ヴェデルニコフ ~ ベートーヴェン/作品集(ピアノ・ソナタ「月光」「テンペスト」、自作の主題による32の変奏曲)

リヒテルの師ゲンリヒ・ネイガウスが、リヒテル、ギレリス、ザークと共に最も才能ある弟子として評価していたのが、アナトリー・ヴェデルニコフ。
数年前、たまたまCDレビューを見て興味を持ったので、バッハとベートーヴェンのDENON盤CDを聴いてみると、その独特なピアニズムにすっかり惹きこまれてしまった。
個人的な好みから言えば、特に好きというわけではないリヒテルよりも、素晴らしく思えるくらい。

ヴェデルニコフの生涯については、DENON盤のCDの解説以外にも、ネット上にいろいろ情報が載っている。
生まれ育ったハルビンから、社会主義体制下のソ連に移住したが、両親がスターリンの粛清に巻き込まれるなど苦境にさらされながらも、師ネイガウスの尽力で、モスクワ音楽院を無事修了。
ソ連当局により、国外での演奏活動は禁止されていたが、国内では演奏会や録音を行い、音楽院で教官を務めるなど、音楽家としてソ連時代を生き延びた。

ヴェデルニコフ,アナトリー[総合資料室/一世(Issei)による歴史的ピアニスト紹介]


珍しいヴェデルニコフの伝記的ドキュメンタリー。
ヴェデルニコフ夫人の話など、既存のプロフィール情報には載っていない話がいろいろ盛り込まれているし、ロシア文学者の亀山郁夫と作家の島田雅彦の2人が、ヴェデルニコフについて語り合っているのも面白い。
島田雅彦がヴェデルニコフのファンだとは知らなかった。
彼の小説や評論・随筆はかなり独特のものがあるので、好きとは言い難いけれど、この映像では至極まとも。
彼は、オペラを歌いヴァイオリンも弾くそうなので、クラシック音楽論なら読んでみたくなってきた。

ヴェデルニコフのピアニズムを語るところで、いろいろなキーワード-明晰、分析的、普遍的、マテリアニスティック、無機的、機能的、直感的など-がでてくる。
ヴェデルニコフの録音を聴いていれば、なるほどと思える。ただし、この二人の間には、ヴェデルニコフのピアニズムに対する捉え方の違いがあるし、執筆/翻訳という行為とヴェデルニコフのピアノ演奏とのアナロジーには、作家/翻訳者としての感性や視点の違いを感じる。
印象に残ったコメントは、「ナショナリズムを解体して、ロシアだけでなくヨーロッパやアジアに広がる非ソヴィエト的な普遍性を目指していた」(島田)、「(シェーンベルクやヒンデミットなどの現代音楽的)マテリアリスティックなもの、無機的なもの、機能的なものに、いわれもなくそそられてしまうしまうような感性と想像力を持っていた」(亀山)。
「ヴェデルニコフの語り口が彼の音楽を体言しているというか、音楽と接点がある」(亀山)。「彼の語り口は、ぶっきらぼうで、非常に早口でたたみ掛けるように、時に分析的で時に批判的」(島田)。


あるロシア人ピアニストを巡る対話ーAnatoly Vedernikov


島田雅彦がホームページで書いていたヴェデルニコフ夫人訪問記。
アナトリー・ヴェデルニコフを訪ねる(世界わが心の旅 モスクワ・ぼくの青二才の街 旅人・島田雅彦)


ヴェデルニコフは、ソ連当局が批判する20世紀の作曲家(ストラヴィンスキー、ヒンデミット、シューベルクなど)もレパートリーにしていることから、冷遇されていたので、録音を聞いても、ピアノの状態や録音音質がかなり悪いものが結構ある。
それでも、レパートリーの幅広さがわかるくらいに、多数の録音を残してくれたのは幸い。
国外の演奏活動が禁止されていたヴェデルニコフは「自分にはレコードがあるから」と言っていたそうなので、録音には熱心だったのだろう。
ヴェデルニコフが残した放送用/LP用の録音は、DENON盤の『ヴェデルニコフの芸術』と、その一部を廉価盤にした『ロシア・ピアニズム名盤選』でシリーズ化されている。

レパートリーは幅広く、ディスコグラフィなどを見てみると、バロックのバッハ、古典派のベートーヴェンとモーツァルト、ロマン派のシューベルト・シューマン・ブラームス・リスト、近現代は、ロシアのストラヴィンスキー・プロコフィエフ・スクリャービン、フランスのドビュッシー・ラヴェル、ドイツのシェーンベルク・ヒンデミットなど。
ヴェデルニコフの録音を全て聴いたわけではないけれど、好きなのは、バッハの《イギリス組曲》《パルティータ全集》、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集と変奏曲。異聴盤のなかでも、ベスト盤かそれと同じくらい好きなものが多い。
ピアニズムとしても、ネイガウスと同門だったリヒテルやギレリスよりも、ヴェデルニコフの方にずっと強く惹かれるものがある。

試聴ファイルを聴いただけで、直感的に素晴らしいと思えたのが、ベートーヴェン。
ベートーヴェン録音は何種類か出ているけれど、この「月光」と「テンペスト」を収録したアルバムは音質がわりと良い。
ヴェデルニコフは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタのうち15曲がレパートリー。
そのうち、録音されたのは8曲(1番、3番、「月光」、「テンペスト」、29番~32番)。
未録音ソナタのなかでも、「悲愴」、「狩」、「ワルトシュタイン」、「熱情」、「告別」が聴けないのが残念。
ヴェデルニコフのリサイタルでは、「月光」、「テンペスト」を対にして、さらに18番(「狩」)と「熱情」を加えたプログラムでよく演奏していたという。

ロシア・ピアニズム名盤選-3 ベートーヴェン:月光/テンペスト、他ロシア・ピアニズム名盤選-3 ベートーヴェン:月光/テンペスト、他
(2003/05/21)
ヴェデルニコフ(アナトリー)

試聴ファイル


速いテンポでも精密で力感のあるタッチが刃物のように鋭い。
夾雑物のないようなソノリティが美しく、もたれた表現や甘さは全くない澄んだ叙情が清冽。
隅々まで曖昧さのない明晰さと堅牢な造形力は、力強くも厳しさが漂っている。
特に凄かったのが、《自作の主題による32の変奏曲》。試聴ファイルを聴いた時よりも、それに《月光ソナタ》の第3楽章よりも、はるかに凄かった。

《自作の主題による32の変奏曲ハ短調WoO.80》(1973年ステレオ録音)は、ハ短調で嵐が激しく渦巻くようなベートーヴェンらしい曲。
鋭く突き刺さるような精密な打鍵は、力強くも荒々しい激しさと厳しさで、揺るぎない構築感と曖昧さのない明晰さで岩の如く堅牢。
研ぎ澄まされた響きを緩むことない集中力で揺るぎない構築感があり、息詰まるような迫力。
特に、強演部での鋭く突き刺さるようなタッチは、まるで激しい憤怒を鍵盤に叩きつけるようで、怖いくらいの凄みがある。
緩徐部や弱音部になると、しっとりとして憂いを帯びた叙情感のある音色がひそやかで、とても美しい。
この静動・緩急・強弱のコントラストがこの上なく鮮やか。
でも、強烈に印象に残るのは急速系の変奏で、これ以上に激しく峻厳な演奏はありえないと思えるくらい。

Anatoly Vedernikov plays Beethoven 32 Variations in C minor, WoO 80



試聴した時には一番凄いそうに思えた《月光ソナタ》
第1楽章は、淡々・黙々としたタッチで、陰鬱な寂寥感と虚無感が漂っている。
喩えて言えば、靄のかかった暗い夜空に浮かぶどんよりとした灰色がかった月から、朽ち果てて亡霊が出てきそうな廃墟の古城に、寒々とした月明かりが指しているような..。
第2楽章もその雰囲気を引き摺って、軽快で楽しげなAllegrettoなのに、ひそひそ話しをするような静かなタッチで、躍動感も明るさもなく、諦観さえ感じる。
第3楽章になると、鬱々とした雰囲気を払拭し、冒頭から極めて速いテンポで、どの音も明確で鋭いタッチは、力強く、明晰。
くっきりとした造詣力と堅牢な構築感に加えて、ほぼインテンポで一気呵成に弾きこんでいく集中力で、最後まで揺らぐことも緩むこともない。
情熱的な熱気というよりは、冷たく光る刃物のような凄みを感じてしまう。
この《月光ソナタ》は好きなことは好きなのだけど、単純に”好き”というよりは、他のピアニストにはない独特なところに強く惹かれると言ったほうが正しい。

参考音源:ベートーベン ピアノソナタ「月光」[ニコニコ動画]


《テンペスト》は、他の2曲と比べて、特異な凄みはやや薄く、叙情感が強いかも。
第2楽章は、穏やかな安息感のなかにも、淋しさが漂っている。
第3楽章は、粒立ちよく、一音一音が明瞭に響くタッチで、旋律がくっきりと浮き上がり、明晰。
かなりペダルを多用して長く折り重なる響きが美しく、荒々しく寄せては引くような波のようにダイナミック。右手と左手の響きが重層的になっても、混濁することなくそれぞれがクリアに聴こえてくるようなペダルワークが鮮やか。
ソノリティも多彩で、起伏の多い表現は、とてもドラマティックに聴こえる。
この第3楽章は、「月光ソナタ」のような特異さあまりなくて、レーゼル、アラウと同じくらいに、好きな演奏。

タグ:ベートーヴェン ヴェデルニコフ

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コメント

ロシア好きのふたり

こんばんは。
亀山と島田がヴェデルニコフについて語っているというのは興味深いですね。亀山はドストエフスキーの新訳で馴染んでいますし、島田も(先々週に読んだ「彼岸先生の寝室哲学」はろくなものではありませんでしたが)まあ、気になる作家ではあります。
ヴェデルニコフのディスクは一時期まとめて出ていましたけど、手をつけられませんでした。
気にしてみます。

島田雅彦は意外でした

ポンコツスクーター様、こんばんは。

この2人の組み合わせは意外でしたが、彼らが語るヴェデルニコフ像については、作家と学者(翻訳家)の違いが出ているように思いました。
島田雅彦は、随分昔に何冊か(「優しいサヨクのための嬉遊曲」や「ドンナ・アンナ」 とか)読みました。
視点は面白いのですが、表現方法に私の好みとのズレを感じるものがあり、好きになれそうで好きにはなれない作家です。
それでも、エッセイ・評論集の「ヒコクミン入門」はわりと読みやすかったです。
そういえば、彼は料理好きで有名なようです。私は全然知りませんでしたが。
「ひなびたごちそう」という料理エッセイ集が出ているので、そのうち読むつもりです。

ヴェデルニコフはDENON盤がかなり出ていますが、プレス数が少ないのか、在庫切れが多くなってます。
個人的に好きなのは、特にバッハ(Venezia盤)とベートーヴェン。リスト、ラヴェル、ドビュッシー、フランクも良いと思います。ブラームスは、ロマン派音楽というより、もっと現代的な音楽を聴いているような感じがします。

ひなびたごちそう

こんばんは。
うふふ。「ひなびたごちそう」持っています。これはいいです。大根の皮を食うなど、セコい話が多いところがいいようです。おススメです。

小説よりはずっとマトモそうです

ポンコツスクーター様、こんばんは。

「ひなびたごちそう」、お持ちだったのですね~。
近くのイオンショッピングセンターにある本屋さんにはなかったので、図書館で取り寄せ中です。
ひねったタイトルが面白いですし、レビューも良いので、小説よりはずっとフツーそうです。読むのを楽しみに待ってます。
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yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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