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音楽サヴァン症候群 ~ 2000曲のオペラを記憶している「生き字引き」
脳神経学者オリヴァー・サックスの著作で、度々取り上げられている症例の一つが"サヴァン"。
"サヴァン症候群(savant syndrome)"とも呼ばれ、博識・碩学・賢者などを意味するフランス語の"savant"が語源。
サヴァン症候群の研究書として有名なものが、ダロルド・A・トレッファート『なぜかれらは天才的能力を示すのか―サヴァン症候群の驚異』(草思社,1990年)

トレッファートの定義によれば、サヴァン症候群とは、「発達障害(精神遅滞)ないしは重篤な精神病(早期幼児自閉症あるいは分裂病)による重度の精神障害をもつ人間が、その障害とはあまりにも対照的に驚異的な能力・偉才を示すこと」で、サヴァンの特異な能力は美術・音楽・文字読み・数学・記憶力などの分野で現れ、中でも音楽サヴァンがもっとも多く、美術の才能を示すサヴァンは少ない(出典)。サヴァン症候群に関するWikipediaの解説はこちら

サックスがとりあげる症例では、音楽サヴァンよりも視覚サヴァンが多い。
いずれも驚異的な視覚記憶力を持ち、一度見た物や情景を精緻に再現できる絵画の天才(児)が何人も登場する。
視覚サヴァンは音楽の分野でも同様の記憶力や演奏力を持っている場合もある。

音楽サヴァンで有名なのは、トレッファートの著書で紹介されているレスリー・レムケという女性。
音楽教育をほとんど受けていないのに、一度聴いた曲は何年経っても絶対に忘れず、ほぼ完璧にピアノで再現できるという。

サックスの『妻を帽子をまちがえた男』で取り上げられている音楽サヴァンは、2000曲のオペラを記憶している「生き字引き」のようなマーティン・A。

妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)
(1992/01/30)
オリバー サックス

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マーティンは、サックスが勤めているケアホームに61歳の時にやってきた。
子供の頃に患った髄膜炎による精神遅滞があり、パーキンソン病も患っていた。
正規の学校教育はほとんど受けていなかったが、メトロポリタン歌劇場の有名な歌手の父親から、直接音楽に関する教育を受けていた。
両親が亡くなってから、多くの職を転々としていたが、もしマーティンに「音楽的な才能や感受性がなく、音楽が与えてくれる喜びがなかったら、彼の人生は、憂鬱でつまらないものになっていただろう」とサックスは言う。

マーティンは、音楽について驚異的な記憶力を持ち、オペラなら2000曲以上知っているとサックスに話していた。
しかし、音楽を系統的に学んだというわけではく、譜面も読めない。彼の音楽的才能はその人並外れた耳の良さにあり、一度聴いただけで、オペラでもオラトリオでも記憶できたし、ピアノでそのメロディを弾くこともできた。
マーティンの父親は、音楽的な素養ばかりでなく、音楽に対する情熱をも、密接な親子関係を通じて、おそらくは精神遅滞の子に対する優しい愛情を通じて、彼に伝えたのだった。

マーティンは痙攣性音声障害のために歌手にはなれなかったが、彼は「生き字引き」として多少は名を知られていた。
熱狂的なオペラ通で、その音楽や膨大な数の公演内容(歌手名、背景や演出、舞台装置の細部など)を記憶している。
彼はこの驚異的な記憶力に子供のような喜びを感じているが、心から喜びを感じるのは、教会で聖歌隊の一員として歌っている時だった。
彼の人生にとって、それは唯一の支えになっていた。

マーティンの内面世界がどういうものなのか、サックスが説明しているが、世間知らずで実際的な知識はわずかで、そういうものに興味も持っていないようだった。
しかし、百科事典や新聞、アジアの河川地図やNYの地下鉄路線図などを、たちどころに直観的に記憶してしまう。
こういう記憶は、リチャード・ウォルハイムの言葉によれば、実存的自我とは無関係な単なる「非中枢性の」記憶。
そこには、何の感情も存在せず、脈絡なく、発展性もないし、応用性も無い。記憶銀行(メモリーバンク)のようなもので、生身の人格の一部ではないのだという。
しかし、その唯一の例外となる記憶が『グローブ音楽・音楽家事典』全9巻。全巻暗記しており、まさしく"生きたグローブ事典"。
このグローブ事典の記憶は、「きわめて個人的で敬虔な動機にもとづいた記憶」だった。病床にあった父親が、30歳になる息子に声楽のレコードを聴かせ、楽譜を出して、次から次へと歌っていった。
マーティンは読み書きはできなかったが、6000ページもあるグローブ事典を父親から読み聞かせてもらうと、全てを記憶していった。
グローブ事典を思い出すたびに、父親の声が聴こえ、彼は胸がいっぱいになるのだった。

ケアホームへやってきてから、マーティンは他の入所者とうまく付き合えず、精神的にも憔悴していった。
マーティンは何かを渇望しているようだったが、ケアホームのスタッフたちはそれが具体的に何なのかわからなかった。
「歌わなければいけないんです。歌なしでは生きていけません。それもただの音楽ではだめです。祈ることができませんから。」 
マーティンがそう訴えたとき、サックスたちはようやく彼が求めているものが何かを理解した。
ホームの近くの教会があったので、マーチンはそこの聖歌隊のメンバーとなり、それも、聖歌隊の幹部、相談役として迎えられた。
それ以来、彼の本来の居場所を取り戻したように感じることができたし、日曜ごとにバッハを歌って祈ることができた。聖歌隊幹部としてのささやかな権威も誇らしかった。

あるとき、サックスが<カンタータ>や<マニフィカト>のカセットを持って、マーチンを訪れた。
マーティンは精神遅滞という状態にも関わらず、バッハの複雑な技巧のほとんどを完全に理解できる音楽的知性を持っていることにサックスは気がついた。
「知能など問題ではなかった。バッハは彼のためにあり、バッハこそ彼のいのちだった。」

マーティンのような異常に優れた音楽的能力は、「適切な場面において自然なかたちで用いられるのでなければ、たんに常軌を逸したものにすぎない」と、サックスは書いている。

「父親にとって大切だったこと、それがマーティンにとっても大切だった。二人は、音楽の魂、わけても、宗教音楽の魂、声の魂を共有していたのである。」
「マーティンが実際に歌っている姿、音楽と一体になり、法悦の境地で一心に聴き、全身全霊をかたむけている姿こそ、まさに驚異であった。そのとき彼は「変身して」いたのである。欠陥や生理学的な問題はすべて消え去り、調和のとれた快活さ、統一のとれた健全さだけがあらわれていたのである。」

                         


サックスは、『音楽嗜好症』のなかでも、「2000曲のオペラ-音楽サヴァン症候群」という章でマーティンの症例を取り上げている。

音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々
(2010/07)
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マーティンは音楽的能力に加えて、驚異的な記憶力があり、読んだ本はすべて覚えていた(ただし、理解していないことも多かったが)。
音楽と同じく、耳から聴いたものを記憶する能力に優れており、まるで「蓄音機のような」記憶力がある。

マーティンは、『メサイア』や『クリスマス・オラトリオ』だけでなく、2000曲以上のオペラ、それにバッハのカンタータを全て知っているとサックスに話していた。
そこで、サックスは数曲の楽譜を使って、マーティンの能力をテストしてみたが、彼のあら探しをするのは不可能だと知ったのだった。
彼はメロディー(主旋律)だけではなく、各楽器や各声部の旋律まで記憶していた。
また、マーティンが聴いたことがなかったドビュッシーの曲をサックスが演奏すると、マーティンはピアノでそれをほとんど間違わずに再現した。しかも、それを移調してドビュッシー風に即興を交えて演奏した。
マーティンは、耳に入ってきた音楽なら、知らない曲だったり、趣味に合わない曲であっても、そのルールと約束事を理解することができるのだった。

症例報告だった前著の「生き字引き」とは幾分違って、「2000曲のオペラ-音楽サヴァン症候群」では、マーティンや他の音楽サヴァンたちの音楽的才能の源泉が何かということについて医学的考察が加えられている。
以下は、サックスの考察の要点。

マーティンは、父親の豊かな音楽的才能を受けつぎ、子供のころから音楽教育を父親から受けていた。
それだけではなく、視力が弱かったせいで、聴力と潜在的な音楽的能力が強化されたのか、それとも、大脳皮質の制御力や高次の能力を奪った髄膜炎が、それまで埋もれていたサヴァンの力を刺激したか、あるいは、解き放ったのか。

ロンドンのヘルメリンたちの研究では、音楽サヴァンの能力は、音楽の構造とルールの認識(おそらく潜在的で無意識下)に依存していることを確認している。
これは一般的な音楽スキルであり、それ自体は異常ではない。異常なのは、それが突出していることであり、言語や抽象的思考の発達が著しく遅れがちな頭脳にあって、その能力だけが異常に、ときに驚異的に、発達している。
左脳半球は抽象化と言語能力、右脳半球は知覚機能に関係しており、生後数週間で右脳半球の知覚機能が確立される。左脳半球はペースは遅いが発達しつづけ、やがて、独自の能力(概念形成と言語能力)を獲得すると、右半脳球の知覚機能の一部を抑制・阻止するようになる。

左脳半球が損傷を受けると、右脳半球優位への転換が起こる場合がある。これは5歳くらいまでの幼児や、程度は低いが成人にも起こりうる。
左側頭葉の損傷により、右脳半球の機能に対する制止や抑制を解く「脱抑制」が行われることがある。
この現象は、現在では経頭蓋磁気刺激法(TMS)で実験することができるが、解放効果があったのは被験者のうちの一部のみ。
研究者によって導きだされた結論は、「これらのメカニズムは誰にでも使えるものではなく、そのようなメカニズムにアクセスできる能力や、そもそもそのようなメカニズムをもっているかどうかが、人によって異なる可能性がある。」

サヴァンになるには、特別なメカニズムが必要であるかもしれないが、それだけでは不十分で、サヴァンたちは何年もかけて、自分の能力を伸ばしたり磨いたりしていると、トレッファートは言う。
「サヴァンであることは、ひとつの生き方であり、一つのまとまった人格なのだ」と、サックスは結んでいる。


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小松左京さん
Yoshimiさん、こんにちは。

オリヴァー・サックスの話題ではありませんが、小松左京氏が死去されたニュースを見て、少し悲しくもあり、80歳という年齢を聞いて時、もうそんなお年だったのかと思ってしまいました。僕は日本沈没をリアルタイムで見た世代であり、またSFの1ファンとして楽しませて頂きました。ニュースでは、合わせて筒井康隆、星新一らも紹介され懐かしい顔ぶれでした。どちらの方のSFもその当時はほとんど読んだものです。残念ながら、今は僕の嗜好ではない内容の著書が多く、めっきり手にとらなくなってしまいました。
謹んで、ここにお悔やみ申し上げます。
さようなら、小松左京さん。
巨星落つ
アメーバの友さん、こんばんは。

小松左京さんの訃報、ネットニュースでも報道されてました。
日本SF界の巨星と言うべき方でした。

私も「日本沈没」のTVドラマは見てましたよ。
「飛び出せ青春」の村野武範さん(好きな俳優さんでした)が主役でしたね。
原作本も読みましたが、本よりもTVドラマの方の印象が圧倒的です。
「復活の日」も映画を見たか本を読んだような気がするのですが、日本のSF小説はほとんど読まなかったせいもあり、記憶が定かではありません。

小松氏に関して一番記憶に残っているのは、「日本沈没」の何が凄いかを論じた評論。
並みのSF作家なら、「日本列島が巨大地震の連鎖によって沈没した」と冒頭でさらっと済ませて、その後の日本を描こうとするところを、小松氏は日本列島が沈没にいたる過程を克明に描いたのが凄い...と評してました。

昔のSF界で活躍されていた星新一、光瀬龍、野田昌宏(キャプテン・フューチャーの翻訳者)、栗本薫(まだ56歳でした)といった方々はすでに亡く、ご存命中の大物は筒井康隆さんくらいでしょうか。
あの頃から、ずいぶん長い年月が経っていたのだなあと実感しました。
もう一度、「日本沈没」を読みたくなってきました。
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Author:yoshimi
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クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

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好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
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