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久保田慶一 『孤高のピアニスト 梶原 完 ~ その閃光と謎の軌跡を追って』
戦前・戦後期に欧州を拠点として活動していた日本人ピアニストで日本でも名前が知られているのは、原千恵子や田中希代子だろうか。
2人ともパリ国立音楽院でラザール・レヴィに師事して優秀な成績で卒業し、国際コンクールの入選・入賞歴もあって、キャリアはとても華々しく、欧州で演奏活動を続けていた。

彼女たちに比べて、その名前を聞いたことのある人はとても少ないと思われるピアニスト梶原完(かじわら・たかし)も、1950~60年代に欧州で演奏していたプロのピアニスト。国際的ピアニストとして日本のTVで紹介されたこともある。
彼は、戦前・戦中期の日本で音楽教育のほとんどを受けており、戦後直後、東京音楽学校(今の東京芸大)の研究生時代に日本でプロデビューし、東京芸術大学助教授だった30歳の時に在外研修という名目で渡欧。その後、助教授職を辞職してドイツで暮らしながら、欧州各地でピアニストとして演奏活動を行いながら、ベッツドルフというドイツの小都市にあるアドルフ音楽院でピアノと室内楽を教えていた。日本に帰ることなくドイツに留まり、糖尿病が原因で64歳で亡くなった。

戦後直後に日本国内で華々しくデビューはしたが、彼は国際コンクールに参加したことがなく入賞歴もないので、原知恵子と田中希代子と比べるとキャリアとしては地味。30歳で単身渡欧して、どうやってピアニストとして自立できたのだろう、という興味が湧いてくる。
彼の演奏スタイルは、立派な体格を生かしたダイナミックでメカニックの優れたヴィルトオーゾ的なピアニストとして出発しているので、ラザール・レヴィ門下でフランス流の音楽教育を受けた2人の女流ピアニストとは違ったタイプ。

梶原完は、通称カジカンと日本では呼ばれていた。
彼の一生を追った伝記『孤高のピアニスト梶原完―その閃光と謎の軌跡を追って』は、ピアニストの練木繁夫さんによる書評をたまたま読んで、名前を聞いたこともなかったこのピアニストの伝記を読みたくなってしまった。

早速伝記を読んでみると、彼の生まれ育った上海・東京の話から始まり、戦前・戦中・戦後の日本の音楽界の情勢、日本と欧州のピアニスト人生と通じた梶原完の演奏スタイルとそれに対するレビューの変化、教育活動と交友関係、演奏会リストに年表までついていて、歴史資料としてもいろいろ面白い。
本人が残した日記や手紙がほとんどなく、音楽関係の雑誌への投稿文や、ベートーヴェンの奏法に関する小論などが僅かに残されている。(巻末資料には載っていないが、リスト著『ショパン その生涯と芸術』への序文も書いている)

なぜか録音嫌いだったので、スタジオ録音やライブ録音もほぼ皆無に近く、残っている音源は放送局が放送用に録音していたテープと、弟子による私的録音のみ。
この伝記は、完を知っている音楽界の人々(学友・弟子・友人など)へのインタビュや追悼文集、演奏会の評論などの文献資料、残された数少ない録音、さらに当時の音楽界に関する歴史資料など、地道に資料を収集して、梶原完の辿っていった足跡を追っている。

孤高のピアニスト梶原完―その閃光と謎の軌跡を追って孤高のピアニスト梶原完―その閃光と謎の軌跡を追って
(2004/09/01)
久保田 慶一

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生い立ち~学生時代~演奏活動と教職(上海と日本)
生まれ育った上海と日本のまちや家族のことから、東京音楽学校の戦時中・戦後の教育体制の混乱、当時の音楽評論家の対談や評価の視点、かつて音楽評論の世界で吉田秀和と張り合っていた野村光一の梶原完に対する評価など、音楽界の事情が垣間見れる。

学生時代のエピソードがいろいろ書かれているところが面白い。
-中学時代の皇紀2600年記念行事で、ベートーヴェンの月光ソナタ、ショパンの幻想即興曲を全校生徒の前で演奏。周囲から一目置かれるようになった。
-東京音楽学校にピアノ伴奏で引っ張りだこ。練習熱心で、技術を磨くため1日10時間くらい練習していた。読譜と初見能力に優れていたこともあって、レパートリーも多かった。
-気さくな人柄で、自宅は友人たちのたまり場。よくどんちゃん騒ぎをして楽しんだり、教師時代には学生を自宅に招いたりと、友人や弟子たちに人気があった。
-音楽学校卒業後は、精力的に演奏活動を行い、ソロ、コンチェルト、2台のピアノに伴奏と、ソロリサイタルと海外研修の資金稼ぎに励んだ。
-戦時中だったので、卒業後は軍楽隊に入隊。芥川也寸志も同期で、彼が一番成績が優秀だった。

東京音楽学校に研究生として在学していた戦後直後に初リサイタルを開いてデビュー。
完は優れたメカニックが優れていたので、速いテンポで難曲をバリバリと弾いていくヴィルトオーゾ的スタイル。
プログラムも自身の高い技巧と演奏スタイルが生かされる曲が中心。その鮮やかでダイナミックな演奏から聴衆の人気は抜群に高かった。
ピアノ協奏曲を一晩の演奏会で3曲弾いたり(ベートーヴェン&チャイコフスキー&プロコフィエフ、シューマン&リスト&ラフマニノフ)、1948年に早坂文雄のピアノ協奏曲を初演(これは巻末リストには記載されていない)したりと、戦後期の混乱状態のなかでも、リサイタルに協奏曲にと、かなり精力的に演奏活動を行っていた。

当初はその技巧に優れた演奏に対して、音楽性が伴っていないと批判的な評論家も多かったが、次第に表現力も磨かれ、ロマン派の曲の演奏に対する評価も高くなっていった。
完は、ピアノ演奏を評価できる能力が高くはないと思われるような評論家に手厳しく批評されていたので、評論家というものがあまり好きではなかった。日本を離れた理由はいろいろあるが、堅苦しい芸大での教授職が負担になっていたことに加えて、この評論家との関係にも嫌気が差していたに違いない。
評論家の中で彼を評価したのは野村光一。野村はピアノ評論を専門にしていたらしく、梶原のスポーティな演奏とスケールの大きさを高く買っていた。
欧州へ渡ってかなり経っていた時でも、日本では野村が評価してくれていたとインタビュで話していたほどに、完は自分の演奏を認めてくれたことがうれしかったらしい。

欧州での留学生活、演奏活動、教育活動、晩年
留学生活

日本で師事したのがシュナーベル門下の福井直俊。渡欧後最初に師事した先生には、かなり速いテンポでバリバリとヴィルオソーゾ風に弾いたためで、音階からやり直し!と言われてしまった。
ずっと前の世代のピアニストでハイフィンガー奏法だった久野久も欧州へ渡ったが、同じように基礎からやり直すように言われて、がっくりと意気消沈してしまった。完の場合は、先生の方をとっとと見限ってしまった。
若い頃からいろいろなピアニストの演奏をレコードで聴いていて、ルービンシュタインと特にコルトーに傾倒していたし、自分の理想とするピアニズムのイメージが明確にあったので、ウィーンの偉い先生からどう言われようとさほど気にしていなかったらしい。
国から研修費用が出ていたので研修計画を勝手に帰るわけにもいかないので、適当に調子を合わせて次の研修予定のフランクフルト音楽院へ行くまで、研修期間をやりすごしたらしい。
フランクフルト音楽大学でも短期間学び(ここでも良い師にはめぐり合わなかったらしい)、最後に尊敬するコルトーのレッスンをフランスで受けた。リストの《ロ短調ソナタ》を弾いたが、この時にコルトーが校訂したリストの《ロ短調ソナタ》の楽譜をコルトー自筆のコメントを添えて贈られている。この楽譜は終生大切にしていたという。

ピアニスト・デビュー
生来の楽天的な性格に加えて、運を引き寄せる才能があるせいか、たまたま親しくなった演奏家仲間の縁からフランクフルトでデビューコンサートを行う道が開けたり、ソロやコンチェルトだけでなくインターナショナルトリオという室内楽トリオでも演奏したりと、不思議なくらいに順調な滑り出し。
運がよくても演奏自体が良くなければ、その運も尽きてしまうだろうが、テクニックがしっかりしていたことと、古典から現代まで多彩な曲で構成したプログラムで持ち味を生かせる曲が多かったこともあって、批評家のレビューもまずまず。
日本人ピアニストが珍しかったせいもあってか演奏会の入りも良く、レビューには日本人が西洋のクラシック音楽を弾きこなしていることに対する驚きが書かれていたりする。

レパートリー
彼のレパートリーはかなり広い。読譜能力と初見能力の高さは日本にいた頃から有名だった。
ソロは、ベートーヴェン、モーツァルト、得意のショパン、ドビュッシー、リスト、ラフマニノフ、etc.。ストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》や技巧華やかなリストの作品もよく弾いていた。
ピアノ協奏曲は、ベートーヴェン、ブラームス、ショパン、ラフマニノフ、シューマン、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなど。ブラームスとラフマニノフの2番、プロコフィエフの3番などの難曲も入っている。
ロマン派を中心に20世紀ものまで、地域もさほど偏りが少なく、ロシアものもかなり得意だったらしい。日本の作曲家の作品も度々取り上げていた。
完のレパートリーのなかで、ショパンは得意だったこともあって評価が高く、全て違う曲で構成されたオールショパンプログラムで、数日に渡って3回続けて連続演奏会を行ったほど。持ち前の技巧を生かしたパワフルでダイナミックなバルトーク(ピアノ・ソナタなど)やショスタコーヴィチ(ピアノ協奏曲第1番など)、色彩感と響きの美しいドビュッシーも好評。
聴衆があまり入らなかった演奏会や、手厳しいレビューを書かれたこともあったが、好意的なレビューも多かった。批評家のレビューを追っていくと、年を重ねるごとに演奏内容が向上していったのが良くわかる。(完は自身の演奏会のチラシやレビュー記事はまめにスクラップしていた。)

ベッツドルフのアドルフ音楽院
完はコンサートピアニストとして、北はスカンジナビアから南はパレルモまで、欧州のあちこちで演奏していた。年に50回ほど演奏会で弾いていたこともある。
そのうち、小都市ベッツドルフのアドルフ音楽院でピアノと室内楽を教えることに。
アドルフ音楽院での教育活動のウェートが高まると、演奏活動の範囲が徐々に狭まっていってしまったため、小都市での演奏会が多くなっていった。
フランクフルト音楽大学やニュルンベルグ音楽大学といった大都市での教職の誘いもあったが、それを断ってアドルフ音楽院にとどまっていたのはちょっと不思議。
大都会の音楽院で教職についていれば、また道も違ったかもしれない。それが良い方か悪い方か、どちらの方向へ向かったかどうかも、今となってはわからない。
ベッツドルフに留まったのは、1歳年上の内科医で音楽院長のアルント・アドルフへの好意(ずっと昔に亡くなった1歳上の兄がわりと思っていたのかもしれない)と、音楽院を共に支えた「同志」のような親交の深さ、それに、大規模な音楽院の堅苦しい教職よりもアドルフ音楽院の自由な雰囲気のなかで、演奏活動と教育活動を両立させる方が、自由人の完には望ましかった。

時流とピアニズム
このまま順風満帆でピアニストとして演奏活動を終生続けていれば、日本に帰らずともその名前が忘れ去られることはなかったかもしれないが、やはり芸術の世界は厳しいもので、ハッピーエンドにはならなかった。
1960年代後半ぐらいから、ベートーヴェンなどのウィーン古典派の演奏で、アシュケナージ、ブレンデル、ポリーニといった新進ピアニストが新しい奏法と共に次々と登場し、完の奏法はもう過去のスタイルとみなされていく。
著者久保田氏の分析によれば、完の演奏は1920~30年代に人気があったスタイルで、旋律を明瞭に歌ってそこにロマンティシズムを映し出すのではなく、音の響きの重なりや連続性のなかで感情を表現していくもの。愛用していたベヒシュタインを「唸る」ように弾いていたという。
この失われてしまった古き良き伝統的なスタイルを、戦後になって、珍しくも日本人から聴くことができたことが成功した理由の一つ。完を賞賛するときには「シュナーベルの(孫)弟子」という枕言葉が使われていたことからも、それがよくわかる。
また、完が渡欧した頃は、音楽大学の日本人留学生はいても、プロとして演奏活動をする日本人ピアニストというのはとても珍しかったらしい。

1960年代後半になると時流が変わって、以前のように演奏活動がスムースには立ち行かなくなっていく。
その理由として、完の演奏スタイルが時代遅れと思われた(旋律の流麗さと響きの清澄さが求められるようになっていた)、渡欧する日本人ピアニストが増えて珍しくなくなった、コンクールで次々と有望な新人が登場し聴衆の関心が中堅ピアニストには向かわなくなっていった、それにひそかに進行していた糖尿病の影響か、暗譜したはずの音を忘れるなどの大きなミスが多くなったことなど、外的・内的な環境の変化が、第一線で演奏活動を続けることを困難にしてしまった。

1968年のロンドン・ウィグモアホールのリサイタルで手厳しく批評されたため、イギリスでは大きなホールで演奏活動を行うことは不可能になる。
演奏上のミスも多くなっていたために、ウィーンやロンドン、パリなど、欧州の中心都市での演奏会を行うことはなくなってしまった。
当時の欧州ピアノ界の変化を彼も感じとっていたに違いなく、ウィグモアホールのリサイタルを最後に、アドルフ音楽院での教育活動と、近隣都市や病気療養に訪れた保養地での演奏会活動に限定するようになってしまった。

闘病生活と晩年
糖尿病も進行して昏睡状態に陥るほど重症になったこともあり、1972年~74年の2年間は音楽院で教えることが精一杯で、全く演奏会を行わなかった。
その後も年に1度くらいのリサイタルを開くだけになり、いずれにせよコンサートピアニストとして活動する限界に近づいていた。
アドルフ音楽院の教育活動に専念していくと、多い時は受け持っていた学生は70人くらいに増え、一人に対して1時間くらいレッスンをしていた。
教えることが好きだったらしく、レッスンも真面目で熱心に教えていたため、学生を車で送ってから真夜中に帰宅することも珍しくなかった。病気を抱えながらも、かなりハードな生活だった。
友人のピアニスト田村宏が東京芸大へ復帰するように勧めても、もう日本では忘れられているからと言って、ドイツを去ろうとはしなかった。
ピアニストの練木氏は書評で「世界に通用しなくなってから帰国する自分を許さなかったのだ。」と書いている。彼の性格からすれば、たぶんそれが一番の理由なのだと思う。

晩年は、病気と食餌療法のためにすっかり痩せてしまい、体力も衰え腕の筋肉も落ちて、コンサートでは音を絞り出すようにピアノを弾いていた。
音楽院で教えながら時々演奏会を開く以外は、日本から呼び寄せた老母と2人でまるで隠者のようにひっそりと暮らしていたらしい。
母が亡くなった後、持病の糖尿病がさらに悪化して、入退院を繰り返していた。
かなりの病院嫌いだったようで、たまたま日本から訪れた弟子にタクシーを呼ばせて、無断で病院を抜け出して自宅に戻ったこともある。
その数週間後、心不全の発作に見舞われ、自宅の庭先で倒れていたのが最期の姿だった。

弟子でアドルフ音楽院長の娘でもあるウタ・ゾフィ・アドルフ・カトウは、師の生涯は「安らかにしかし寂しく」終焉を迎えたと評していた。その言葉どおりの晩年だった。

tag : 梶原完 伝記・評論

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yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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