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『評伝ペーター・レーゼル/ドイツピアニズム 最後の継承者』(岡本和子、月刊「ショパン」連載)
ペーター・レーゼルの(おそらく)唯一の評伝が、月刊誌「ショパン」に2012年4月~10月(No.339~No.345)まで連載されていた『評伝ペーター・レーゼル/ドイツピアニズム 最後の継承者』。
レーゼルへのインタビューを元にしているので、レーゼル自身が語った言葉も多数載っている。
レーゼルのCDの解説を読んだくらいでは知ることのできない話が次々と出てくるし、旧東ドイツ時代や東西ドイツ統一後の混乱渦中の音楽界の状況が垣間見れる。
旧東ドイツに関する翻訳書は10冊ほど読んだけれど、音楽界に関する話はほとんど載っていなかった。
キングレコードの「シャルプラッテン・ベスト・シリーズ」の国内盤ブックレットには、旧東ドイツでの録音風景などの話しが少し載っているけれど、私は1枚しか持っていない。

第1回 「戦争、破壊そして復興へ~子供時代、初めてのレッスン、デビュー」
口数の少ないレーゼルは、(その10倍は喋る)陽気なハイドルン夫人によると、「物凄く頑固で、ふだんはおとなしいけれど当然爆発するタイプ」。
第二次大戦末期に生まれたレーゼルの家系は音楽一家で、父は将来を期待されていた若手指揮者。
ドレスデン国立歌劇場の常任指揮者就任直前に徴兵されて、レーゼルの誕生する3日前に戦死。
母はドレスデン音大卒の歌手。エンジニアの祖父はピアノもかなり弾ける人で、レーゼルにピアノを手ほどきした。
レーゼルは文字より先に楽譜が読めて、5歳になる前に人前で演奏していた。
6歳から本格的にピアノのレッスンを開始した時の先生は、子供を教える名教師として有名なインゲボルク・フィンケ。
幼少期から祖父とベートーヴェンの交響曲をピアノ連弾で弾いたり、ドレスデン国立歌劇場合唱団員の母親や同僚たちの練習のピアノ伴奏をしたりと、幅広い音楽知識を身につけることができた。
10歳のときには、ピアニストになる決心をしていた。

高校卒業まで、テオ・アダムやペーター・シュライヤーも通ったドレスデンの聖十字架学園で学び、中学時代にはドレスデン音大に創設された予科にも通っていた。
この予科は、ドイツ全土から才能豊かな15~18歳の若者を集めて育成し、国際コンクールに派遣するための特別学級。
高校卒業後にドレスデン音大に入学。


第2回 「モスクワ音楽院へ」
1963年のロベルト・シューマン国際コンクールで第2位に入賞。
この時の審査員だったモスクワ音楽院のディミトリ・バシュキーロフ教授は、有能な学生を探し集めていたところだったので、レーゼルにモスクワ音楽院留学を打診。
ドレスデン音大よりもはるかに高いレベルのモスクワ音楽院では、当時、オイストラフ、ロストロポーヴィチ、リヒテル、ギレリス、オボーリン、ショスタコーヴィチなどが自ら教鞭をとっていた。
モスクワ音楽院の留学生活は6年間。リストのソナタやチャイコフスキー・ラフマニノフのコンチェルトなどの難曲を弾く学生のレベルの高さに驚いたレーゼルは、遅れを取り戻すために朝から晩までピアノを弾き続けた。
おかげで、身体の筋肉を上手にコントロールできるようになり、無駄に力むことなく弾けるようになった。


第3回 「モスクワ音楽院の日々」
モスクワ音楽院ではソ連全土から厳選された学生が集められ、その演奏技術は圧倒的なハイレベル。
レーゼルにとっては、「テクニックはそれ自体が目的であってはならないがタブー視するべきものではなく、感情を伝えるために不可欠な音楽的要素のひとつ」。
朝の7時から夜の11時まで、音楽院でも寮でも自由に好きなだけピアノを弾くことができ、先生も学生もとにかく練習熱心。
ピアノ漬けの日々を通して、テクニックを磨き上げた。
留学生仲間のクリスティアン・フンケとは、ドイツ帰国後に度々共演する友人。
同じ寮生だった野島稔とも知り合い、その縁で2001年に仙台音楽コンコールの審査員をつとめた。

モスクワ音楽院の講師は、生きた伝説のような現役バリバリの有名ソリストばかり。
学生に対する要求の高さも想像を絶するもので、必死にくらいついていかないと振り落とされてしまうようなレッスンだった。
レーゼルが師事したのは3人。ディミトリ・バシュキーロフ、レフ・オボーリン、オボーリンの助手で伝説的な天才ピアニストと言われたセムリャンスキー。
「(内向的なレーゼルとは正反対の性格の)バシュキーロフ先生はどちらかというと直情型のピアニストで、彼には臆することなく感情をストレートに表出することを教わった。舞台に上がると必要以上に緊張して身体に無駄な力が入ってしまう若いピアニストが多いが、先生は弟子を緊張から解放する名人だった。おかげで私も絶対に弾けないと思い込んでいた難曲が次々と弾けるようになり、場数を踏んで度胸をつけさせるという先生の教育方針もあり、留学して早々にソヴィエト各地で一般聴衆の前で演奏する機会を与えられた。」
次に師事したオボーリンは、世代もタイプもバシュキーロフとは全く違うピアニスト。
オボーリンの一貫した教えは「作品に含まれた多様で複雑に絡み合う音楽的要素、変化する表情を巧みにつなぎ合わせて構築し、イメージする響きを具象化するために不可欠なのがテクニックだが、それ自体が目的になってはいけない。」
最も影響をうけたセムリャンスキーは「たった5分の短い曲を3時間もレッスンして、最後までためになる言葉しか発さないすごい先生」。レーゼルは「あの先生に出会えて幸運だった」と感謝している。

モスクワ音楽院で生の演奏を聴いてレーゼルが共感したピアニストはリヒテル。
「音楽的な思考の流れが極めて論理的で、切れ味の鋭い解釈とそれが明瞭に伝わってくる正確な演奏が好き。ポリーニも、そう。作品の構造をしっかりと見据えた、論理的な演奏」。
中期よりは後期のギレリスも好きだし、南米で実演を聴いたアラウの演奏は気品に満ちて素晴らしかったという。


第4回 「キャリアのスタート」
1966年のチャイコフスキー国際コンクールで6位、西側のモントリオール国際コンクールで2位(1位はオールソン)に入賞したため、東独各地から出演依頼が殺到。
1979年に、クルト・ザンデルリングがライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の英国ツアーのソリストに指名して、25歳のレーゼルが世界的に知られるようになる。
ザンデルリンクは東独人ながら、国際的な名声を獲得していたため、比較的自由に西側に出入りできた(マズア、アダム、シュライアーも同様)。
1976年に、唯一のピアニストのソリスト団員として、ゲヴァントハウス管と契約。
給料は楽団員と同じ2000東ドイツマルク。年間20公演にソリストとして演奏し、リサイタルと室内楽を各1回、国外ツアーにソリストとして同行する。
楽団側にしてみれば、ギャラの高いソリストを毎回招聘するより、いつでも使えるソリスト団員を使うのが経済的だった。
若いレーゼルにとっても、「自由に国内外を行き来できる身分ではなかったし、収入も安定するし、何よりもあのすばらしいオーケストラと一緒に演奏できる喜びが大きかった。物もお金もなかったが、音楽家として最高に贅沢な環境だった。」

ソリスト団員の時代には、モスクワ留学時代の同級生であるフンケとも度々共演し、録音もいくつか残した。
「若い頃から室内楽が好きで、ピアノを弦楽器のように歌わせたいといつも思っている。ライプツィヒでは管弦楽器奏者たちともよくアンサンブルを楽しんでいた」。
レーゼルが最も多く共演した指揮者は、おそらくクルト・マズア。「音楽的アプローチが常に新鮮、明快で、説得力がある。何度同じ曲を一緒に弾いても飽きることのないすばらしい音楽家」。

東西ドイツ統一後の1990年に、レーゼルとゲヴァントハウス管とのソリスト契約は”自然解消”された。


第5回 「知られざる東独時代の音楽事情」
16970年代以降のオイルショックで経済状況が厳しくなった東ドイツでは、貿易の決済通貨である外貨(西独マルク、米ドル)獲得のために、国はアーティストの西側での演奏活動を大いに奨励していた。
作品によっては西側出版社の楽譜のレンタル料も高いために、プロコフィエフやショスタコーヴィチは滅多に演奏されず、著作権が切れているベートーヴェン、モーツァルトの作品ばかり取り上げられていた。
東独の場合、演奏する作品に制約があったのは、60年代までは思想的な理由によるが、70年以降は主に金銭的な理由だった。

東独では、国内から国外、国外から国内へという演奏家の活動には、国が運営する「国営芸術家事務所」が必ず介入して、ビザ、ギャラ、仕事内容まで管理していた。
レーゼルが海外へ演奏旅行に出るときは、家族同伴の出国は認められず、同じ社会主義国のキューバへの演奏旅行で初めて夫人の渡航許可が下りた。しかし、ふたりの子供の渡航は、演奏旅行先がどの国であっても認められなかった。

東独のクラシック演奏家の録音は、全て国営レコード会社ドイチェ・シャルプラッテンが製作していた。
「国営だったので商品の売れ行きをあまり気にすることなく、良いものを作ることだけに専念していればよかった。」


第6回 「東西ドイツ統一の混乱にのみこまれ」
平野洋氏のルポ『伝説となった国・東ドイツ』を読んだときに、詳しく説明されていた土地返還訴訟問題。
東ドイツ政府によって没収された土地家屋の所有権に関する問題で、東西ドイツ統一後、土地の帰属をめぐって各地で訴訟が頻発していた。
1949年の東ドイツ建国時、社会主義体制を嫌って西ドイツに移住した人(ベルリンの壁建設前までに約360万人)の住んでいた土地家屋は、東ドイツ政府がナチ党幹部と大地主のものは没収、それ以外の不動産も東ドイツ政府が利用。
なかには、東ドイツ人に管理料を支払って所有権を保持していた移住者もいるが、移住者が残していった不動産に対しては、東ドイツ政府が補償金を支払っていた。
また、社会主義国では珍しく、国が承認すれば土地家屋を購入して個人所有することもできた。
再統一を機に旧東ドイツ国内の土地・家屋の返還を求める西ドイツ人との間で訴訟が頻発。
解決方法は、居住者が買い取る、立ち退く、賃貸料を支払って住み続けるなど、もともとの土地の権利関係などによって異なる。

レーゼルもこの厄介な土地返還問題に巻き込まれていた。
国から購入してレーゼルが所有していたドレスデンの閑静な住宅街にある自宅は、運悪く西ドイツへの移住者が所有していたものだったため、返還か買い取りを求められた。
ドイツ統一後に不動産価格が高騰していたため、西ドイツ人の元所有者から買い取るだけの資金もなく、訴訟を起こしたが、敗訴。長年住みなれた家から立ち退かなければならなかった。

また、当時の旧東ドイツのあらゆる組織のポストが西ドイツ人に次々と取って代られたように、音楽界でも同様に、オケの奏者や事務局員、レコード会社のスタッフ、大学の窓口の担当者も西側の人間に変わっていった。
ドレスデン音楽アカデミーの教授陣も”整理”されていき、ゲヴァントハウス管のソリスト団員という契約も解消されたレーゼルにとって、唯一残されたのがドレスデン音楽アカデミー教授という立場だった。(実際には、演奏活動が忙しく、特別レッスンをたまにするくらいだった。)
この地位を守るためにレーゼルはかなり辛い思いをしたそうで、「50歳近くになって、自分が何者であるのかを、何が出来るのかをゼロから証明していかなくてはならないのは、正直、辛かった。」
音楽のことだけ考えて生きていけば良い時代は終わったと痛感した瞬間だった。

幸い、西側からの出演依頼やマスタークラスの誘いも少しずつ増えていき、大学の給料も入ったので、生活に困窮するような事態に至らなかったが、出演料のほとんどは裁判費用に消えた。
結局、裁判に敗訴したため、自宅も手放すことになったが、生まれ育ったドレスデンの街に住み続けることはできた。


第7回 「最終回 Frohe, dankbare Gefühle nach dem Sturm」
東西ドイツ統一による混乱の時代もなんとか乗り切って、ドレスデン音楽大学の教授を無事定年退官後も、活発な演奏活動が続く。
60歳以降になって、日本での連続演奏会と録音プロジェクト、スイスに熱心な支援者がいてレーゼルを主役にした音楽祭(※ローザンヌ・Aula des Cedresでのベートーヴェンピアノ・ソナタ全曲演奏会)が開催された。
アメリカや(特に)フランスでも高い評価を得るようになり、ゲヴァントハウス管のメンバーとたびたび室内楽で共演したり、演奏会と一緒にマスタークラスの依頼も多い。
日常生活は規則正しく、朝は定時に起きて朝食をとり、そのまま温かいコーヒーを入れたポットを持って、下の階にある練習部屋にこもってひたすら練習する。
午後になると、夫人と一緒に美術館で絵画鑑賞、遊びにきた孫たちを自動車に乗せて郊外の史跡めぐり、エルベ川沿いの散策、歌劇場でのオペラ鑑賞などを楽しむ。
「いろいろあったが、人として、音楽家として、総じて自分は幸せな人生を送っていると思う。家族、友人、ファンの支え、そして音楽があったからやってこられた。」

※”Frohe, dankbare Gefühle nach dem Sturm”・・・ベートーヴェン《交響曲第6番「田園」》第5楽章の標題”Hirtengesang. Frohe und dankbare Gefühle nach dem Sturm”(牧歌−嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち)。

                                 

『音楽の友』(2008年11月号)に掲載されたレーゼルのインタビューでは、演奏に対する考え方と人生の転機となった時期について語っている。

「私は自分の演奏を誰にでも気に入ってもらえるものにしたいとは決して思っていません。・・・・・私は自分自身のために、まず作品の構造を見出そうとしています。そして、そこからどのような感情が湧き出るのか、気持ちや印象を見出していくアプローチをとります。演奏家がわかるように弾こうと努力すれば、きっとそれは聴いてくださる方に伝わります。感情の高ぶりは大事ですけれど、それを実現するためにはしっかりした基盤の構築、それから自分なりのロジックというものが必要です。そのうえにエモーショナルなものを積み上げていくことで、多少なりとも心に残る永遠性を生み出すことができるのだと思います」。

レーゼルにとって、60歳(日本でいう還暦)となった年は、「人生の新たな1章が始まったなと思える節目の年」
60歳記念の演奏会の一環として、ドレスデン音楽祭で行った演奏会のなかで、日本の紀尾井シンフォニエッタ東京と共演してベートーヴェンの5曲のピアノ協奏曲とロンドを演奏。
これがきっかけで、2007年に30年ぶりのソロリサイタルに招聘され、このリサイタルがすこぶる評判がよかったことから、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集演奏会と録音計画が決まった。
さらに、日本でのリサイタルをきっかけに、中国や台湾にも招かれて、活動地域がアジアにまで広がった。

次に上げたのは、1964-69年まで留学したモスクワ音楽院時代。
「類まれな、素晴らしい芸術の時間を過ごすことができました。オイストラフ、ロストロポーヴィチ、ショスタコーヴィチ、ギレリス、リヒテルといった錚々たる顔ぶれが存命中で、運が良ければ演奏会を聴けたし、廊下ですれ違ったりすることもできた時代です。それに加えて、音楽院のレッスンの水準が、現在とは違って素晴らしくハイ・レヴェルでした。」

人生に重要な時期といえば、ベルリンの壁が崩壊した1989年。
「ドイツにあらゆる方面において大きな変化がもたらされたときです。当時は誰もがこの変化に影響を受けざるをえなかったし、何らかのかたちで関わらずを得なかった。」

さらには、レーゼルが生まれてからの14日間。
ドレスデンが連合国の大空襲に見舞われた1945年2月13日、夜間の爆撃によりレーゼルの母が入院していた産院が焼け落ちてしまった。
幸運なことに、レーゼル母子はその日の朝に退院したため、難を逃れたのだった。

最後に挙げたのは、ゲヴァンドハウス管弦楽団のソリスト団員として国内外で演奏活動を行っていた15年間。
首席指揮者だったクルト・マズアとは、200回以上演奏している。
「ほんとうに充実した実り豊かな日々だったので、人生の節目としてもうひとつ挙げるとしたらこの15年間です。」


<参考情報>
「ペーター・レーゼルにきく」(日本ピアノ教育連盟 第28回全国研究大会前インタビュー)(PDF)


<演奏会情報>
レーゼルの公式サイトに掲載されていた2015年12月のコンサート情報

Dezember 17.12. Nagoya Munetsugu Hall (Recital)
Mozart, Sonate A-Dur KV 331; Beethoven, Sonate c-Moll op. 13 (Pathetique); Schubert, Sonate B-Dur op. posth. D 960

Dezember 19.12. Nagoaka (Kammermusik) Sawa Quartett)
Brahms, Klavierquintett op. 34

※Munetsugu Hall(宗次ホール):「カレーハウスCoCo壱番屋」の創業者である宗次徳二氏が、私財を投じて建設した名古屋のクラシック音楽専用小ホール。

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yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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