高橋悠治 ~ バッハ/ゴルトベルク変奏曲(1976年,2004年)

2014.04.11 18:00| ♪ 高橋悠治
高橋悠治の録音を聴くと、いつも意外で新鮮な驚きがある。特にここ十数年間に行われた録音を聴くと、その意外さがかなり増しているようにも思える。

《ゴルトベルク変奏曲》は、《ディアベリ変奏曲》ほど好きではないし、大体途中で飽きて眠くなる。
それでも気に入っている録音がいくつかあって、今なら、コロリオフ(スタジオ録音とライブ映像の両方)、ソコロフ、マルクス・ベッカー、ケンプあたり。
それに加わったのが、高橋悠治の2種類の録音で、DENON盤(1976年録音)とavex盤(2004年録音)。
この2つの録音を聴くと、同じピアニストが録音したとは思えないくらいに、30年近い時間の隔たりを実感する。
誰が弾いているのか、すぐにわかるほどに、どちらもきわめて個性的。
両方とも初めて聴いたときはとっつきが悪かったけれど(ゴルトベルクを聴くと、いつもその時の気分や体調で印象がかなり変わるので)、改めて聴きなおしてみると、耳が慣れたせいか、どちらも不思議な魅力がある。

76年録音は、軽快で機動的なテンポと抑制した淡白な叙情表現で、音の動きと構造を突き詰めたように、造詣が明晰。
どの変奏でもリピートしないので、わずか37分で完結。
誰が弾くゴルトベルクを聴いても途中で眠くなるのに、さすがにこのゴルトベルクは演奏自体の凝集力・集中力が高く、眠くなることはない。(それに、眠くなる前に演奏が終わってしまう)
音色のソノリティの多彩さに拘ることはなく、輪郭が明確で曖昧さのない音なのに、柔らか味と仄かな温もりがある。
レガートとノンレガートの両方を織り込みながらも、軽やかに飛び跳ねるようなノンレガートで、レガートをスパっと断ち切っていくようなフレージングが面白い。
アクセントを時折強く利かせながら、歯切れのよいリズム感で、声部の動きと絡みがくっきりと浮き上がってくる。
全ての声部が同じ音量で弾かれているし、音色やソノリティも均質なわりに、メカニカルでも、モノクローム的でもない。感傷性を排除した、さっぱりとした抒情が若々しくて新鮮。

冒頭の「アリア」の符点のリズムが、ちょっと変っているし、装飾音は全然凝っていないけれど(「スタイルの正統性にたやすく組み込まれる表面の装飾や即興」と彼自身言っているし)、トリルが一音一音明確で、小鳥が囀るように可愛らしい。
急速変奏のテンポがかなり速く、力みのない打鍵の切れもよく、飛び跳ねるような躍動感と疾走感が気持ちよい。(第14・26変奏など)
緩急のコントラストは明瞭でも、強弱の変化と振幅は抑えているので、感情表現はさっぱり。
緩徐変奏(第7・第15変奏とか)では、いくぶんたどたどしく途切れ気味なタッチで弾いているせいか、情感をひきづることを拒否したように思える。
音の繊細さやソノリティの美しさを追求した演奏とは対極にあるけれど、若々しく清新で、甘さに流れない潔さと風通しのよい草原のような開放感がとても気持ちよい。

バッハ:ゴルトベルク変奏曲/14のカノンバッハ:ゴルトベルク変奏曲/14のカノン
(2009/12/23)
Denon Crest 1000

試聴ファイル



高橋悠治が2004年に再録音した《ゴルトベルク変奏曲》は、今までに全く聴いたことがない異形のゴルトベルク。
CDリリース当時、とても話題になったらしい。
それも当然で、古今東西の録音だけでなく、彼自身の旧盤とも異質で、こんな風変わりなゴルトベルクを弾く人はいない。
ゆったりとしたテンポと、残響の少ないクリアですっきりとした響きの音質に加えて、奇妙な拍節感とアーティキュレーション。くっきりと浮かび上がる旋律や和声が、今まで聴いた数々のゴルトベルクとは違って聴こえて来る。
淡白な叙情表現で感情的なもたれることがない上に、あまりに斬新すぎて、頭の中がすっかりクリア。眠くなっている暇がない。

高橋悠治のゴルトベルクは、バッハ演奏の伝統や既存の枠を壊してデフォルメしたようなところはあるけれど、逆に伝統や規範に縛られない自由さと、無邪気な遊び心に満ちているように思える。
最初は、高齢ゆえの技術的な問題もあるのかと思ったけれど、ブラームスのヴァイオリンソナタのピアノ伴奏であれだけ弾けるのだから、そういうことでは全くない。
テンポも拍子もフレージングも、崩しているのは確信犯的な解釈。
このちょっとたどたどしくて、つまづきそうな弾きぶりが、実に飄々として、ユーモラス。
肩の力をすっかり抜いて、遊び心があって、自由闊達、融通無碍。
もうここまでくると、名人の落語を聴いているみたい。
何度か聴いていると、弾いている本人が”自然体”だからなのか、この変則的なリズムなアーティキュレーションに全く違和感を感じなくなって、ごく自然な成り行きのように思えてくるから不思議。
正当な音楽教育を受けたプロフェッショナルなコンサートピアニストには、こういうゴルトベルクは弾けそうにない。
もともとピアニストになりたいと思っていたわけでもなく、今でもピアニストというよりも作曲家だと自認している(のではないかと思う)彼にしか弾けないに違いない。

バッハ:ゴルトベルク変奏曲バッハ:ゴルトベルク変奏曲
(2004/11/17)
高橋悠治

試聴ファイル
高橋悠治自筆のライナーノートには、『「ゴルトベルク変奏曲」を聴く』を掲載(後掲)。作品解説はなし。


旧盤と同じくリピートしないので、演奏時間が47分とこちらもかなり短い。
不規則に崩して、力を込めずに軽やかで訥々としたタッチが、妙に素朴で、愛らしくて、ユーモアがにじみ出るよう。
フレージングにレガートなところはなく、ノンレガート的なタッチで、フレーズを断片化するように、フレーズを区切ったり、一瞬の空白を入れたり、強めのアクセントを入れたり。
全体的にゆったりとしたスローなテンポで、変奏間の緩急の変化はあまりつけていない。
強弱の起伏も緩やかで、短調の叙情深い変奏であっても、歌いまわしに粘りは全くなく、他の変奏と同じく、淡々としたタッチで、叙情過剰になることがない。
音色の繊細さや微妙なニュアンスを出したり、最近のピアニストが拘るようなところには、頓着していない。
そういう精緻なものを感じさせないところが、堅苦しさともスクエアな生真面目さとも無縁で、風通しが良くて自由闊達。

技巧性を競うような第5変奏でさえ、テンポはゆったりとして、着実に一歩一歩踏みしめていくよう。
珍しく比較的テンポが速いのは第14・20・26変奏など。ふんわりと軽やかな疾走感。
このゆったりしたテンポに慣れてしまうと、緩急の変化があまりないのも気にならず、逆に、一音一音明確な打鍵により旋律の輪郭がくっきりと浮かび上がってくるのが面白かったりする。
哀感のある短調の変奏(第21変奏・第25変奏)は、速めのテンポと感傷性を排除したような歌い回しで、さばさばとあっさりした叙情感。
第23変奏は、対位法による旋律の動きがとても明瞭に聴こえる。まるで、楽譜に書いてある音がひとつづつ浮かんでくるようなくらい。
この風変わりなフレージングで聴くと、妙にユーモラスに聴こえるのが第17変奏。
第18変奏は、思わず笑みがこぼれてくるように、愛らしい。

短調の叙情性の高い変奏では、情感過多になり過ぎないように、ぽつぽつと途切れ気味のたどたどしいタッチでさばさばとあっさり。
極端に言えば、音の動きをどう表現するかということだけを追求したところ、結果的に情感が自然についてきただけ...みたいな印象。
リズムやフレージングの規則性を崩してはいても、そのなかにも一定のルールやパターンがある。
旧盤の演奏よりも、さらに”客観性”を追求した結果、長調・短調・曲想に関わり無く、ウェットな感傷や過剰な情感を排除しているので、叙情表現自体はニュートラルのように感じる。
それなのに、どの変奏でも風変わりなリズム感や旋律の歌いまわしや和声の響きから生まれてくる叙情感は新鮮で、至極自然なものに(私には)感じられてくるから不思議。
試聴ファイルで初めて聴いた時には”即興的”に感じたけれど、CDで全曲聴いて、高橋悠治の文章もいくつか読むと、緻密に練り上げられた現代音楽としての実験的なゴルトベルクなのかも。


どうしてこんなゴルトベルクを弾くのだろう?..という素朴な疑問に対する答えは、彼自身が書いた文章を読めばわかったような気がする。

CDのライナーノートに載っている「ゴルトベルクを聴く」の言葉の通り。

「均等な音符の流れで縫い取られた和声のしっかりした足取りをゆるめて 統合と分岐とのあやういバランスの内部に息づく自由なリズムをみつけ 組み込まれた小さなフレーズのひとつひとつを 固定されない音色のあそびにひらいていく」


「2010年4月 目次キーボードの演奏」(後掲)に書かれている次の一節も、演奏解釈のベースにあるように思える。

「チェンバロの和音や多声部の伝統的な崩しかたと似たような結果がでてくるが それは情感にもとづく名人芸とはかかわりがない
「バッハの解体のように聞こえるかもしれないが コントロールをゆるめて うごきを解放し そこに何が起こるか見ようとするなかで 不安定で不均衡な運動が 知っているはずの音楽から知らない響きをとりだす」

彼の言葉を体現した演奏は、まさに「バッハから遠く離れて」に記されている一節の如く。

完成されたものとしてではなく
発明された過去としてではなく
未完のものとして
発見のプロセスとして
確信にみちたテンポや なめらかなフレーズを捨てて
バッハにカツラを投げつけられたオルガン弾きのように
たどたどしく まがりくねって



<参考情報>
高橋悠治の公式サイトに載っている執筆文から、ゴルトベルクに関係ありそうなものがいくつか載っている。
そのうち「「ゴルトベルク変奏曲」を聴く」は、avex盤のライナーノートにも掲載されている。

「ゴルトベルク変奏曲」を聴く(2004年) 

紙の上の作曲術の規範にすぎなかった「ゴルトベルク変奏曲」は 20世紀後半になって コン サートレパートリーになった その流れは北アメリカからヨーロッパと日本にひろがった 新自由主義市場経済の流れと同時なのは偶然だろう
 現在では毎年のように この曲の新しい演奏のCDが消費される それぞれが個性的なスタイルや正統性や技術を売っているが 話題になるのは 次のCDが出るまでの短い期間にすぎない 

 さてその競争に加わってどうするのだ 「音楽の父」となったバッハの父権的権威に抵抗して 音楽をその時代のパ ラドックスの環境にかえしてやる 均等な音符の流れで縫い取られた和声のしっかりした足取りをゆるめて 統合と分岐とのあやういバランスの内部に息づく自由なリズムをみつけ 組み込まれた小さなフレーズのひとつひとつを 固定されない音色のあそびにひらいていく といっても スタイルの正統性にたやすく組み込まれるような表面の装飾や即興ではなく 作曲と楽譜の一方的な支配から 多層空間と多次元の時間の出会う対話の場に変えるこころみ 

 CDも一回のこころみの仮の姿 それを経て演奏のプロセスはさらに遠くからバッハを観ようとする もともとは鍵盤演奏の教育のために出版された音楽を バロックの語源でもあるゆがんだ真珠のばらばらな集まりとみなして はじめて触れた音のようにして未知の音楽をさぐるのが 毎回の演奏であり その鏡から乱反射する世界を発見するのが 音楽を聴くことの意味でもあるだろう

 と言ったところで これも事実の半分にすぎない あとの半分は きままな指についていく遍歴の冒険 ちがう世紀ちがう文化の死者の世界にいるバッハとの対話から織りなす現在の東アジア地域の物語  
(avex cd のために)

(以上、一部抜粋)


「バッハから遠く離れて」(『音の静寂静寂の音』(2000))

バッハの曲のどれかを鍵盤の上でためしてみる
完成されたものとしてではなく
発明された過去としてではなく
未完のものとして
発見のプロセスとして
確信にみちたテンポや なめらかなフレーズを捨てて
バッハにカツラを投げつけられたオルガン弾きのように
たどたどしく まがりくねって
きみは靴屋にでもなったほうがいい
その通りです マエストロ
そして この音楽と現代社会とのかかわりについて
さらに 日々の生に その苦しみにこたえる音楽をもたず
過去の夢に酔うことしかできないこの世界の不幸について
瞑想してみよ

(以上、一部抜粋)



2010年4月 目次キーボードの演奏

クセナキスの曲を演奏するなかでまなんだこともいくつかある 「ヘルマ」と「エオンタ」では 楽譜は音響空間の見取り図を比率と近似で表したものにすぎないこと 個々の音符やピッチではなく 全体の肌理と色彩が問題で それはいままでのハーモニーに替わる位相空間の運動であること メロディのように線的に継続するのではなく 色彩変化が複数の層をつくって同時進行していること 「エヴリアリ」と「シナファイ」では 連続するピッチをメロディとしてではなく  ちがう層にあらわれる近接した色彩点とするために リズムをわずかに揺らして ずれと断層をつくること これはポリフォニーに替わる「メドゥーサの髪」

このようなピアノ奏法で たとえばバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いてみれば チェンバロの和音や多声部の伝統的な崩しかたと似たような結果がでてくるが それは情感にもとづく名人芸とはかかわりがない 1930年以後の音符がすべてのようなデジタルなスタイルに慣れた耳には これはバッハの解体のように聞こえるかもしれないが コントロールをゆるめて うごきを解放し そこに何が起こるか見ようとするなかで 不安定で不均衡な運動が 知っているはずの音楽から知らない響きをとりだす 

(以上、一部抜粋)

タグ:バッハ 高橋悠治

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コメント

ゴルトベルク

こんばんは。
ディアベリも同じくらいの規模の変奏曲ですけれども、こちらは未だに面白さが分からず。。ゼルキンのを十数回聴いたのですが、どうもツボに入りません。
逆に、ゴルトベルクは気に入っていて、グールドの新盤を始めとして、リヒターのライヴやニコラーエワの演奏などを好んでいます。
高橋の2004年盤は面白そうですね。解説の「バッハにカツラを投げつけられたオルガン弾きのように」なんていい。
バッハの自毛を見てみたいものです。

異色のゴルトベルクです

こんばんは。

ディアベリは結構不人気な曲ですね。
なぜか私は退屈したことがないんですが、録音にはいろいろ面白いものがあります。
ゼルキンはオーソドックスでちょっと堅苦しいかもしれません。
ソコロフ、ムストネン、アンダ、アンデルジェフスキは、わりと面白く聴けました。

ゴルトベルクは必ずと言っていいくらい、眠くなるんですけど(不眠解消には効きます)、定番と言われているものは大体聴きました。
そのなかでは気にいったものがあまりなかったので、私の好みはいささか変わっているようです。
高橋悠治の新盤は、面白さではピカ一です。
それに、散文詩的な「バッハから遠く離れて」も面白いですね。
彼は筆も立つ人なので、彼の演奏解釈とそのバックボーンとなる考え方がよくわかります。
若い頃から、伝統とか既成概念に捉われない反骨の精神を持った人なのだと思いますが、飄々としてユーモアも感じさせるところがありますね。

こんばんは

ゴールドベルグ好きで、高橋ファンなので、これは何度も聴いています。
yoshimiさんが、ゴルドベルグで眠くなるというのがとても意外でした。
人の好みはそれぞれなのですねえ。
わたしは、生命力が溢れて、全て鼻歌で歌いながら目がランランになります。
人それぞれですねぇ。
ディアベリ、久々に聴いてみます♪(^v^)

不眠症解消にはいいのですが

Leaf様、こんばんは。

バッハのなかでは、「パルティータ」と「前奏曲とフーガ」を聴くことが一番多くて、ゴルトベルクはたまに聴きます。
60分近くを最後まで聴きとおすのは至難の業で、たいてい途中で眠たくなってきます。
そういう意味では、バッハの意図どおり(?)不眠症解消に最適ですね。
退屈する人が多いらしいディアベリでは全然眠くならないんですけど。

高橋さんのゴルトベルクはどちらも素敵ですね。
その時の気分で、どちらが聴きたいか違うのですが、どちらかというと新盤を聴きたくなることが多いです。
それに、ゴルトベルク演奏にまつわる文章はどれも冴えてます。
独特の演奏解釈が意図するところを知る手がかりになりました。
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yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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