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オリヴァー・サックス著『妻を帽子とまちがえた男』 ~ 「ただよう船乗り」
オリヴァー・サックスの著書に度々登場する症例が、"記憶喪失"と"サヴァン(天才児)"。
"記憶喪失"の場合は、脳卒中など脳障害によって引き起こされるため、サヴァンの事例よりも多い。

記憶喪失といっても、TVドラマでよくある自分の名前や素性など現在と過去の特定の記憶だけを失うという症状ではない。
数秒・数分前に起きた出来事をすぐに忘れて記憶が残らないという、現在進行形の記憶喪失の症例。
『妻を帽子とまちがえた男』で2例、『火星の人類学者』で1例、『音楽嗜好症』で1例。
そのうち、印象に残ったのは、記憶が残らないという統合されたアイデンティティが崩壊するような危機にありながらも、この世界に自分自身をつなぎとめ一つのまとまった人格を保ちつづけた2人の患者、ジミーとグレイヴのケース。

記憶喪失の症例を最初に読んだのは、『音楽嗜好症』の「瞬間を生きる-音楽と記憶喪失」に登場するグレイヴ。
そのとき、すぐに思い出したのは小川洋子の小説『博士の愛した数式』
2004年の第1回本屋大賞受賞作で話題になったし、映画化もされたので知っている人は多いに違いない。
『博士の愛した数式』に登場する元数学者の「博士」は、交通事故による脳損傷が原因で80分間だけしか記憶できない。

博士の愛した数式 (新潮文庫)博士の愛した数式 (新潮文庫)
(2005/11/26)
小川 洋子

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「博士」の記憶保持時間が80分間というだけでも悲劇的なのに、サックスの本では数秒、数十秒しか記憶が保持できない症例が次々とでてくる。
現在進行中の出来事だけでなく、過去の記憶もある時期までしか残っていない。刹那的な瞬間が永遠に連続しているとでも言えば良いのだろうか。
この記憶喪失の状態で、どうやってアイデンティティの連続性・統一性を保ち続けていけばよいのか、想像を超えている。

『妻を帽子とまちがえた男』の「ただよう船乗り」に登場するのは、サックスの勤めていたホームに送られてきた患者、ジミー・G。

妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)
(1992/01/30)
オリバー サックス

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この章の冒頭に引用されているのが、ルイス・ブニュエルの回顧録の言葉。
「記憶をすこしでも失ってみたらわかるはずだ、記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだということが。記憶というものがなかったら、人生は全く存在しない...。記憶があってはじめて、人格の統一が保てるのだし、われわれの理性、感情、行為もはじめて存在しうるものだ。記憶がなければ、われわれは無にひとしい...。(わたしが最後にたどり着くところ、それはいっさいの記憶の喪失だ。これによって、私の全生涯は消し去られる。私の母の生涯もそうであったのと同じように。)」

サックスは、このブニュエルの回顧録を引用することによって、もし記憶の大部分が失われ、本人の過去も時間のなかでの繋留も失われたら、どのような世界、どのような自己が、その人のなかに残るのだろうか?という「いくつかの根本的な-臨床的、実際的、実存的、哲学的な-問題」と、それを考えさせられる症例を提示する。

サックスが以前に診た患者ジミー・Gは、魅力的で、頭がよくて、記憶を失っている。
知能テストは高く、頭の回転はすばやく、観察力にすぐれ、論理的で、複雑で難しいも問題もわけなく解いてしまう。(ただし、時間をかけなければ。時間がかかると前にしていることを忘れてしまう。)
しかし、記憶力を調べてみると、異常なことに数秒前の記憶がない。すぐに忘れてしまう。長くても1分くらいしか記憶が持続しない。
かすかな記憶のようなものが残存することはあるが、時間間隔がないので、それがいつごろの記憶かもわからない。
不思議なことに、1945年以降の記憶が消滅していた。それ以降、1970年頃までは、断片的な記憶がある。
過去の経歴を調べると、1965年頃までは海軍に所属し、そのころは勤務も普通にこなしていたという。その後、アルコールによる脳症候群がかなり進行し、コルサコフ型の記憶障害が始まった。
ジミーの記憶はすぐに消えてしまうが、通い続けたホームのなかの構造(エレベータ、食堂、階段、自分の部屋の場所)などは、習慣によって覚えているし、スタッフも一部の人は覚えられるようになった。

哲学者ヒュームの有名な言葉に、「われわれは、無数の雑多な感覚の集積または集合体にほかならない。それらの感覚は、信じがたい速さで次から次へと引きつがれ、動いて、変わって、流れてゆくのである。」という大胆な見解があるが、ジミーはまさにその実証例-もはやばらばらで一貫性のない流動と変化にすぎぬものと化した姿だった。

サックスが、ジミーの症状に関する医学文献を調べると、1887年にロシアの精神科医セルゲイ・コルサコフが発表した独創的論文で、記憶喪失の症例を数多く扱っていた。ここから「コルサコフ症候群」という呼称が生まれた。
その後の研究のなかで最も内容が深いのは、ロシアの神経学者アレクサンドル・ルリアの『記憶の神経心理学』。ルリアの著作では、科学は詩に近づき、記憶喪失は、悲劇にも似た痛ましさをもって切々と読者の心にせまってくるという。
この記憶喪失の原因は、コルサコフ症候群ではアルコールのために乳頭体が侵され、一部の神経細胞だけが破壊されるという単純なものと、ルリアの研究のように脳腫瘍の影響によるもの。
ジミーの場合は脳障害は発見されず、いわゆるヒステリー健忘症ではなく逆行性健忘症である。

サックスが、ジミーの症状に関して意見を求めて、ルリアに手紙を書いた。
ルリアの返事には、処方箋はないと書いてあった。「彼の記憶がもどる見込みは、まずまったくないのです。でも、人間は記憶だけで生きているわけではありません。人間は感情、意志、感受性を持っており、論理的存在です。神経心理学は、それらについて語ることはできません。それだからこそ、心理学のおよばぬ領域において、あなたは彼の心に達し、彼を変えることができるかもしれないのです。(中略) 神経心理学の上からいえば、われわれにできることはほとんどない。いやまったくないといっていい。しかし人間としては、すくなからず何かができるかもしれないのです。」

ルリアの患者クールはジミーを同じような記憶喪失をわずらっていたが、稀に見るほどの自意識をもっていて、それに絶望とふしぎな平静さとが混在していた。
ジミーの場合は、人生に何も感じていない、生きているという感じがしていない。でも、なにかしたい、なにかでありたい、感じたいと求めており、意味とか目的といったものを望んでいた。
サックスには「失われた魂」という言葉が浮かんできた。
しかし、ジミーが礼拝堂で聖体拝領の儀式のなかで、精神を集中し、いっさいをあるがままに受け入れていた姿を見て、「ひたむきな精神集中の行為のなかに自己を見出し、連続性とリアリティ(実体)をとりもどしたのである。ここにおいて、彼は魂を得たのだった。」と悟る。

記憶や脳の働きや頭だけでは、ジミーを支えることはできなかった。だが、倫理的な行為や注意力集中は、彼を完全につなぎとめることができたのである。「倫理的」な行為に限らずとも、美的、劇的なもの、音楽や美術によっても起こりうるのではないか。そうサックスは考えた。
仕事やパズルやゲームや計算によって一時的に支えられても、それが終れば無の世界にもどってしまうが、情緒的精神的に注意力集中が行われている場合、つまり自然(ホームの庭の手入れをしているとき)や芸術に目を向けているときとか、音楽に耳を傾けたり、チャペルのミサに参加しているときには、一様で平静な注意力がしばらくの間持続し、ほかの時はめったに見ることができないほどの落ち着きと平和がジミーに訪れるのだった。

初めてジミーと会ったとき、サックスはこう思ったという。
哲学者ヒュームが言うように、彼は人生の表面でぷかぷかする無意味なはかない"泡"のような存在にすぎないのではないか、一貫性もなにもない支離滅裂な状態からはたして脱する道があるのだろうか、と。
経験哲学からいえば、道はないはずだった。だが、経験哲学は、魂を考慮に入れていない。
器質的障害やヒュームの言う"溶解"がどんなにひどくても、芸術や聖体拝領や魂のふれあいなどによって、人間らしさは回復されうる。
神経学上は望みのない状態に見えようとも、この可能性は存在するのである、とサックスは結んでいる。

tag : オリヴァー・サックス 伝記・評論 オリヴァー・サックス

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無数の雑多な感覚
Yoshimiさん、こんにちは。

哲学者ヒュームの有名な言葉に、「われわれは、無数の雑多な感覚の集積または集合体にほかならない。それらの感覚は、信じがたい速さで次から次へと引きつがれ、動いて、変わって、流れてゆくのである。」という大胆な見解があるが、・・・

実に面白い、いや興味ある見解ですね。
しばらくの間、その感覚を少しでも理解出来ないものかと、何度も読み直しました。特に雑多な感覚の集合というイメージは、当分忘れられない、インパクトを僕の記憶に残したように思います。でもその記憶も、思い返さなければ、すぐ忘れてしまうのですね。それが、人の記憶のメカニズムなのですよね。
記憶と忘却
アメーバの友さん、こんにちは。

言われてみると、ヒュームの言葉どおり、人間は6つの感覚から受ける刺激全てを経験として取り込んで、意識的・無意識的に記憶しながら、存在しているのでしょうね。
その記憶が瞬時に消滅していったら、どうやって一つの人格として成立するのか、想像がつきがたいものがあります。

反面、忘却とは、ある意味でありがたいものです。(忘却の度合いにもよりますが)
あまりにつらいこと、悲しいことがあっても、忘却することで人間はその記憶から逃れることができます。そういう体験を忘れることができないとしたら、精神的に耐えられるほど強い人間はいない...という言葉を読んだことがあります。
ただし、自らの意志で選択的に忘却できるわけではないので、結局は"時が解決する"ということになるのでしょう。
それが不可能なときは、永遠に”トラウマ”として残ってしまうのかも知れませんね。
江夏
こんにちは。
「博士の愛した数式」、読みました。自分は集めているわけではないですが、博士が野球カードの収集家というところに共感がわきました。江夏の背番号が話のキーのひとつになっているところ、うまいですね。
映画はテレビで観ました。寺尾聰はちょっとイメージと異なりましたが、なかなか面白かったです。
アイデア&ストーリーとも面白かったです
吉田様、こんばんは。

『博士の愛した数式』が最初に出た時、書店に平積みになっていて目にとまり、すぐに買いました。
さすが本屋大賞を受賞しただけあって、着想・ストーリーとも面白かったです。
小川さんの本は他に何冊か買いましたが、医大秘書の経験があるそうで、医学的なテーマを扱った作品がいくつかあります。そのなかでは、やはり『博士の愛した数式』が別格で面白いですね。

たとえアイデアは良くても、ストーリーや人物造形、いろいろな小道具や肉付けが面白くなければヒットしないので、そこはさすがに早稲田の文学部出身者なので文才があるんでしょうね。
記憶障害を持つ数学者という設定に加えて、素数や野球・江夏の話を絡めているところがユニークですが、参考文献をみると、話題になったエンツェンベルガーの「数の悪魔」など、数学書がいくつか入ってますね。
どうやって、数にまつわる話をからめることを思いついたのでしょう?作者に聞いてみたくなります。

映画は見てませんが、さっき予告編を公式サイトで見ました。
博士はもっとせわしないというか、切れ者的イメージがあったので、寺尾聡だとちょっと温和でぼんやりした感じがします.
でも、個人的にぼ~っとした雰囲気の寺尾聡が昔から好きだったので、DVD借りて見たくなってきました。
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Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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