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ソロモン・ヴォルコフ著 『ショスタコーヴィチの証言』
20世紀のクラシック音楽界最大の奇書は何かと聞かれたら、この 『ショスタコーヴィチの証言』だと答えたくなる。
この本は、ロシア人の音楽学者ソロモン・ヴォルコフが、ショスタコーヴィチの出版許可を得てインタビューをまとめたもので、ヴォルコフは1976年にソ連からアメリカ合衆国に亡命し、1979年に発表した。原題は『Testimony』。
この本は内容そのものというよりも、そもそもこの書の存在自体が”偽書”ではないかという論争が勃発し、ソ連政府と同時代の音楽家や研究者も巻きこんで、一大ミステリーとなったかのような著作である。
この『証言』は捏造であると非難したソ連は、ショスタコーヴィチの公式発言を集めて編集した一種の回想録な体裁の本を発表した。
まるで表の顔(ソ連が編纂した公式見解)と裏の顔(ショスタコーヴィチがヴォルコフに語った(とされる)証言)の両方が出揃ったかのようだ。

ショスタコーヴィチの証言 (中公文庫)ショスタコーヴィチの証言 (中公文庫)
(2001/06)
ソロモン ヴォルコフ

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「偽書」説をめぐる論争はWikipediaにコンパクトにまとめられている。

この『証言』に対して、作曲家の吉松隆の論考『「ショスタコーヴィチの証言」は偽書的「聖書」である』が出されているが、ショスタコーヴィチ研究学者のような真贋論争ではなく、作曲家でもあり文筆業も営むという彼の視点が面白い。

偽書論争は、”100%ショスタコーヴィチの証言である”ということはありえないという結論に落ち着いたらしいが、かといって、100%ヴォルコフの捏造とも言えないようなリアリティがある。ヴォルコフがショスタコーヴィチと親交があったのは事実らしい。

ショスタコーヴィチが語ろうと語るまいと、当時のスターリン体制化のソ連がどんなものかは、同時代のソ連人にとっては共通理解があったに違いない。次々と失脚して収容所送りになったり、銃殺刑にされる音楽家に関する記述は、かなり事実に基づいているのではないかと思える。
それについて、ショスタコーヴィチの考えや、登場人物との係わりがどうであったかというは別として。こればかりは当事者しか真偽はわからない。

なぜかソ連ものはいろいろ読んだ記憶があって、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』や『収容所群島』、ヴォスレンスキーの『ノーメンクラツーラ』とか、歴史書を読んでいた。
モンサンジョンがまとめたリヒテルの伝記は、戦前~冷戦時代についても書かれているが、ソ連時代は、突如として見に覚えのない(心当たりがある場合もあるが、罪になるようなものではない)理由で、収容所送りになって獄死したり、銃殺されるという不条理が蔓延していた時代。
リヒテルの父はドイツ人だったが、第二次対戦中にソ連のドイツ大使館員にピアノを教えていた経歴だけで、誰かの密告がきっかけでスパイ容疑をでっちあげられてしまい、銃殺されてしまった。

この『証言』は、全編を鬱々とした暗さが漂い、スターリン体制下での日常的に存在する恐怖感のようなものが、社会や国民の間に根付いていたような印象を受ける。
「あのころ、誰もが告発文を書いていた。たぶん、作曲家は五線紙を使い、音楽学者は無地の用紙を使っていたのだろう。」と、ショスタコーヴィチ(またはヴォルコフ)は言っている。
登場人物も、権力ピラミッドの上部にいたはずの人間が突然銃殺されたり、昨日まで劇場に来ていた音楽家が突如消えたりと、そういう話があちこちで出てくる。

ショスタコーヴィチ自身の作曲に関する話もいろいろ載ってはいるが、よく取り上げられている曲は主に交響曲第4、5、7、8、9、14番。ショスタコーヴィチがソ連当局の批判にさらされた渦中に作曲した曲が中心なので、どちらかというと政治的な背景との関係で説明されているため、純音楽的な話はそれほど多くはない。
当局に公式に批判され、否定されれば、作曲家生命だけでなく、下手をすれば人間としての生命まで奪われてしまいかねない時代だったので、常に生命の危険にさらされながら作曲しているようなところがある。
これでよく15曲も交響曲を書き続けたものだと思うが、ショスタコーヴィチの曲に分裂的な気質を感じるのは、曲が表層と深層の間で葛藤しているような不安定な危うさがあるのかもしれない。
自作の意味づけについては、第4章「非難と呪詛と恐怖のなかで」、第5章「わたしの交響曲は墓碑銘である」、第6章「張りめぐらされた蜘蛛の糸」に、比較的まとまって書かれている。

第2章にあたる「わが人生と芸術の学校」が一番面白く、彼の同時代の作曲家(ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、ハチャトリアン、ベルクなど)たちへに関する回想や評価が書かれている。特に、音楽院時代の師であったグラズノフに関する回想はとても詳しい。同時代の作曲者に対する評価や回想は第7章「ロシア音楽の伝統を受け継いで」にも載っている。
そもそも、章分けはされているけれど、グラズノフの話は第2章以外にもよく出てくるし、いろんな話が各章に錯綜しているので、構成的には雑然としたところはある。
この本は時系列的に並べられていないし、年代が明記されていないことがほとんどなので、時間的な流れがわからないという厄介なところはある。

2回も言及されて記憶に残っていたエピソードは、スターリンがラジオで聴いたというユージナが弾くモーツァルトのピアノ協奏曲第23番のレコードがあるかとラジオ委員会に訊ねたとき、誰も「ありません」とは怖くて答えられなかった。早速、レコードを届けるように命じられたラジオ委員会は、すぐにピアニストのユージナと指揮者とオーケストラをかき集めて、徹夜で録音してたった1枚のレコードを製作し、翌日スターリンに届けたという。
このユージナという女性ピアニストは、スターリンの大のお気に入りのピアニスト。度胸の良い女性で、その反体制的言動のために演奏活動は制限されたが、粛清されずに生き延びたのは、スターリンが大目に見ていたためらしい。
徹夜録音の際、初めの指揮者は恐怖で思考麻痺になり自宅へ送り帰され、2人目は震えて間違いばかり、結局3人目の指揮者を連れてきて、どうにか最後まで演奏できたという。
このレコードは、スターリンが別荘で亡くなったときに、プレーヤーに載っていたと言われる。
(この話が本当かどうかは知りません。)

最終章「過去と未来の狭間」では、ショスタコーヴィチがハチャトリアンと共同で、国歌の作曲に取り組む話があって、最後はスターリン自ら登場して委嘱した5作曲のうち、どれを国歌にするかと決める話がある。
ショスタコーヴィチ&ハチャトリアンの作品に決まりかけたところ、若干の修正を望むスターリンに対して5時間もあれば、と答えたショスタコーヴィチ。あまりの短時間ゆえに真剣さに欠けるとスターリンが立腹し、結局、別の作曲家の曲が国歌に決定したのだった。

この『証言』は、ショスタコーヴィチが自ら語ってはいない内容がかなり(大部分かも)含まれているとはいえ、スターリン時代のソ連における音楽家たちの生活や思考、当局と音楽家たちの関係、さらには、有名な作曲家やソ連の音楽家に関する数多のエピソードが詰め込まれている。
この多数のエピソードさえその真偽も怪しいらしいが、完全なフィクションというにはリアリティがあり過ぎるし、フィクションといっても全く事実がないわけではないので、当時のソ連の音楽界を描いたようなノンフィクション・ノベル的な面白さがある。
一人の想像力でこれだけの内容が書けるわけもないので、偽書といっても数多くの資料を集めて創作したに違いない。どこまでが本当の事実に基づくものなのかは、当のヴォルコフでさえ正確にはわかっていなかったのではないかという気がする。

tag : ショスタコーヴィチ 伝記・評論

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(非公開コメント受付中)

ユージナ
ショスタコーヴィチ研究本などによると一般的には偽書ということで結論がついたという話。でも今なお正しい指摘や、考え方が書かれていて興味深い本ですね。そのシニカルな視点や、ユージナをはじめとした奇矯な人物。当時、復刻されたユージナのディスクを買い集めた思いでがあります。今度もまとめて出るみたい。すでに持っているものともだいぶだぶりますが、気になっています。
偽書とはいえフィクションだけでは書けないですね
fairchild670さん、こんばんは。

本の内容がショスタコーヴィチの言説ではなかったとしても、当時のソ連の音楽界に流布していた話がちりばめられた本のように思えます。
あたらずと言えども遠からずくらいの事実が入っているなら、一読の価値はありますね。話半分くらいに思って読むのが良いでしょうが、面白い本ではあります。
ユージナの度胸の良さには感服。ディアベリやブラームスをHMVで試聴してみましたが、単刀直入というかなかなかきっぷの良いピアノを弾くように感じました。
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クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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