ガブリーロフ ~ ショパン/ノクターン、バッハ/平均律曲集
2010-11-17(Wed)
ガヴリーロフが2007年4月のリサイタルで弾いていたショパンの夜想曲。
英国ガーディアン誌のウェブサイトの記事<'Feel free': Gavrilov plays Chopin>から、7曲のライブ録音がダウンロードできます。
まさに記事が評したとおり、”Feel free”なノクターン。
こんなアゴーギグたっぷりで、ドラマティックな夜想曲は誰も弾かないだろうと思えるほど。
夜静かに物想いにふけるというよりは、感情の横溢して激しく浮き沈みするバラードを聴いているような気分。
今まで聴いたことのあるノクターンとは、全く違う曲に聴こえてくる。こんなに素敵な曲だったのかと思い直しました。
ショパンのノクターンを聴いているといつも眠たくなるので、この曲集は誰の演奏を聴いても好きになれない。
でも、ガヴリーロフのノクターンなら、まず眠気を誘うことはなく(逆に目が醒める)、音はとても力強いけれど、響きは濁ることなくクリア。
全体的に音量が大きく、フォルテは強くて、もとから線の太い音質なので鋼のようにビシビシ。普通の静かでちょっとロマンティックなノクターンが好きな人には、騒々しすぎてあまり向かないかも。
でも、このフォルテのおかげで、弱音の美しさが一層引き立っていて、この弱音がモノローグのように内省的な雰囲気。静と動が一瞬にして移り変わり、激しく交錯して、これ以上はないというくらいに大胆な起伏に富んだノクターン。
1曲目の演奏が終って、聴きなれたノクターンとはあまりに違うせいか、ややためらいがちに拍手している聴衆に向かって、ガヴリーロフが言った言葉が”Feel free”。
この言葉は、ガヴリーロフのノクターンの演奏そのもの。
ロシアのピアニストに関する本を読んでいたら、ガヴリーロフは若い頃から、感情の赴くままに弾いていると指摘されていて、自己抑制が課題...なんていう評価が書かれていた。
ライブ録音なので演奏後の拍手が入っていて、演奏が進むにつれて、拍手にも力がこもっていく。
これだけ個性的なノクターンを聴かされたら、好き嫌いはともかく、思わず拍手したくなりそう。
ハ短調Op.48-1が終った直後は、とりわけ盛大な拍手歓声。(たぶんプログラムの最後?)。
このノクターンの演奏が一番好きで、曲自体も良いけれど、ささやくように繊細で憂いに満ちているかと思うと、激しくドラマティックにと移ろいゆく表情が鮮やかで、ほんとにバラードみたい。
アラウのノクターンもかなりバラード風で重々しくもドラマティックなところはあったけれど(でもやっぱり眠くなる)、ガヴリーロフのノクターンはそれをはるかに上回って、こんなノクターンが聴きたかった...という、(普通の)ノクターンらしくないノクターン。
ガブリーロフのノクターンなら、眠たくなることもなく全曲最後まで聴けそうなので、全集録音してくれたら良いのに。
このライブ録音のことを知ったのは、たまたまガヴリーロフのプロコフィエフについてを検索して見つけた記事を読んでいて。
ウェブラジオ番組表をアップしてくれている「おかか1968」さんのブログ記事<おかえりなさい。アンドレイ・ウラディーミロヴィチ。>に、ガブリーロフの複雑なピアニスト人生が書かれていて、1990年代の挫折体験が書かれている。(かなり有名な話らしい。ガヴリーロフはあまり聴いてこなかったので、そういう話は知らなかったけど)
出典は、ガーディアン誌のインタヴュー記事<The pianist who fell to earth>。
ガヴリーロフは、初めはEMI、次にDGと契約して次々と録音をリリース。1990年代半ばまではキラ星の如く輝くスーパースターだった。
1993年10月にDGに再録音したガヴリーロフのフランス組曲の美しさはEMI時代の旧盤と変わらず、ショパンのエチュードとはあまりに違っていて、全く驚きだった。
繊細さと力強さを合わせもった自由で伸びやかなフランス組曲の演奏からは、芸術的クライシスに陥っているかのような迷いや不安定さを感じることはないけれど、この頃かこの後くらいから、ガヴリーロフが暗中模索し始めた時期らしい。
ベルギー女王臨席のリサイタルを直前にキャンセルして以降、演奏会でのトラブルも多くなって、ピアニスト人生が暗転。DGとの契約も家も家族も失い、コンサートもほとんど開くことができず、長らく表舞台から消えていたようで、そういえば新譜が全然出ていなかった。
その5~6年後くらい、2000年に弾いていたバッハの平均律の第1番~第12番。Youtubeで聴いてみると、清々しく澄み切っていてとても温もりのあるバッハ。第1番のフーガや第4番のプレリュードとフーガはまるでモノローグのよう。
以前聴いたときは、ガヴリーロフにしては穏やかで、フランス組曲の方が自由で伸びやかな印象だった。
1990年代のガヴリーロフの苦境を知ってしまうと、この平均律の穏やかさは、まるで憑きものが落ちたかのように自分と静かに向き合っているような心境なんだろうか?と想像してしまう。
この平均律の方が、夜静かに想いを巡らすノクターンのような安らかさがあり、ゆったりとした短調の曲にはバッハらしい静謐な厳かさが漂っていて、聴けば聴くほどにじんわりと染み込んでくる。
Bach - WTC I (Andrei Gavrilov) - Prelude & Fugue No. 1 in C Major BWV 846
ノクターンは2007年春の音楽祭でのリサイタル。捉われることのない自由さで弾かれたノクターンは、ショパンのノクターンらしさとは異質な演奏に違いないけれど、なぜか作為性とかあざとさを感じることはなくて、内面から自然に湧き出てきたような音楽。
ピアニスト人生の天国と地獄を彷徨ったかのようなガヴリーロフのノクターンは、自由だけれど気ままに奔放というわけでもなく、強い確信を持った揺るぎなさを感じさせる。知性と感情とがようやく折り合いをつけるようになったのかもしれない。
このノクターンは好みははっきりと分かれる。あまりに自信に満ちた弾きぶりなので、こういうノクターンがあっても良いかも...と納得させられてしまう人は、意外と少なくないかも。(ダメな人はどうしても受け入れられないと思うけど) ※右カラム中段の「タグリスト」でタグ検索できます。
英国ガーディアン誌のウェブサイトの記事<'Feel free': Gavrilov plays Chopin>から、7曲のライブ録音がダウンロードできます。
まさに記事が評したとおり、”Feel free”なノクターン。
こんなアゴーギグたっぷりで、ドラマティックな夜想曲は誰も弾かないだろうと思えるほど。
夜静かに物想いにふけるというよりは、感情の横溢して激しく浮き沈みするバラードを聴いているような気分。
今まで聴いたことのあるノクターンとは、全く違う曲に聴こえてくる。こんなに素敵な曲だったのかと思い直しました。
ショパンのノクターンを聴いているといつも眠たくなるので、この曲集は誰の演奏を聴いても好きになれない。
でも、ガヴリーロフのノクターンなら、まず眠気を誘うことはなく(逆に目が醒める)、音はとても力強いけれど、響きは濁ることなくクリア。
全体的に音量が大きく、フォルテは強くて、もとから線の太い音質なので鋼のようにビシビシ。普通の静かでちょっとロマンティックなノクターンが好きな人には、騒々しすぎてあまり向かないかも。
でも、このフォルテのおかげで、弱音の美しさが一層引き立っていて、この弱音がモノローグのように内省的な雰囲気。静と動が一瞬にして移り変わり、激しく交錯して、これ以上はないというくらいに大胆な起伏に富んだノクターン。
1曲目の演奏が終って、聴きなれたノクターンとはあまりに違うせいか、ややためらいがちに拍手している聴衆に向かって、ガヴリーロフが言った言葉が”Feel free”。
この言葉は、ガヴリーロフのノクターンの演奏そのもの。
ロシアのピアニストに関する本を読んでいたら、ガヴリーロフは若い頃から、感情の赴くままに弾いていると指摘されていて、自己抑制が課題...なんていう評価が書かれていた。
ライブ録音なので演奏後の拍手が入っていて、演奏が進むにつれて、拍手にも力がこもっていく。
これだけ個性的なノクターンを聴かされたら、好き嫌いはともかく、思わず拍手したくなりそう。
ハ短調Op.48-1が終った直後は、とりわけ盛大な拍手歓声。(たぶんプログラムの最後?)。
このノクターンの演奏が一番好きで、曲自体も良いけれど、ささやくように繊細で憂いに満ちているかと思うと、激しくドラマティックにと移ろいゆく表情が鮮やかで、ほんとにバラードみたい。
アラウのノクターンもかなりバラード風で重々しくもドラマティックなところはあったけれど(でもやっぱり眠くなる)、ガヴリーロフのノクターンはそれをはるかに上回って、こんなノクターンが聴きたかった...という、(普通の)ノクターンらしくないノクターン。
ガブリーロフのノクターンなら、眠たくなることもなく全曲最後まで聴けそうなので、全集録音してくれたら良いのに。
このライブ録音のことを知ったのは、たまたまガヴリーロフのプロコフィエフについてを検索して見つけた記事を読んでいて。
ウェブラジオ番組表をアップしてくれている「おかか1968」さんのブログ記事<おかえりなさい。アンドレイ・ウラディーミロヴィチ。>に、ガブリーロフの複雑なピアニスト人生が書かれていて、1990年代の挫折体験が書かれている。(かなり有名な話らしい。ガヴリーロフはあまり聴いてこなかったので、そういう話は知らなかったけど)
出典は、ガーディアン誌のインタヴュー記事<The pianist who fell to earth>。
ガヴリーロフは、初めはEMI、次にDGと契約して次々と録音をリリース。1990年代半ばまではキラ星の如く輝くスーパースターだった。
1993年10月にDGに再録音したガヴリーロフのフランス組曲の美しさはEMI時代の旧盤と変わらず、ショパンのエチュードとはあまりに違っていて、全く驚きだった。
繊細さと力強さを合わせもった自由で伸びやかなフランス組曲の演奏からは、芸術的クライシスに陥っているかのような迷いや不安定さを感じることはないけれど、この頃かこの後くらいから、ガヴリーロフが暗中模索し始めた時期らしい。
ベルギー女王臨席のリサイタルを直前にキャンセルして以降、演奏会でのトラブルも多くなって、ピアニスト人生が暗転。DGとの契約も家も家族も失い、コンサートもほとんど開くことができず、長らく表舞台から消えていたようで、そういえば新譜が全然出ていなかった。
その5~6年後くらい、2000年に弾いていたバッハの平均律の第1番~第12番。Youtubeで聴いてみると、清々しく澄み切っていてとても温もりのあるバッハ。第1番のフーガや第4番のプレリュードとフーガはまるでモノローグのよう。
以前聴いたときは、ガヴリーロフにしては穏やかで、フランス組曲の方が自由で伸びやかな印象だった。
1990年代のガヴリーロフの苦境を知ってしまうと、この平均律の穏やかさは、まるで憑きものが落ちたかのように自分と静かに向き合っているような心境なんだろうか?と想像してしまう。
この平均律の方が、夜静かに想いを巡らすノクターンのような安らかさがあり、ゆったりとした短調の曲にはバッハらしい静謐な厳かさが漂っていて、聴けば聴くほどにじんわりと染み込んでくる。
Bach - WTC I (Andrei Gavrilov) - Prelude & Fugue No. 1 in C Major BWV 846
ノクターンは2007年春の音楽祭でのリサイタル。捉われることのない自由さで弾かれたノクターンは、ショパンのノクターンらしさとは異質な演奏に違いないけれど、なぜか作為性とかあざとさを感じることはなくて、内面から自然に湧き出てきたような音楽。
ピアニスト人生の天国と地獄を彷徨ったかのようなガヴリーロフのノクターンは、自由だけれど気ままに奔放というわけでもなく、強い確信を持った揺るぎなさを感じさせる。知性と感情とがようやく折り合いをつけるようになったのかもしれない。
このノクターンは好みははっきりと分かれる。あまりに自信に満ちた弾きぶりなので、こういうノクターンがあっても良いかも...と納得させられてしまう人は、意外と少なくないかも。(ダメな人はどうしても受け入れられないと思うけど) ※右カラム中段の「タグリスト」でタグ検索できます。