして冷凍。これで、いつでもしょうがご飯が食べられる。

残りは、コメントで教えていただいた自家製粉末しょうがづくりのためにスライス。
冬に干し芋づくりで使ったメッシュケース&竹ざるをセットし、スライスしょうがをひろげて、数時間天日干し。
すっかり干からびて、元の量の何十分の一にまで縮んでいた。
干し芋よりもはるかに量が少なくなっているので、ジンジャーパウダーの価格が高いのも納得。

やっぱり夏は直射日光が強いので、乾燥するのも早い。
これをミルサーやすり鉢でスリスリすれば、粉末しょうがの完成。
紅茶に入れるとジンジャーティ、夏は即席冷やしあめ、冬にはしょうが湯。お料理の風味づけにも使えてとっても便利。
耳鳴り治療のための音響・音楽療法 (5) ①Tailor-made Notched Music Training
2010年1月に公開された耳鳴りの新しい音楽療法に関する論文”Listening to tailor-made notched music reduces tinnitus loudness and tinnitus-related auditory cortex activity”について、多くのサイトで紹介されている。

論文全文(英文/PDF)

添付資料(音源説明および使用した3つの音源ファイル)
  Download Supporting Information (PDF)
  Movie S1. Example of target notched music (WMV)
  Movie S2. Example of placebo notched music (WMV)
  Movie S3. Example of original (non-modified) music (WMV)

この音声ファイル3つを聴き比べると、S1とS2は高音がカットされて全体的に低音が強くなっている。
・S1:被験者の耳鳴り周波数を中心にした1オクターブ分の周波数域を原曲の周波数スペクトラムから除去。
・S2:被験者の耳鳴り周波数域から外側で、1オクターブ分の周波数域をランダムに除去。
・S3:無加工版。S1、S2と違って、高音域がよく聴こえる。

日本語抄録(JST科学技術文献情報データベース)



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開発者のウェブサイト(Institute for Biomagnetism & Biosignalanalysis )
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The novel Tinnitus Treatment("tailor-made notched music training")の概要

この音楽療法の概要および研究の進捗状況を要約すると

<被験者>
 ・慢性耳鳴り患者(12ヶ月超)
 ・”tonal”な耳鳴り (例:ピーという音、ホイッスルのような音)
 ・重度の聴力損失がない(35dB未満)
 ・耳鳴り周波数が8KHz以下(使用したサウンドシミュレーターの限界値)[論文中に記載]
 ・比較的年齢が若い(18~55歳。平均年齢は約40歳代)

<新療法の目的と手法>
-音楽的トレーニングにより、耳鳴りの音量および不快さを低減させることを目的とする。
-患者は自分の好きな音楽を選択可能。
-個々人の症状に応じて、周波数スペクトルが変化するように音楽を修正・加工する。
-12ヶ月間に毎日1~2時間、カスタマイズした音楽を[所定のクローズド型ヘッドフォンで]聴くと、耳鳴りの音量を低減する神経生理学的プロセスが引き起こされる。

<未解決な点>
現時点では、この音楽的訓練が、被験者と異なる耳鳴り症状を持つ患者に対しても効果があるかどうかはわからない。
例えば、より高齢の患者、聴力損失のある患者、かなり高周波数の耳鳴りを持つ患者、noisiform[雑音型]耳鳴り患者など。

また、この新療法は耳鳴りを治癒するものではない。被験者の耳鳴りは、音量的に小さくはなったが、完全には消滅しなかった。


<フォローアップスタディの計画内容>
-さらに発展させた”tailor-made notched music training”の評価を行う。
-現在、短期・集中型バージョンのトレーニング法の確立を検討中。
-今後、高周波数域での聴力損失を持つ高齢を対象に、この手法を評価する。

<追記:フォローアップスタディの記事>
耳鳴り治療のための音響・音楽療法(5) ②Short and Intense Tailor-Made Notched Music Training


<今後の展望>
本手法を研究・開発したInstitute for Biomagnetism & Biosignalanalysis は医学研究組織であって、現在では限定した被験者に対してのみ、この手法を適応している。医療行為は許可されていない。
しかし、規模を拡大した臨床治験を通じて、新療法を多くの患者に提供するため、耳鼻咽喉部門との連携を模索中である。


Commercial plagiarisms(盗作ビジネス)
現時点で、この新療法は医療行為として実施されていない。
もし、この療法を売り込んできたサプライヤーを見つけた場合(インターネットなどで)、我々の持つ科学的経験・方法論・専門性に裏付けられたものではない。
また、サプライヤーが以下のことを明確に説明しているかどうか確認が必要。

○耳鳴り患者の条件
新療法は下記の限定された条件の耳鳴り患者に対してのみ、有効性が検証されている。
その条件に合致しない耳鳴り患者がこの新療法を行っても、今のところ肯定的な結果は得られていない。

 ・”tonal”な耳鳴り (例:ピーという音、ホイッスルのような音)
 ・聴力損失が35dB未満
 ・耳鳴りの周波数が安定し、8000Hzより低い
 ・年齢は18歳~55歳

○耳鳴り周波数を特定するための検査
絶対的に重要な点は、耳鳴り周波数を細心の注意をもって正確に特定することであるが、これは全く容易なことではない。
測定した耳鳴り周波数が間違っていれば、このトレーニングは無駄である。
検査には高周波用聴力計と防音室が必要で、聴力検査の専門技術者が行う必要がある。
検査は数回実施し(可能ならば日を変えて)、30~60分かけて行う。

○使用機器等について
音楽ファイルが、MP3ファイル形式などに圧縮されている場合は、効果が低下しかねない。
ヘッドフォンや音楽プレイヤーといった使用機器とその設定も非常に重要である。
ヘッドフォンの機種によって適合度が全く異なり、不適応な機器や誤った設定の場合、訓練しても無駄になる。

(以上は、ウェブサイトの要約)



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新音楽療法に関するレビューなど
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関連記事(英語サイト)
Notched Music Therapy May Diminish Tinnitus(MEDPAGE TODAY)(December 28, 2009)
Music therapy 'may help cut tinnitus noise levels'(BBC News)(29 December, 2009)



研究者が”Commercial plagiarisms”というページを設けているくらいに、便乗ビジネスが多いらしい。
少し検索してみると、セルフ・ヘルプサイトやYoutubeなどで、この療法を実践する方法が載っている。
神経学を応用した他の音楽療法は、複雑なアルゴリズムを使っているらしく、文献を読んでも使用する音楽の具体的なカスタマイズ方法がわからない。
それと違って、この療法は、”ローコストで簡単”というコンセプトどおり、音楽編集ソフトを使えば、音楽ファイルから特定の周波数帯を除去した”notched music”を作成すること自体は容易なので、個人的に実際に試した人もいる。(結果についてはわかりません)

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備考:”Tailor-made Notched Music Training”に関する正確な情報は、
     ウェブサイト・論文などで直接確認してください。
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以下は、個人的に関心のある点についてのメモ

(1)音楽の種類・パターンによって、効果の度合いが変わるのでは?
この療法の良い点は、自分の好きな音楽を使うため、精神的にプラスの効果も期待できること。
好きな曲といっても、あまり音が少なかったり、音域が狭い音楽だと、被験者の耳鳴り周波数周辺の音が少なくなり、除去する部分が少ないと効果が低くなりそうな気がする。

たとえば、8000Hzの耳鳴り周波数をもつ人が、音域が低く(低周波数の)音の数も少ないバッハの無伴奏チェロ組曲を聴くとすると、耳鳴り周波数付近の音は、管弦楽曲に比べてはるかに少なさそうに思える。
チェロは倍音が多い楽器とはいえ、基本音の音域はC1-G4と4オクターブで65.4Hz~659.3Hz。周波数スペクトルを見てみると、倍音は基本音から遠ざかるほど音量も低減していく。
逆に、耳鳴り周波数が低い場合は、音楽と耳鳴り周波数の重なりが多くなって、もともと音が少ないので、その周辺部分がごっそり除去されてしまうと、かなり聞きづらい音楽になるのでは?

クラシックは演奏のフォーマットが多種多様なので、個々人の耳鳴り周波数によって、効果の高さが曲によって違う気がする。
少なくとも、1つの楽器だけを使う器楽曲の独奏(と緩徐系の曲)よりも、オーケストラや室内楽曲など複数・多数の楽器を使って、音の数や周波数が広域にわたる曲の方が向いているように思える。
音楽のタイプの違いと効果に関して検証したデータは今のところ公表されていない。
同じ聴くなら効果が高い音楽を聴く方が治療期間(1年間)も短くてすむのでは?
ウェブサイトの情報では、治療期間を短縮したプログラムを開発中とのこと。

(2)Noisiform[雑音型]耳鳴り、音楽耳鳴りには適用できない?
今回の被験者は”tonal”型耳鳴りなので、比較的耳鳴り周波数が一定で安定している。
Noisiform[雑音型]やMusical[音楽型]耳鳴りの場合は、周波数が広い帯域で変動するので、原理的に考えて、この療法が適用できないように思える。
フォローアップ研究でも、Noisiform[雑音型]の耳鳴り患者に対して評価する予定はないらしい。
Musical[音楽型]耳鳴りについては、そもそもそういうタイプの耳鳴りがあること自体、全く言及していない。
それに、”tonal”型耳鳴りであっても、同時に数種類の耳鳴りが鳴っている場合、音楽から除去すべき周波帯域が増えるので、効果はどうなるのだろう?

(3)高周波数の耳鳴り患者にも適用できる?
今回の被験者は8000Hz以下の耳鳴り周波数に限定されていたが、これは使用機器の制約によるもの。
8,000KHz以上の高周波数の耳鳴り患者に対する効果については、今のところ研究データがない。

(4)高齢者の耳鳴り患者における効果は?
被験者は高齢者が少なかったので、高齢者に対する効果は未検証。フォローアップ研究では、高周波数の聴力損失のある高齢者に対する評価を実施予定とのこと。

(5)使用できるヘッドフォンは限られる?
”ヘッドフォンの機種によって適合度が全く異なり、不適応な機器や誤った設定の場合、訓練しても無駄になる”と説明されている。
この療法では、試験ではクローズド型ヘッドフォンを使っていて、それも機種が限定されるらしい。
スピーカーで聴くより、ヘッドフォンの方が音の細部がクリアに聴こえるというところは良いけれど、クローズド型のヘッドフォンは、長時間つけていると頭や耳が圧迫されてかなり負担がかかる。
オープン型やセミオープン型のヘッドフォンでは、効果が薄れるのだろうか?
ヘッドフォンの種類や、ヘッドフォンをつけない場合(スピーカー使用)の比較効果については、研究報告が記載されていないので、実際にどの程度効果の違いがあるのかがわからない。

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yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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