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クリストフ・エッシェンバッハ ~ ベートーヴェン/ピアノ・ソナタとバガテル
今は演奏活動の中心が指揮者となっているクリストフ・エッシェンバッハは、もともとはピアニスト。
若い頃に、ショパン・ベートーヴェン・モーツァルトなどのピアノ作品や、バイエル・ツェルニーといった教則本に載っている練習曲を多数録音している。
その中でも、とりわけ異彩を放つと言われているのが、ショパンの《練習曲集》《前奏曲集》とシューベルトの《ピアノ・ソナタ第21番D960》と言われている。そういえば、ショパンの《前奏曲集》を「黒い詩集」と吉田秀和氏が評していた。
彼の録音のほとんどが長らく廃盤になっていたけれど、ここ数年、再発売が相次いでいる。(国内盤のショパンの前奏曲集はすでに在庫切れ状態)。

私が最初に聴いたのがエッシェンバッハのCDは、ベートーヴェンの『後期ピアノ・ソナタ&バガテル集』。ピアノ・ソナタ第29番~第32番と最後のバガテル集 《6つのバガテル Op.126》を収録。
5年前くらいに買ったとき以来、全然聴いていなかったけれど、今聴くと全く印象が違う...というよりも、(昔書いた記事を読み直して)以前は全然まともに聴けていなかった。

クールで繊細な響きと沈み込むような緩徐楽章の叙情感のなかに、閉じられた世界のような他人を寄せ付けない孤独感と寂寥感が漂う、きわめて特異なベートーヴェン。
手放しに”好き”とは言えないのだけれど、なぜか心に強く響くものがあって、この後期ソナタの数ある録音の中でも、忘れることができないものの一つ。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番~第32番ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番~第32番
(2012/08/22)
エッシェンバッハ(クリストフ)

試聴ファイル


エッシェンバッハのプロフィールを調べてみると、子供の頃から大変苦労した人なので、それがメンタリティに影響しているだろうし、演奏解釈や演奏そのものにも現れている部分があるのでは...と思ってしまう。
演奏家の個人的な経験と結び付けて演奏を聴くということは、したくないのだけれど(”物語”を聴いてはいけないので)、そう思わせる特異なものを彼の演奏から感じずにはいられない。
超スローテンポで陰々滅々とした演奏をするピアニストがいるけれど、そのかなり変わった演奏解釈は意図的なものだと思えてしまうので、それを演奏者の内面世界やプロフィールと結びつけようと思ったことはない。
エッシェンバッハの場合は、演奏解釈というものを超えて、意図していないのに内面から必然的に顕れてきてしまう何かを直観的に感じさせるものがある。

Beethoven Piano sonata Nº 31 - I mvt. Christoph Eschenbach, piano


Beethoven Piano sonata nº 31 III mvt. Christoph Eschenbach, piano


エッシェンバッハのベートーヴェン演奏の特異性は、後期ピアノ・ソナタだけでなく、「月光」、「葬送」、「悲愴」にも現われている。
彼の演奏は、技巧的に精密で切れ味よく安定感があり、音の繊細な美しさがとても印象的。
クールで陰翳のある音色と、脆く壊れそうな沈み込む弱音。弱音の余韻にまで微妙なニュアンスが漂っている。
声部の音色・ソノリティを弾き分けが鮮やかで、和声の響きが長く重なりあっても、旋律線がくっきりと明瞭に浮かびあがり、音のコントロールが素晴らしい。
緩急・静動の変化が極端なくらい対照的。急速部分やフォルテでは、テンポも速く、技巧の切れもよく、時に感情が噴出するような激しきも。
緩徐楽章や弱音部になると、柔らかく抑制されたタッチで静寂さのなかに、寂寥感と孤独感が強く漂い、肌で感じとれるくらいのリアリティがある。

第31番と第32番に比べて、第30番はそれほど特異さを感じる演奏ではないと思うけれど、弱音部や緩徐部で、テンポと音量がかなり落ちて、消え入るかのような静けさと繊細さには、孤独感めいた何かが潜んでいる気がする。
まるで夢見るような、それとも、過去の幸福な思い出を回顧するかのような、第3楽章の主題や緩徐変奏には、失われてしまって取り戻すことができない喪失感や寂寥感をを感じてしまう。

とりわけ孤独感を強く感じるのが第31番。
演奏解釈というよりは、演奏者の内面世界を投影している気がして、肌寒さを覚えるくらい。
外部からは立ち入ることができない閉ざされた世界を垣間見ているような感覚。
特に最初のアリオーソは、大仰な表現ではないのだけれど、悲嘆というよりは、心の奥深く傷を負ったように痛々しい。
フーガはペダルを使った和声の響きが包み込むように柔らかく、アリオーソの深い傷を癒すような。
けれども、2度目のアリオーソは、か細い弱音と、本当に息絶えてしまうかのように揺れ動くテンポで、さらに痛々しさを増し、演奏解釈という枠を超えて、リアルな感情が伝わってくるように錯覚してしまう。
2回目のフーガは弱音が本当に美しい。こんな綺麗な響きで弾ける人はほとんどいないと思えるくらい。
最後のコーダに向かってテンポも音量も上がって力強くなり、コーダに入ると若干躊躇するように少し遅くなるけれど、再び加速して、一気にエンディング。
歓喜や高揚感に満ちたような輝きや明るさは満ちた明るさというのではなく、なんだか”顔で笑って心で泣いて”いるように聴こえてくる。

第32番の第2楽章は、かなり遅いテンポで思索的なヴェデルニコフの演奏と似ているところがある。
違うところは、ヴェデルニコフはあくまで瞑想的でときに諦観も感じるのだけれど、エッシェンバッハは強い孤独感が漂っている。
それに、ヴェデルニコフは19分台、エッシェンバッハは22分台と、エッシェンバッハはかなり遅い。
第5変奏になっても、エッシェンバッハは、時に止まりそうになるほどに、相変わらずゆったりとしたテンポ。
ためらいがちに弾いているかのようなフォルテに高揚感は全くなく、天国的に美しいはずのコーダに入っても、安息感も解放感も感じられない。
この演奏が映し出している世界は一体どんなものなのだろう...と不思議に思うけれど、たぶん本当に理解することはできないような気がする。

最後のバガテル集を聴いても、ピアノ・ソナタと印象は同じ。
安らぎに満ちたはずの第1番は、物静かで淋しい。
第2番や第4番はテンポも速く切れ味鋭いタッチで、寂寥感はないけれど、冷たく光るナイフのように近寄りがたいものを感じる。
一番好きな優美で明るいはずの第5番も、沈み込んで消えていくような余韻の弱音が淋しい。聴いているとなんだか悲しくなってしまう。

『悲愴』『葬送』『月光』の3つのピアノ・ソナタを聴いても、やはりエッシェンバッハらしい演奏。
特に、第12番『葬送』の第3楽章「葬送行進曲」は、ゆったりとしたテンポと抑制のきいたタッチで、静寂さのなかに深い喪失感が漂い、まさに弔いの音楽そのもの。
『月光』の第1楽章も、幻想的というよりは、今にも亡霊が現われてきそうな不気味さ。寂寥で寒々とした心象風景を感じさせる。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、第12番「葬送」、第14番「月光」ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、第12番「葬送」、第14番「月光」
(2012/05/09)
エッシェンバッハ(クリストフ)

試聴ファイル



エッシェンバッハの演奏自体は、技巧優れて、音色やソノリティも美しく、知的によくコントロースされている。
陰翳の濃い弱音と表現に、(他のピアニストなら感じるに違いない)感傷性や情緒性を感じないのは、たぶんあまりにリアルすぎて作為性が感じられず、必然的に湧き出ているかのように聴こえるから。
エッシェンバッハのベートーヴェンが表現しているものは、ベートーヴェン自身が曲に込めたものや心象風景とは全く違うと思わずにはいられないので、単純に「好き」と言い切れない。それでも、強く惹かれてしまう異様な何かがある。
理性と感情のバランスが取れたベートーヴェンでさえこれだけ特異なのだから、名高いショパンとシューベルトになるとどんなピアノを弾いているのだろう?

tag : ベートーヴェン エッシェンバッハ

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記事のご意見とは違うニュアンスの言い方になりますが、私もエッシェンバッハの演奏気に入っています。少し前にブレンデルとエッシェンバッハとポリーニのベートーヴェン・ピアノソナタ集を買って聴いてみたことがあり、そのときエッシェンバッハが1番しっくりきて、聴けました。
 
mtr_n 様、こんばんは。
コメントありがとうございます。

個人的な印象としては、ブレンデル、エッシェンバッハ、ポリーニなら、ブレンデルが一番"ベートーヴェンらしい"演奏のように感じます。再録音と再々録音では弾き方に違いがありますが、どちらも好きな演奏です。

ポリーニは年を経るにつれてピアニズムが変遷したせいか、だんだん響きが混濁していくので、今は聴かなくなりました。
でも、スタジオ録音の25番ソナタ(かっこう)は好きですし、1980年代の来日公演で弾いたベートーヴェンの熱情ソナタは素晴らしいと思います。

この2人と比べると、やはりエッシェンバッハの演奏には(ベートーヴェンに限りませんが)、特異なものを感じてしまいます。そういう意味で忘れがたいベートーヴェンですね。
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Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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