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ジャンケレヴィッチ著『ドビュッシー 生と死の音楽』 ~ 3.出現 【読書メモ】
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読書メモ(要点抜粋)
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3 出現
水に映る影
ドビュッシーは、一見するところ、無定形に溶解するものの詩人であることに限りはない。
彼にとって、無定形とは無数の形への可能性を意味する。...重要なのは、ドビュッシーが連続か不連続かの二者択一を超越していることだ。連続する生成が前進できるのも、それを動かす不連続の瞬間のおかげである。限りなく不連続になったトビュッシーの連続があり、それは視角によってつながったり、途切れたりするように見えるのだ。

ドビュッシーは、《前奏曲》のタイトルを曲の終わりに記した。彼にとっては、楽想を大雑把に固定し、ひじょうに漠然とした枠組みをわれわれの夢に与えるだけで充分なのである。この枠組みなら、前奏曲から生まれる詩的な震動が広がっていけるであろう。ドビュッシーはまるで、自分が選んだ舞台背景をできるだけわれわれから遠ざけようとしているかのようだ。デルフォイも、カプリも、マドリッドも、非現実なあたかも存在しないかのような場所となる。

遠景とは、広がりであるばかりか、収縮でもあるということだ。
現実は彼方の神秘によって変形され、昇華される。精神の屈折でできた光暈が、どんなにくっきりと描かれた姿形でも曇らせてしまう。
この意味で、完全な写実主義者といえば、ドビュッシーではなくラヴェルであろう。ラヴェルは、《子供と魔法》で見られるように、木、火、灰、といった物自体にしゃべらせ、ドビュッシーは物に対する自分の感じ、もしくはフォレのように、その感じに対する感情を伝えてくる。印象は、間接的に受け入れられるか、あるいは別の感覚を通して屈折されることになる。....たとえば何かの形を通して聴こえてくる音、《葉ずえを渡る鐘》、《水に映る影》、《映像》など....。ドビュッシーではあらゆる物音が、多かれ少なかれ葉ずえを渡って濾過されるようだ。

ドビュッシーの音楽は、どれだけ事物や物音に密着しようとも、それらと一体化するまでにはいたらず、またそれらをもとのままの形で伝えることもない。ドビュッシーには文字通りの擬音はない。どのざわめきも、音も、溜め息も念入りにつくられ、見分け難くなっている。


ほとんど無なるもの、風と雲
永遠と非在、出現と消滅、実在と虚性が一致するのは一瞬のことである。ドピュッシーの音楽の無限小の芸術であるからだ。....物音が沈黙から立ち昇るときや、物音が沈黙へ戻るときに、彼はピアニッシモを使う。存在は、どっしりと厚みのある量の中にではなく、きわめて微細な薄さの中に求められる。実際、瞬間のきらめきが出現するのは衰弱や稀薄が極まったときである。
ドビュッシーの言葉が語る自然の力や大気現象は、森羅万象の中でもっとも頼りがいも重さもなく、感知しがたいものである。
ドビュッシーにおいてほとんど無なるものは、といわけ軽妙でうっとりするような事物の形となって現れている。たとえば夕暮れの大気の中を漂う発散物であり、束の間の色合い、虹以上に気化しやすい蜃気楼、水に映る影など。ドビュッシーが好むのは、堅さや実体のない幻影そのものであるからだ。


メリザンド、最後のピアニッシモ
《高雅な踊り手》を見ればもうわかるように、ほとんど無なるものというこの神聖な頼りなさを具現するのは女性である。

ドビュッシーの音楽は、実際静けさに満ちている。そのすき間には沈黙が入り込み、音間は広がり、譜表は風通しがよくなっている。沈黙とは大洋の中心であり、和音たちが一息つくところである。
ドビュッシーの静寂は、音楽の内部だけでなく、とくにその始めると終わりの両端にある。クレッシェンドとデクレッシェンドが、沈黙から出て沈黙へ帰る一つの物語を形成する二斜面のように呼応している。つまり終わりから論じ始めたのだ。
全ての音楽が生まれる最初の静寂からでなく、大河が宇宙の周期を巡って海へ戻るように、全ての音楽が立ち帰る最後の静寂から。

《花火》は、虚しい一日の、いわば24番目のひとときであり、降るような星と大きな打ち上げ花火のもとで終結する。
虚しい一日は、真夜中の極めて虚しい虚飾に満ちた、束の間の大詰めによって終わりを告げる。《ペリアス》第4幕最後のように「星がみんな落ちてくる!」。落下して消えていく打ち上げ花火、これは粉々に砕けた時間性の最後の名残であろう。
《花火》の渦巻きは、ドビュッシーの不動性を表す虚しい宙返り。ドビュッシーの場合、速度そのものがその場に止まっていることの方が多い。
夜空には、キラキラ光る不協和音な音が縦横無人に走り、細かい音の滝が、突然光線によって遮られる。
24の最後の瞬間を捉えた曲集の最後、《前奏曲》第24曲の終わりでは、最後の打ち上げ花火が落下して7月の暑い夜空へ消えていき、はるか彼方でマルセイェーズ”が息途絶える…。虚無の虚しさ!世の栄光はこうして過ぎ去っていく。昔の恋人たちは死に絶え、国の祝日の束の間のにぎわしさも消えてしまう。ひとたちこの華やかさがなくなれば、あとに残るのは煙の刺激的な香りだけである、きらめく火房とベンガル花火の魔法に照らし出されたと思う間もなく、夜の闇が空間を再び支配する。

ドビュッシーでは、最小のニュアンスにまで微分された衰退のあらゆる段階が表現されている。<弱まりながら><消えるように><できるだけ弱く><かろうじて聞こえるように><それとわからぬほどに><ほとんど聞こえないほど><さらにほとんど聞こえないほどに><もはや聞こえないほどに><消滅するように>。


最初のピアニッシモ
もう一つの非在、もう一つのピアニッシモ、存在が出現する最初の非在、この出現を包む最初のピアニッシモ。
最後の静寂の境い目にあるあの世のピアニッシモと、最初の静寂の境い目にあるこの世のピアニッシモとは、お互いに全く違っている。たとえ音の強度が同じであっても、最後のピアニッシモ-最後の一吹きや死にゆくものの臨終の域にも似ている-は過去の思い出であり、最後の名残に過ぎない。
だが、最初のピアニッシモは、逆に未来へ向かっているのだから、その本質からして約束、希望、予言である。...これは意識に向う側へ行ってしまった沈黙ではなく、まだ意識にのぼらない沈黙である。

ドビュッシーでは、この最初のピアニッシモが朗々と響き渡るピアニッシモになっていることがよくある。
ドビュッシーの響きの秘密は、倍音の使用、声部間の開き、和音の中の適切な音によるアタック、属九のまろやかさにある。
強烈なピアニッシモ、情熱的に響くピアニッシモは未来を告げているからこそ、始まりのピアニッシモなのだ。

喜びの島と消え行く出現
生まれる前の静けさと死の静けさとの間で、初めと終わりの真ん中で、まわりを非在という海に取り囲まれた響き渡る島のように音楽が浮かび上がってくる。
《喜びの島》は、その歌といい、踊りといい、ドビュッシーのものでしかありえない。音楽内部の沈黙であるオアシスは、砂漠という永遠の沈黙の中で、笑い声や詩や歌のある人間的なオアシスとなるだろう。

瞬間とは単に消滅であるのみならず、当然出現でもある。
瞬間のきらめきは、ひらめきと消滅の両方である。まさに正午が絶頂であると同時に引き潮の始まりでもあるように。
《花火》の天空で輝く多彩な閃光は、すぐに消滅する華というだけでなく、何よりもまず消えるからこそ華にもなる。
24の《前奏曲》、前の続きではない不連続の瞬間、これらは24のまたたき、24回繰り返される不意の出現である。だから2巻の曲集全体が、永遠に始まろうとする音楽なのだ。そこで連続することといえば、行進という行為そのものだけといえよう。消え行く出現である《前奏曲》。


束の間の出会い
人間の生は、先立つ永遠と後続の永遠という静寂の中から立ち現れる。
不思議な凍てついた前奏曲《雪の上の足跡》では、未知からやって来たその人は、雪の中をあてものなくさまよい歩き、ふたたび神秘へと戻っていく。見捨てられ、誰もいなくなった荒涼としたその風景には、ほろ苦い後悔が屍衣のようにまとわりついている。
この世という中間地帯に隣接する神秘の世界は、この中間地帯の実性をより明らかにし、白日のもとに輝かせるためののみ存在する。敏速な《運動》とゆったりあした《雪の上の足跡、それらが意味するところは同じだ。

《運動》の動きは、無から無へ...、無から出てさらなる無へと行く。この頭も尾もない、初めも終わりもない運動、それは、荒野をわたる風と同じく運動そのものではないか? 前奏曲《荒野をわたす風》は、太古からの風のうめき声を、創世以来ずっと続いてきた、そして永久に終ることのないうめき声をいわば切り取ったものである。

どの前奏曲も、《枯葉》や《雪の上の足跡》を思わせるものでさえ、新しい始まりであると言ったが、それは24の前奏曲が24回繰り返される再生だからである。絶えず新しく、そしていつも動かない旅立ち、つねに現在である今、永遠の至点、絶えず繰り返される初めての歓迎、これこそが、初めと終わりの神秘によって明るみにだされるものである。

ちょうど落下と浮揚、深淵への傾斜と高みへの上昇が、生という一つの躍動に二相に他ならないように、死と愛は、まったく同一の神秘にほかならないのである。ドビュッシーの音楽は、生と死の連帯、われわれが運命づけられている非在、存在のワクワクするような豊饒さを我々に告げているのである。その音楽は、神秘と詩の言葉によって、この世で何よりも大切なのは、世界そのものとその偏在性であると教えている。


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tag : ジャンケレヴィッチ ドビュッシー 伝記・評論

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クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
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