*All archives*



コヴァセヴィチ ~ ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ集(EMI盤)
コヴァセヴィチのベートーヴェン録音は、1970年前後の若い頃に録音したPhilips盤と、1990年代~2000年代初めにかけて録音したEMI盤の2種類。

音楽ジャーナリスト、伊藤よし子さんのブログ記事”スティーヴン・コヴァセヴィチ”で、1997年頃のコヴァセヴィチのインタビューが載っている。
スティーヴン・ビショップと名乗っていたのは1975年まで。その後、旧姓(父親の姓)コヴァセヴィチに戻し、今は生まれ変わった気持ちで演奏に臨んでいるという。
そのせいか、彼のピアニズムも”ビショップ”時代とは変わっている。
”ビショップ”時代に録音したブラームスやベートーヴェンの演奏を聴くと、”コヴァセヴィチ”の演奏とは違っているのがよくわかる。

インタビューを読んでいると、コヴァセヴィチはとても気さくで屈託のない人みたい。
EMI盤のベートーヴェンを聴いていても、眉間に皺を寄せたように深淵な解釈を開陳するような演奏ではなく、内面から自然に湧き出るものに従って、自由闊達なベートーヴェンを弾いているという印象がする。

2004年のライブで弾いているOp.126の第5番は、しっとりとした叙情感がとても素敵。
コヴァセヴィチのPhilips盤では、テンポがもっと遅くて3分近く。(このライブ演奏は2分半くらい)
1974年に録音したPhilips盤の演奏は、独特の親密な叙情感があって、遅いテンポの演奏のなかでは一番好きなくらい。
このバガテルのライブ演奏を聴いていると、今のコヴァセヴィチのベートーヴェンを聴きたくなってしまった。

Ludwig van Beethoven Bagatelle n.5 e n.6 Stephen Kovacevich piano



それに、”グードとコヴァセヴィッチのベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集”という面白い比較記事を呼んで、そういう捉え方もあるんだなと思うところも。
リチャード・グードのベートーヴェンは、速すぎず遅すぎず、重たすぎず軽すぎず、過剰ではない適度なメリハリのあって、安心して聴ける。音色と歌いまわしに柔らかさがあるので、ずっと聴き続けていられるくらいに、とても心地良い。
コヴァセヴィチはそれとは全く違うタイプ。グードが好きなら、コヴァセヴィチは避けたいタイプなのだけど、若い頃のベートーヴェンやこの最近のバガテル演奏を聴くと、何か惹かれるものがある。
そういえば、コヴァセヴィチがインタビュー記事でこう言っていた。
「作品には人間的感情が存分に現れ、情熱や優しさ、恋心などが感じられます。それを自分なりに表現したいと思っています。ベートーヴェン自身、相当荒っぽい、まちがいだらけの演奏をした人みたいですよ。人間らしくていいじゃありませんか。心が熱くなりますね」
これって、もしかして今のコヴァセヴィチのベートーヴェン演奏に相通じるものがあるように思えるのだけど...。
結局、試聴ファイルでは印象がすこぶる悪かったのに、EMI盤のピアノ・ソナタ集(抜粋盤の3CDセット)を購入。

Beethoven: Piano SonatasBeethoven: Piano Sonatas
(2008/06/27)
Stephen Kovacevich

試聴する(amazon.com)

<録音年>
1992年 第24番「ワルトシュタイン」、第31番
1994年 第17番「テンペスト」
1998年 第15番「田園」
1999年 第14番「月光」、第23番「熱情」
2001年 第29番「ハンマークラヴィーア」
2002年 第26番「告別」
2003年 第32番

このEMI盤のベートーヴェンは、予想外に面白い。
自由闊達、スピーディでリズムカルで生き生きとした躍動感と即興性のあるライブのような熱気に満ちている。
ピアノがとってもよく鳴っているし、ペダルを多用したソノリティは重厚(混濁気味だけど)。
この弾き方は、テンポが速くてアルペジオや和音の多いソノリティの厚い曲に向いている。
悲愴ソナタの第1楽章、月光ソナタの第3楽章、ワルトシュタインの両端楽章は迫力充分。
でも、熱情ソナタや32番ソナタの第1楽章になると、単音のスケールのような線的な動きが多いので、和声の厚みが薄く、曲自体が音響面で聴かせるような曲ではないせいか、私にはどうもしっくりこない。
こういう曲は、好みとしては、もっとクリアですっきりとした響きの方が曲が引き締まって聴こえるし、音響的な効果に気をとられずに済む。

EMI盤はリスナーのレビューが賛否両論、極端に分かれているけれど、実際聴いてみるとそうなるのもよくわかる。
Philips盤はペダルを多用していないので、響きがすっきりしているし、タッチもシャープでコントロールもよく利いている。
EMI盤は、速いテンポでもメカニックがしっかりして堅牢な安定感はあるけれど、ペダル多用でソノリティが混濁気味なくらい重厚。
シンフォニックな音響の印象が強すぎると、曲によっては、聴き終わった後でその他に印象に残るものがあまりなかったりすることも。(これは聴き方に問題があるんだろうけど)

Philips盤が、若々しい瑞々しさと優美さのある叙情感が独特。それに理知的なクールさと鋭く弾力のある力強さもあり、すっきとしたフォルムできりりと引き締まっている。
EMI盤は、より率直に表現された情感深さに、ディナーミクの強いコントラストがドラマティック。スケール感とダイナミズムでより自由な雰囲気。
音の響きや緩徐部分の表現にも違いがあり、Philips盤が沈み込むようなマットな音色と歌いまわしで、物思いに耽っているような何とも言い難い独特のニュアンスがある。
EMI盤の叙情表現も美しいけれど、情感はずっとすっきりとして率直さを感じる。

EMIに再録音した曲は、悲愴、テンペスト、第28番、第30番、第31番、第32番の4曲。(この抜粋盤では、第28番、第30番が入っていない)

悲愴ソナタの第2楽章
聴き比べると、叙情表現の違いが良くわかる。
Philips盤の方がまったり思索的というか、もどかしげに思い巡らすようなところがある。音色に翳りとタッチにためらうような複雑なニュアンスが篭もっている。
EMI盤は、タッチと音色がすっきりして、表現もわかりやすく、自然な情感が流れている。

第31番
73年録音のPhilips盤は音質が良く、フォルテのタッチもいくぶんは控え目。(かなりの強打でも、音に弾力があって引き締まっているので響きはきれい)。
ペダルは響きが混濁しない程度に使っているのでソノリティもクリア。
第2楽章と終楽章のフィナーレとかの急速部分でテンポが速すぎて性急に聴こえるし、アリオーソがちょっとくどさを感じる。

EMI盤は92年のデジタル録音で音質はクリアだけれど、音がちょっと金属的で、薄っぺらい。
重量感のあるフォルテをバンバンと弾いているので、いささかデリカシーに欠ける気がするし、ペダルを多用したソノリティは重厚で混濁気味。
若い頃は恩師のマイラ・ヘスに「そんなに焦って速く弾かないように。安っぽい」とよく言われたという。
でも、コヴァセヴィチは指揮を始めてから(年をとったこともあるだろうし)、「今ではゆったりした気分で音楽と向かい合えるようになった」と言っていた。
彼の言葉どおり、昔はやたらに速くて落ち着きがなかった第2楽章のテンポは、相変わらず速くはあるけれど性急さは感じない。アリオーソの歌いまわしは自然な流れで情感豊か。フーガはペダルを長く入れているので教会で聴くように残響が重なり、荘重といえば荘重、確信に満ちた明るいフーガ。

第32番
ペダルの使い方の違いで、EMI盤はソノリティが重厚で荘重、Philips盤はすっきりした響きで引き締まった印象。
元々、速くて細かいパッセージでも弾力のある力強いタッチで弾ける人なので、第1楽章はそれがとてもよく映えている。
EMI盤は左手低音部の打鍵はかなり重量感がある。緩急・静動のコントラストはPhilips盤の方が強く、糖に弱音で弾くときに静けさが漂っていて、これが印象的。
第2楽章は遅いテンポで歌わせる冒頭主題がとても叙情的。Philips盤の方がより深い叙情感がある。
両盤とも、第3変奏は速いテンポで勢いがあり、弾力のある力強いタッチと明瞭な打鍵で爽快。第5変奏はほぼインテンポで淀むことなく、ドラマティックな高揚感が強い。
全体的にテンポの速い細かいパッセージは、EMI盤の方が勢いが良いけれど、タッチがやや粗くて、ソノリティも時々混濁する。
Philips盤の方がタッチが丁寧で精密、ペダルをEMI晩ほど多用せず、ソノリティが混濁しないように細かく入れているようなので、音響がすっきりして演奏も引き締まって聞こえる。

Beethoven: Sonata No. 32 op. 111 - Stephen Kovacevich (medicitv)



Philips盤のベートーヴェンには、初め聴いたときはもう一つよくわからないものがあったけれど、EMI盤を聴いたおかげで、それぞれの演奏の特徴と違いがわかってきた。
それに、EMI盤を何度か聴いていると、これはCDよりもライブで聴いて、熱気や臨場感を体感した方が感動するのではないかという気がする。
Philips盤にはそういうライブ的なところはないし、EMI盤よりも音質は良くて、ペダルもそれほど多用せずソノリティがクリア。それにマットな音色や弱音の微妙なニュアンスに旋律の歌いまわしなど、他のピアニストでは絶対に聴けない独特のものがある。


<参考レビュー>
グードとコヴァセヴィッチのベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集[The World of Kitaken]
ベートーべン ピアノ協奏曲第4番Op.58/ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」Op.13 [千夜一枚◆ピアノ◆]
この悲愴ソナタの一文で、”彼からビショップという名前が消えた頃からその特徴も消え去ってしまいました”と書かれている。この気持ちはよくわかる。
コヴァセヴィチのEMI盤を絶賛する人も多いけれど、私はPhilips盤のベートーヴェンに魅かれてしまう。


tag : ベートーヴェン コヴァセヴィチ

※右カラム中段の「タグリスト」でタグ検索できます。
Secret
(非公開コメント受付中)

ビショップさん
千夜一枚の作者です、びっくりしました、同じ考えの方が居らっしゃって安心しました。
ビショップのピアノ、素晴らしいですね!
HKさま、こんばんは。
コメントありがとうございます。

「千夜一枚」の記事は大変参考になりましたので、勝手ながらリンクさせていただいております。ありがとうございました。

初めてPhilips盤を聴いた時は、他のピアニストでは聴けない独特のものがあるせいか、もう一つはっきりつかめないものがあったのですが、いろいろレビューを読んだり、EMI盤を聴いたりすることで、自分なりに理解できる聴き方ができるようになったと思います。

また、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番やディアベリ変奏曲(第24変奏や第29-31変奏)、ブラームスのヘンデルバリエーション、シューマンのピアノ協奏曲なども、私にとってはビショップらしい音色と叙情感が深く味わえる演奏でした。
偶然にもPhilips時代の彼と出会えたことは全く幸運でした。今年聴いたCDのなかでは、レーゼルのベートーヴェンと並んで、最も心に残るものです。
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
ブログ内検索
最近の記事
最近のコメント
カテゴリー
タグリスト
マウスホイールでスクロールします

月別アーカイブ

MONTHLY

記事 Title List

全ての記事を表示する

リンク (☆:相互リンク)
FC2カウンター
プロフィール

yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

お知らせ
ブログ記事はリンクフリーです。ただし、無断コピー・転載はお断りいたします。/ブログ記事を引用される場合は、出典(ブログ名・記事URL)を記載していただきますようお願い致します。(事前・事後にご連絡いただく必要はありません)/スパム投稿や記事内容と関連性の薄い長文のコメント、挙動不審と思われるアクセス行為については、管理人の判断で削除・拒否いたします。/スパム対策のため一部ドメインからのコメント投稿ができません。あしからずご了承ください。