太宰治の作品について

学生時代にかなりの作品を読んだ日本人作家といえば、大江健三郎、村上春樹、それに、太宰治。
中島敦、野上弥生子の小説や坂口安吾の評論も読んだけれど、読んだ作品は少ない。

大江・村上・太宰のうち、今でも、時々読み返している作家といえば、太宰だけ。
同時代の作家坂口安吾が書いた太宰論『キリストと不良少年』が、今も昔も私の太宰のイメージとぴったり。
そのためか、私は太宰信奉者にも熱烈なファンにもなれず、「太宰を最も理解しているのは自分」と思ったこともない。
それでも、昔に比べると太宰についてかなりポジティブな姿勢で向き合うことができるせいか、戦前・戦中期の”小市民的生活”を送っていた頃の太宰の生き方と作品には特に好感を持っているし、強く共感できる部分も多い。

愛読していたのは新潮文庫版。ほとんど揃えていたけれど、最も人気のある『人間失格』、それに『グッドバイ』は、どうにも好きにはなれなくて、随分昔に処分してしまった。
「新潮文庫 累計発行部数」では、夏目漱石の『こころ』(673万7500)に次いで、第2位が『人間失格』は、(657万4000)。
そういえば、太宰の伝記を書いた猪瀬直樹が、「『人間失格』はね、あれはほんとは、自分だけ合格で、世間が失格だと言っているんだよ。それを読み違えている若者が、日本には多いんだよね」と言っていた。(猪瀬直樹ブログ,2010年3月25日)
『人間失格』に関しては、最も批判的な評論は、おそらく岸田秀の『ものぐさ精神分析』に収録されている「自己嫌悪の効用 ~太宰治の「人間失格」について」。(詳しくは、過去記事<太宰治の生誕100周年[2009年6月19日]>参照)


この新潮文庫版は随分昔に買ったので、経年劣化のためにすっかり黄ばんでいたり、最近出た改版に比べて文字がかなり小さくて、とても読みづらくなっていた。
ちくま文庫の『太宰治全集』の方が長期保存するのに良さそうなので、好きな作品が載っている巻から順番に買い替えている。
ちくま文庫は装丁がわりとしっかりしていて、紙質も比較的良いので、芥川龍之介の作品もちくま文庫版を中心に揃えている。

太宰作品のなかでは、美知子夫人と”再婚”(戸籍上は初婚)して安定した”小市民的生活”に入った戦前・戦中の作品に好きなものが多い。
戦後期の家族をテーマにした作品は、言い訳めいて愚痴っぽく感じるせいか、「子より親が大事と思いたい」という冒頭で有名な『桜桃』や『父』にも、全く共感しなかった。
逆に、妻の立場を描いた『おさん』は面白かったけど。

学生の頃にとても好きだった作品といえば、歴史物が好きだったせいか、『右大臣実朝』。
それに『斜陽』。当時、野上弥生子の『真知子』も愛読書だったので、戦前・戦後期という違いはあるけれど、中産階級の女性の生き方の違いが対照的だった。

昭和13年の『満願』~戦後直後の『津軽』あたりまでの作品を今また読み直していると、太宰の文才がどれだけ優れたいたのかを実感する。芥川のような高尚・高踏な作風ではないけれど、やはり”天賦の才能”に恵まれた人だった。
戦中・戦後の混乱に巻き込まれていたとはいえ、生活・精神的に安定した時期の作品のせいか、創作小説、私生活小説、古典の翻案、紀行など多種多様な作風と、それにあわせて文体・形式も多彩。
戦後期の《人間失格》や《グッドバイ》などとは違って、地に足がついた地道な”小市民的”な生活から生まれた明るさ、堅実さ、ユーモアのある作品群は、この時期の太宰でしか書けなかった。

特に太宰の天才のほとばしりを強く感じるのが『駆込み訴え』
太宰は、美知子夫人(それに晩年の愛人だった山崎富栄)や編集者に作品を口述筆記で書き取らせることが度々あり、この『駆込み訴え』もそうして生まれた。
『駆込み訴え』を口述筆記した美知子夫人の回想録にそのときの様子が記されている。
「全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった」
愛憎が心中で葛藤しているユダの錯綜する心理を一気呵成に口述していくのは、頭の中で熟成させていたからだろうか。作曲家でも、バッハやモーツァルトは、作曲するときに楽器を使わずに、一気に譜面に書き込んで行ったというから、頭のなかで全てで出来上がっていたのだろう。

『富嶽百景』は、「富士には月見草がよく似合ふ」の一文が有名。
堅実な家庭で育ったインテリ女性との結婚話が持ち上がり、新しい生活への期待を感じさせる。
地味ながらもポジティブな心持ちがあって安心して読める。

『畜犬談』も面白い。
ひょんなことから飼う事になった野良犬ポチを廻るお話。
そのなかで、ひどい皮膚病になった犬がただならぬ悪臭を放つようになり、これにまいった妻が、
「ご近所にわるいわ。殺してください」女は、こうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。
「殺すのか」私は、ぎょっとした。「もう少しの我慢じゃないか」

という話が出てくる。
実際に美知子夫人が実際にそう言ったのかどうかはわからないけど、太宰の犬嫌い(というか、恐犬癖)は、美知子夫人の回想『回想の太宰治』でも書かれている。

なぜか妙にその当時の(今も..かも)の心情とぴったりマッチして、特に忘れることがなかったのは、『トカトントン』
ユーモラスというよりは、ニヒリスティックな雰囲気が漂う。
どうして太宰はこの作品を書いたのだろうかと、今でも不思議に思う。
彼の自己破壊衝動的なものと関係あるのかも...と思ったりもする。
実際、「トカトントン」が聞こえていたのかどうか、太宰に尋ねたくなってくる。
(研究者の解釈としては、戦後の混乱期に旧来の価値観が崩壊しつつある社会を反映したとか、社会的文脈から読み解く人もいる)

あまり知られていない『日の出前』(最初に発表時のタイトルは『花火』)は、最後に出てくる妹の言葉「兄が死んで、私たちは幸福になりました」が何より痛烈。
この話はなぜかすっかり忘れていたけれど、読み直していると当時読んだときの記憶が鮮明に蘇ってきた。
当時、家族論や家族病理論といった本をよく読んでいたので、衝撃的というよりも当然と思えるくらい説得力のある言葉だった。
太宰が戦後に発表した短編『家庭の幸福』で”家庭の幸福は諸悪の根源”という、小市民的幸福感を否定した言葉とは、意味合いが違う。
この妹の言葉は、実家の兄や家族たちの世話になり続け、度々事件を起しては迷惑をかけ続けてきた太宰の負い目が言わせた言葉なのではないかと思えてしまう。


『津軽』は、紀行としても、回想記としても、太宰の他作品にはない淡々とした語り口と、津軽人のメンタリティを生き生きとした描写で書いている。
『太宰治と旅する津軽』という写真集&旅行記と一緒に読めば、津軽の景色や街並み、縁の建築などが写真で眼にすることができる。

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ユーモア作品としては、黄村先生シリーズの『黄村先生言行録』が面白い。
小説中では弟子となっている太宰が送ってきた手紙に、先生がコメントした内容が書いてあって、これが笑える。
続編の『花吹雪』『不審庵』も、太宰の黄村先生に対する冷静な観察眼と批評がユーモラス。

『誰』は、気を回したのに逆効果だったという最後の落ちが利いている。

菊池寛の『忠直興行状記』の話が冒頭に出てきたので、読みたくなったのが『水仙』
忠直卿の武術が劣るために家来たちがわざと勝負に負けたのではなくて、忠直卿は本当に強かったのではないか...という疑念をヒントに、画家を主人公にして小説化したもの。

『お伽草紙』を昔読んだときは、原典自体をよく知らないせいか、さほど面白いとは思わなかった。
読み直してみると、原典を知らずとも、ともかく話自体が面白い。この作品が結構人気があるのもよくわかってきた。
特に、『カチカチ山』と『舌切雀』は、女性の持つ冷酷な面がユーモラスさを交えて書かれていて、かなりコワイ。
太宰は、女性が一人称で語る告白調の作品も多く、女性の心理を書かせると上手い。

『カチカチ山』の狸の不幸。
「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる。」
という冒頭で始まり、
「しかし、狸の不幸は、まだ終らぬ。作者の私でさへ、書きながら溜息が出るくらゐだ。おそらく、日本の歴史に於いても、これほど不振の後半生を送つた者は、あまり例が無いやうに思はれる。狸汁の運命から逃れて、やれ嬉しやと思ふ間もなく、ボウボウ山で意味も無い大火傷をして九死に一生を得、這ふやうにしてどうやらわが巣にたどりつき、口をゆがめて呻吟してゐると、こんどはその大火傷に唐辛子をべたべた塗られ、苦痛のあまり失神し、さて、それからいよいよ泥舟に乗せられ、河口湖底に沈むのである。実に、何のいいところも無い。これもまた一種の女難にちがひ無からうが、しかし、それにしても、あまりに野暮な女難である。粋(いき)なところが、ひとつも無い。」
というお話。

『舌切雀』では、可愛い雀に嫉妬したお婆さんが、雀の舌をむしり取つてしまう。これは結構ムゴイ。
「そんな気のきいた事を言はせないやうに、舌をむしり取つてしまひませう。あなたは、ふだんからどうもこの雀を可愛がりすぎます。私には、それがいやらしくて仕様が無かつたんですよ。ちやうどいい案配だ。あなたが、あの若い女のお客さんを逃がしてしまつたのなら、身代りにこの雀の舌を抜きます。いい気味だ。」掌中の雀の嘴をこじあけて、小さい菜の花びらほどの舌をきゆつとむしり取つた。

舌を切られた雀を探し回ったお爺さんが、ようやく雀の世界に入り込んで、”お照さん”と呼ばれている舌切り雀と再会する場面がとっても微笑ましい。
まさに以心伝心の如く、お婆さんとの会話とは全くえらい違い。

物語の結末は、金貨の一杯つまった大きな葛籠を抱えたお婆さんが凍死してしまう。
それを元に出世したお爺さんの言葉で小説は終わる。
「いや、女房のおかげです。あれには、苦労をかけました」
この言葉だけが最後に書かれているので、どう解釈するかは読み手次第。
私には、解説者(奥野健男氏)が書いているような”内助の功”や”亡き妻への感謝”ではなくて、愛情を失った妻が己の強欲から死んでしまった幸運(?)をシニカルに語った言葉に思える。


太宰の作品は、文体からテーマまで多種多様で長編・短編ともいろいろ読んでいると、戦後期の作品は愚痴めいていて相変わらず好きではないとはいえ、歳と好みの変化のせいか、昔よりもずっと相性が良くなっている。

太宰に関する複数の評伝を読んだせいか、彼の錯綜を重ねた生き方とメンタリティに全て共感はできないとしても、以前よりは理解できるようにはなった気はする。



太宰治の作品(XHTMLファイル)[青空文庫]
富嶽百景
駆込み訴え
右大臣実朝
畜犬談
トカトントン
日の出前(旧題:花火)
津軽
黄村先生言行録

おさん
水仙
お伽草紙

タグ:太宰治

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コメント

太宰

こんにちは。
私も学生時代は村上春樹、太宰治、それに坂口安吾は読みました。ご紹介にある岸田秀のものぐさシリーズにもハマりました。一時期流行りましたよね。
村上は新刊が出ると読みますし、今でもたびたび読み返すのは太宰と中島敦です。太宰と中島は文章がなんといっても素晴らしい。読み返すに耐えうる作品が多いと思います。
「お伽草紙」はまだ読んでいないのですが、ああいう作品は芥川の影響なのですかね。

太宰治と中島敦

ポンコツスクーター様、こんにちは。

学生時代の読書傾向は、もしかしたら似ていたのかもしれませんね。
岸田秀は、学問的には正統派ではないのでしょうが、心理学には門外漢の私には結構説得力がありました。
彼は芥川論も書いてますが、芥川の精神的問題を養子という複雑な家族・親族関係から分析していました。

中島敦もいいですね!
残した作品は少ないのですが、有名な『弟子』(これは特に好きです)や『山月記』だけでなく、『文字禍』や『名人伝』などの古典ものが好きです。
簡潔で引き締まった漢文調の格調高い文章は、技巧的に凝った芥川とはまた違った名文です。

太宰の方は、テーマが身近なことと、口語調の文章がリズミカルでわかりやすいです。
語り口の上手さは、弘前高校時代に義太夫に凝って師匠について習っていた影響もあるのかも..という気がします。
太宰と中島の作品には、時代を超えた普遍性のようなものを感じるので、いつ読んでも違和感を感じません。古典として残っていくのはそういう作品なのでしょうね。

「お伽草紙」は、語り口も内容もとても面白い作品です。
芥川の手法を真似たのかもしれませんが、なにぶん戦時中だったので、既存の価値観に対する皮肉や批判を面だって書くのではなく、太宰らしい語り部的文体でユーモアを交えて書いたのではないかと思います。
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yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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