マルティヌーの帰巣本能 

2009, 09. 06 (Sun) 18:14

「マルティヌーの帰巣本能」とは、マルティヌーについて、政治学者の故矢野幌氏が記した小論のタイトル。『20世紀音楽の構図―同時代性の論理(音楽選書)』(音楽之友社、1992年)という評論集に載っていた。
9頁余りの短い文章で、マルティヌーの音楽のコアを”帰巣本能”と評して、それをいろいろな角度から説明しているのが面白い。

マルティヌーの伝記作者ミフーレ教授は、マルティヌーには、「その心の神秘的な片隅、すなわち幼少期の年月についての記憶の流木を貯めておく片隅」みたいなものがあるという。
マルティヌーの幼い頃、教会の鐘楼の上の一室に住んでいて、これが193段の階段を登ったところにある下界が一望できる空間で、教会の鐘の音やオルガンの音が聞こえてきた。
著者は、この空間での10年余りの生活がその”片隅”を作ったのだろうと言う。

音楽院時代のマルティヌーはさほどパっとしなかった。チェコフィルの第2ヴァイオリン奏者であった時代、常任指揮者だったターリッヒによる作品解説が作曲家としては役に立ったらしい。
その後、パリに留学してルーセルに師事し、当時注目されていたオネゲルとストラヴィンスキーの影響を強く受ける。
このパリ留学時代に、マルティヌーの故郷に対する心理的絆が強化されたようで、それが終生マルティヌーの意識を縛ることになったという。
ミフーレ教授が「外国の環境でなつかしい故郷の声で人々に聴いてもらう内面的必要」がマルティヌーにはあり、マルティヌーは前衛音楽は全く書かずに、風土性を宿した音楽語法で作品を書き続けた。

ナチスがチェコを支配下に置き始めた時期に書かれた作品には、当時の政治的状況がストレートにマルティヌーの作品に表れている。
《2つの弦楽合奏とピアノ・ティンパニのための二重協奏曲》(1939年)は強い政治的な問題意識が動機となり、《野外のミサ》も反戦・反ナチズム、《リジツェへの追悼》はナチスにより壊滅されられた村への鎮魂曲である。

ナチスのブラックリストに載ったため、当時住んでいたパリを脱出してアメリカへ渡るための逃避行は9ヶ月に及ぶが、その間もマルティヌーは作曲し続けた。
この逃避行の間に作曲したピアノ独奏曲《幻想曲》は、同じく米国への亡命の途上にあった友人のフィルスクニーに献呈している。
マルティヌーが多作だったのは、「作曲がまさに呼吸そのものであったという彼の天性によるもの」。

米国時代は献呈作品が多くなるが、これは恩人に対しては作品によって報いるという義理堅い性格だったためらしい。
交響曲第1番はクーセヴィツキー夫人、第2番はクリーブランド在住のチェコ系市民、第3番は指揮者のクーセヴィツキー、第4番はヘレンおよびビル・ジーグラー、第5番はチェコ・フィル、第6番はシャルル・ミンシュに献呈されている。ピアノ・ソナタは友人のルドルフ・ゼルキンへの献呈。

終戦後、チェコに戻れると期待したが、すぐに東欧が共産化していったため、結局、帰国は諦めて、米国と欧州の間が何度か行き来していた。最後にはローマやスイスで暮らしていた。
1953年以降の作品はことごとくチェコへの郷愁が漂い、《泉開き》(1955)、《じゃがいもの茎の煙の伝説》(1956)、《たんぽぽのロマンス》(1957)が、その系統の作品。
オラトリオやオペラは人間の生死や宗教の問題をテーマにし、ピアノ協奏曲第4番《呪文》と第5番は宗教的な色合いを帯びている。

政治的な理由から故郷を離れて二度と帰ることができなかったマルティヌーの生涯は、”永遠の孤独”や”自己疎外”に苦しんだが、マルティヌーを救済したのは宗教ではなく、”ロマン化された故郷”であり、”帰巣本能”とともに一生生きたというのが、著者のマルティヌー評。
ドヴォルザークやスメタナも故郷への思いを作品にした曲はいくつも書いているが、マルティヌーの場合は実際に故郷へ帰りたくても帰れなかったため、郷愁の念が色濃く流れている。

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