*All archives*



チャールズ・ローゼン著 『ピアノ・ノート』 (1)
ピアニスト内藤晃さんのブログで、最近出版されたチャールズ・ローゼンの著書『ベートーヴェンを"読む"-32のピアノソナタ』が紹介されていた。内藤さんが監修者として、訳出に協力されている。
大久保賢さんのブログ<Le plaisir de la musique 音楽の歓び>でも、ローゼン『ベートーヴェンを”読む”――32のピアノソナタ』 という記事で紹介されている。(著者のローゼンは2012年12月9日に亡くなった)

チャールズ・ローゼンは、米国のピアニストで音楽学者・評論家でもあり、著書『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』は、ベスト・セラーになっている。
ということで、2冊とも読んでみた。

『ベートーヴェンを読む-32のピアノソナタ』は極めて専門的な作品解説・譜面の読解・演奏解釈の話なので、素人で趣味程度に弾く私には、"猫に小判"のような本。
パウル・バドゥーラ=スコダの著書『ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 演奏法と解釈』とは違って、ベートーヴェンの演奏法全般(時代背景をもとに、ソナタ形式、フレージング、テンポ、ペダルやトリルの使用法など)の話と、32のピアノ・ソナタについて、作品解説・演奏解釈の両方が書かれている。ピアノ・ソナタの解説は、当然のことながら作品の重要度によって内容の濃淡がある。
300頁とかなりのボリューム。ベートーヴェン演奏に取り組みたい人にはとても勉強になるに違いない。
それに、録音を聴くときでも、ローゼンの解釈している部分が、他のピアニストの演奏ではどう表現されているのか、注意して聴いみれば、いろいろ発見がありそう。

『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』の方は、評論集というか、理論的なエッセイというか、ピアニスト心理から、ピアノの楽器特性と奏法の特徴、コンクールの本質やエピソード、演奏様式の歴史的変遷まで、話題は幅広い。
文体は理屈っぽいところもあって、やや硬派な筆致。でも、ピアニストならではの視点と経験をもとに書かれていて、話題も豊富なので、とても面白くてインフォマティブ。
ブレンデルの作品解説・評論集『音の中の言葉』が苦労せずに読める人なら、ローゼンの本も筋の通った文章なのでかなり読みやすいはず。
ピアニストでこういう文章をかける人はそう多くはないのでは。

ピアノ・ノートピアノ・ノート
(2009/09/19)
チャールズ・ローゼン

商品詳細を見る

 『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』の紹介(みすず書房のウェブサイト)

                          

以下は読書メモ。特に興味のある部分だけ抜粋してきたもの。

第1章 身体と心
弟子によれば、リパッティは「最後に親指を中指の下にくぐらせてから10年以上は経つ」ともらしたことがあるそうだ。

ピアノ教師の思うほど、この基礎練習[ハ長調のスケール]がすべてのピアニストに向いているわけではない。
[ハ長調のスケールで親指を中指の下にくぐらせるという]基礎的な指使いをひどく居心地悪く感じていた。
ピアニストにとって理想的な手というものは存在しない。さらに言えば、手のポジションについても定説はない。
これほどの違いがあるのだから、おおかたのピアノ教則本はばかげているし、独創的な教授法はどんなものでも有害だ。
(現に多くのピアニストが思春期後期になると、子どものころ習ったことをある程度捨てて、自分に合う独自の奏法を編み出さなければならない。)

手の形ばかりか、体格にも個人差がある。だから、多くの教育者が思うのとは違って、ピアノの座り方にはこれが最適というルールはない。グールドは床すれすれの深座りだし、ルービンシュタインはほとんど立ち上がって弾く。
椅子の高さは演奏スタイルに影響する。座位が低いと、嵐のような超絶オクターブをフォルティッシモで弾くのはむずかしい。グールドがリスト編曲のベートーヴェン『交響曲第5番』を録音したとき、彼はまず右手の超絶オクターブを両手で弾いて、左手部分は後から録音したそうだ。この低い座位ゆえにグールドは速いパッセージをさまざまなタッチで弾き分けてみごとにコントロールする技法を身につけることができた。

座り方は演奏ばかりでなく作曲そのものにも影響する。たとえばラヴェルも低く座る人だったが、彼の作品には両手で弾くフォルテティッシモのオクターブ・ユニゾンがいっさいない。これは(とくにリスト派が多様する)19世紀特有の超絶技巧で、チャイコフスキーやラフマニノフのピアノ協奏曲のハイライトだった。
このリスト派の名高いオクターブ・パッセージから、ある重要なことがわかる。つまり音楽の演奏は芸術である以外にスポーツの一形態という側面を持ち、むしろテニスやフェンシングに似ている。

真の発明品としてオクターブが現れた-少なくとも両手のユニゾン・オクターブが容赦のないフォルティシモで長く続くページがはじめて登場した-のは、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番《皇帝》』第一楽章の一節だった。

鍵盤楽器演奏のスポーツ的要素は、すでに18世紀前半のドメニコ・スカルラッティの初期ソナタに登場していたが、ここで主役をつとめるのは身体的持続力や体力というより、むしろ運動神経だ。たとえば両手を交差させて引く、信じられないような跳躍や、ギターの奏法に似た急速な音の反復などが、スカルラッティの特色だった。

技術的なむずかしさとは本質的に表現を豊かにするものだ。むずかしいという感覚は緊張を高める。

ピアニストは音楽を愛しているという理由だけで生涯をピアノに捧げたりしない。・・・・・ピアノという楽器のメカニズムと演奏のむずかしさそのものに対する純粋な愛、そして鍵盤に触れていたいという身体的な必要性がなければならない。・・・・ピアノという楽器、もはや恐竜と化したコンサート・グランドという楽器に身体的に触れていたいという、この説明しがたい、ほとんど物神愛的とも言える欲求(必要性)こそが聴衆に伝わり、音楽に不可欠な一部になるのである。

身体的ジェスチャーが音楽の意味にとって重要だと認識させてくれる例は、ベートーヴェンの『ハンマークラヴィーアソナタ』冒頭の跳躍音である。これも片手で視覚に弾くのがむずかしく、ほぼ全てのピアニオトがしくじるのではないかとびくびくする箇所だ。両手で弾くピアニストも多いが、それではベートーヴェンの狙った効果が半減してしまう。この跳躍はたいへん危険で速度も速い。この音程とフォルティッシモにより、素晴らしい響きが得られる。作曲家の書いたとおりに弾けば、これは耳で聞いても見た目にも壮大で大胆な跳躍で、勇気と興奮とが聴覚的・視覚的に伝わってくる。これを両手で弾いていしまえば見た目には簡単だし、実際弾くのも簡単だ-だから簡単そうに聞こえる。

ピアノの美しさは本質的に響きのバランスから生まれる。このバランスには垂直方向と水平方向がある。垂直方向のバランスの説明として一番簡単なのは、和音のなかのひとつひとつの構成音の音量だ。
和音の構成音のバランスをとるには、構成音を弾いている各指の強さを自由に変えられる能力が必要だ。腕の力をぬかなければ、各指の筋肉は完全な演奏ができず、腕から力が抜けていれば、腕が各指の独立を妨げることはない。

ピアノは、響きのバランスをさまざまな方法であやつることによって、和声や倍音の効果を意のままに大きく変えることができる唯一の鍵盤楽器である。

水平方向をたどるには、メロディやフレーズに隠された表現を探りたてる感覚を-そしてバス声部や内声に対する感覚も-必要とする。大切なのは、メロディやそれが織り成すアラベスクの曲線に内在する和声的意味を認識するところから生まれる響きの美しさだ。

クラウディオ・アラウは情感のこもる長い音符にビブラートをかける仕草をするくせがあった。楽器内部のメカニズムには何の影響もないが、これは演奏上の心理的補助手段で、この音には特別大切な響きがあるのだということを聴衆にわからせるのに役立ったはずだ。


第2章 ピアノの音を聴く
自分の演奏が実際にどんな音をだしているか-指揮者を除き-ピアニストほどわかっていない音楽家はおそらくいないだろう。
20世紀半ばごろテープレコーダーが安価で手に入るようになると、多くのピアニストが自分の音を聴くために録音しはじめた。私としてはこの習慣は最悪に思える。ほんとうは演奏しているその瞬間に何がおきているか意識する態度を育てるべきときに、機械に頼るようになるからだ。


第3章 ピアノという楽器と、その欠陥
自分の望むようなピアノでなくてもいい演奏はできる。
ブゾーニはかつてこう言った。「悪いピアノなど存在しない。下手なピアニストがいるだけだ。」確かにそのとおりだ。しかし、欠陥のあるピアノは演奏の喜びを著しく奪ってしまう。

ピアニストにとってさらに問題なのは、わたしたちを悩ませるいろいろな変則事態が、聴衆にはほどんと聞き取れないという事実である。聴衆にはある音がブリリアンスに欠けていて、別の音はきつすぎるのがわからない。そのうえ、弦の一本が少し狂っていて、不快な音がするとき、聴衆はユニゾンのひとつがフラットしていることを理解せずに、むしろピアニストが音質に鈍感だと考えがちだ。


第4章 音楽学校とコンクール
ピアニストはなにがどう転ぼうと、自分の好きな音楽だけを弾くべきだ。そして同時にそれと同じくらい重きを置くべきは、自分だけの独自の解釈ができると考えるものだけを弾くことである。


第5章 コンサート
演奏中のさまざまな身振りは聴衆に劇的な印象を与えるほか、自分自身の緊張をほぐすのにも役立つ。演奏中にあたかもそれが霊感の導きであるかのように、声を出して歌うピアニストや指揮者がいる。だが、過剰な身振りや螺旋運動が技術効率を損なうこともある。

カッチェンはステージに上がると聴衆のなかの任意の一人に目標を定め、その人のために弾いたと言われる。これは心理的刺激にすぎず、美的陶酔と性的興奮とを混同している。もしこの選ばれた一人が他の聴衆よりも演奏を堪能したとしたら、カッチェンは狼狽したにちがいない。(脚注に記載)

人の耳に聞こえてくるのは、大半が期待している音である。皮肉っぽく聞こえるかもしれないが、これは皮肉でもなんでもない。作品の感覚とパワーの大部分は演奏が不十分でもきちんと伝わるし、辛口の批評家ですら、自分が聴くはずだと思っていたものを聴いたと感じている。

優れたピアニストがその日調子が悪くて、それが演奏に出てしまったとしても、音楽の偉大さが(もしそれが慣れ親しんだ様式ならば)、パッとしない演奏を包む霧をも貫いて輝くことの方が大切なのである。これこそ音楽のあるべき姿だろう。


第6章 レコーディング
レコーディングという身体経験は、ある重要な一点でリサイタルと異なる。コンサートは、始まったとたん、舞台恐怖症から発するアドレナリンが全身の血管を駆けめぐるが、やがて演奏行為に没入するにつれ、少しずつ消えていく。レコーディングはこれとは逆に、はじめは自信満々で臨む。なにしろ演奏するのは自分がするのは自分が知り尽くし、マスターした曲だし、自分の解釈が作曲家の音楽も自分自身のスタイル感覚も裏切っていないと確信しているからだ。・・・レコーディングでは、度忘れやちょっとした弾き間違えがやたら気になる。こうして、自意識を捨てて音楽に身をまかせることができなくなる。
今日のレコーディングの世界では、全てを修正しようというたいへんな圧力がかかる。だれかに「あいつはスプライスしてもちゃんと弾けていない」といわれるのではないかという恐怖がつねにあるからだ。

レコードの曲はほとんどの場合、(コンサートの場合よりも)もっと小さな場所で、私的に、一人か二人の人の楽しみとして聴くものだ。したがって、レコードの音響はつねに錯覚である。これはほとんどつねに、ふつうの居間より大きな空間で鳴っているという印象をあたえる音作りに決着する。

異なる様式の音楽には異なるたぐいの共鳴が必要だという偏見がかつて存在した-ジャンルの違いだけでなく、たとえば現代音楽にはロマン派の音楽より乾いた、きつい音響が必要という考え方だ。これがどれほど荒唐無稽な見解であるかを、私はフランスのラジオ放送のために行った2日間の録音で経験したことがある。シェーンベルクの作品19と25の録音で、音響のひどさに驚いた。技術者は「現代音楽用のマイク配置です」と言ったが、私は前日の[シューマン録音のときの]配置に戻すよう要求した。そしてシェーンベルクの「わたしの音楽はモダンなのではない。演奏がひどいだけだ」という言葉を思い出した。これは録音のまずさも関係している。数年前、エドワード・シュトイアーマンによるシェーンベルクのピアノ曲のすばらしい演奏がレコードになったとき、それは小さな浴室のような閉鎖空間で演奏したかのごとき音響だった。

現代の編集慣行に戸惑いを覚えるのがわからないではない。だが、つまるところ、私は間違った音をスプライスで消すのと、納得のいくまで全曲とおして16回弾くことのあいだに大した差があるとは思えない。ルドルフ・ゼルキンはレコーディングを始めた頃、非常に禁欲的な態度を貫いていた。最終楽章で弾きまちがえると、彼は第一楽章から全部弾きなおすのだった。しかしその結果、彼のレコードは最良の状態にあるときの活力や大胆さにくらべて、いくらかおとなしいものになってしまった。ゼルキンは、その後、宗旨変えをしたに違いない。レコーディングした作品の製作用ワークシートには、二つの都市で録音されたことが記載されていた。

完全な信頼性と率直さのためには最初のテイクだけをリリースするしかないのだろう。

作品の現実化、すなわち演奏は部分的な創造でしかない。と同時に体育的な偉業でもあり、つねに失敗と紙一重の危険をはらむ試みだ。これは演奏という概念に固有のもので、だからこそスプライシングを使うことが今日なお、悪人のように思えるのである。しかし、レコーディングが西洋音楽の伝統を根源的にゆがめるとしたら、それはレコーディングが原典と演奏の関係をかえてしまうからだ。かつて、譜面は相対的に永続するもの、演奏ははかないものだった。

レコーディングの目的は技量の優越性を誇示することではなく、最良の一枚をつくることである。コンサートでは一音のまちがい、度忘れ、ぎこちないフレージング、ちょっとしたリズムの計算違いはさして重要ではないが、なんども聴きなおすレコードでは、それがつまづきの石になる。レコードを聴くたびに、まちがいの箇所を待ち構えることになるからだ。

聴衆に対し、音楽に対し、自分に対し、真に無責任なのは、二流のレコードをつくることだ。スプライシングに真の倫理的問題があるとすれば、それは統一のない演奏をつくったときである。

---------------------------------------------------------------------------------
参考音源
---------------------------------------------------------------------------------
文中で紹介されていたシュトイアーマンのシェーンベルク録音(1957年のモノラル録音)。
たしかに、ローゼンの言うとおり、「小さな浴室のような閉鎖空間」で演奏しているような奇妙な響き。
音質はともかく(本当は大事だけど)、シェーンベルクは無機的な音楽では全くなくて、現代的な旋律の歌謡性と叙情感をもつ音楽だと私には感じられる。
このシュトイアーマンの録音について、CDの紹介文によると、「シェーンベルクのピアノ作品解釈に対する古典的モデル」だとブレンデルが評している。
"How wonderful that Steuermann’s recording of piano pieces by Schoenberg is at last available again; it is the classic model for the interpretation of these works."

Schoenberg: Five Piano Pieces Op 23 -- Eduard Steuermann, piano


---------------------------------------------------------------------------------


チャールズ・ローゼン著 『ピアノ・ノート』 (2) へ続く]


tag : シェーンベルク シュトイアーマン 伝記・評論

※右カラム中段の「タグリスト」でタグ検索できます。
Secret
(非公開コメント受付中)

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
ブログ内検索
最近の記事
最近のコメント
カテゴリー
タグリスト
マウスホイールでスクロールします

月別アーカイブ

MONTHLY

記事 Title List

全ての記事を表示する

リンク (☆:相互リンク)
FC2カウンター
プロフィール

yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

お知らせ
ブログ記事はリンクフリーです。ただし、無断コピー・転載はお断りいたします。/ブログ記事を引用される場合は、出典(ブログ名・記事URL)を記載していただきますようお願い致します。(事前・事後にご連絡いただく必要はありません)/スパム投稿や記事内容と関連性の薄い長文のコメント、挙動不審と思われるアクセス行為については、管理人の判断で削除・拒否いたします。/スパム対策のため一部ドメインからのコメント投稿ができません。あしからずご了承ください。