サン=サーンスと北アフリカ ~ アフリカ幻想曲 (管弦楽&ピアノ版、ピアノ独奏版)
2018-05-18(Fri)
《アフリカ幻想曲》は、サン=サーンスのピアノ&管弦楽向け作品のなかでも、特に人気があるらしい。
ピアノ&管弦楽版以外に、先に出版された2台のピアノ版とピアノ独奏版がある。
冒頭の黒光りするような厳めしくゾクゾクっとする主題はかなり好き。オリエンタルな”エジプト風”とちがって、ちょっと野生的な感じがする。
終始指が鍵盤上を激しく動き回って、幻想曲なので形式性は弱く、主題を織り込んで展開していったり、サバンナの様子みたいな爽やかで楽し気な旋律や、アラビア風の旋律がでてきたりして、いろいろなモチーフが次々とコラージュみたいに移り変わっていく。
アムランが弾いているピアノ&管弦楽版。
Saint-Saens - Africa (Hamelin)
ちょっと珍しいピアノ独奏版の演奏。この曲に限らず、サン=サーンスが作曲したピアノ独奏版は、オケが入っていなくても気にならないくらいに音色が多彩で響きも厚くてゴージャスに聴こえる。
SAINT-SAËNS Africa, fantaisie Op.89 | B.Ringeissen | vinyl 1975
サン=サーンスの作品リストを眺めていると、中東やアフリカをテーマにした曲がいくつも見つかる。(↓に作品リストの題名からリストアップしてみた)。
歌曲集「ペルシャの歌」 Op.26(1870年)
アルジェリア組曲 Op.60(1891年)
幻想曲「アフリカ」 Op.89(1891年)
アラビア綺想曲 Op.96(1894年)
ピアノ協奏曲第5番ヘ長調 Op.103「エジプト風」(1896年)
軍隊行進曲「ナイル川の岸辺で」 Op.125(1908年)
アルジェの学生に捧げる行進曲 Op.163(1921年)
『音楽における「オリエンタリズム」』(ジョン・マッケンジー/Bulletin of Toyohashi Sozo College,2001, No. 5, 115–135)
サン・サーンスの保守主義は,恐らく彼の技法がその天分を越えているという事実に根ざしたものであろう.おもしろいことに,彼は「オリエンタリスト」的画家と親密であった.彼は最初は音楽家として修行させられていたアングルを知っていた.また画家のジョルジュ・クレーリン(George Clairin)と中近東を旅行した.27) 1873年には後に何度も旅をしたアルジェリアに初めて赴いて,そこで『サムソンとデリラ』の一部を含むいくつかの音楽を作曲した.またカナリーズ諸島,ロシア,エジプトを訪れ,さらにインド洋まで東進した.彼の「オリエンタリスト」的作品は,組曲『アルジェリア』と,たいそう激しいムードの変化を伴うピアノ幻想曲『アフリカ』,日本を舞台にした一幕もののオペラでピエール・ロティの小説を基にメサジェが『お菊さん』を作曲した際にそのエキゾチックなハーモニーが影響を与えたと言われる『東洋の姫君』,トルコのエジプト総督アバス・ヒルミに捧げた『ナイルの岸辺』,ピアノ協奏曲第5番『エジプト風』等がある.『エジプト風』はエジプトの朝の再現やナイルの谷でカエルが鳴く声,終楽章で重々しい蒸気船のプロペラの音を表現している.最も注目すべきは,その終楽章のト長調の小節が,恐らくサン・サーンスがアスワン付近で集めたヌビア人の曲であるということであろう.当地では今日に至るまで,ヌビア人の歌や婚礼の音楽がナイル河の様相を主に伝えていると言われている.
ピティナに載っている”サン=サーンス研究者”中西充弥氏による人物・作品解説がわかりやすくて面白い。
《アフリカ幻想曲》の作品解説
「アフリカ(Africa)」というのはラテン語でカルタゴ地域(今の北アフリカ、チュニジアあたり)を指すという。
当時フランスは、マグリブ(リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国)を植民地化していたので、サン=サーンスはこの地域を頻繁に訪れていたという。
この曲には当時の(フランス保護領)フサイン朝チュニジアの国歌が埋め込まれている。
サン=サーンスが初めてアルジェリアを訪れたのが1873年。終焉の地もアルジェだった。
86歳のサン=サーンスは、1921年にアルジェリア旅行中に滞在していた「Hôtel de l’Oasis」で客死。冬のパリで罹った肺炎が悪化したらしい。同年に《アルジェの学生に捧げる行進曲》も作曲しているけど、旅行前か旅行中なのかわからない。
《動物の謝肉祭》の作品解説。当時の社会的背景やフランス人の価値観なども加えて、サン=サーンスの意図をユーモアを交えながら解きほぐした文章が秀逸。
サン=サーンスの人物解説
コルトーに向かって「君の楽器は」と尋ねたところ、コルトーが「ピアノです」と答えたので、一流のピアニストだったサン=サーンスが、「君、冗談言っちゃいかんよ」と言ったというのは有名な話。
技巧優れたピアニストのサン=サーンスにとっては、当時学生だったコルトーのピアノはさして上手いとは思えなかったみたい。
『ロマン・ロランとドイツ音楽』(岡田暁生)
代表作のオペラ「サムソンとデリダ」は、初演したフランスでは大して評価されず、くワイマールで初演した時に大成功。フランスでそれほど人気がなかった理由は、「〈動物の謝肉祭〉で有名なカミーユ・サン・サーンスを例にとりますと、彼は現在、軽薄なフランス音楽趣味の典型のように思われています。ところが実際は彼は、交響曲とかピアノ協奏曲とかソナタとかいった、本来はドイツ起源のジャンルを多く創ったせいで、フランスでは売国奴よばわりされて、ほとんどフランスに腰を落ち着けて住めないほど激しく非難されたんですね。実際、彼の多くの作品は、フランスでは演奏してもらえないので、ドイツで初演されています。我々の目からみると「十九世紀の軽薄なフランス音楽」の代表のようなサン・サーンスですら、「ドイツかぶれした難しい音楽を書きすぎる」と攻撃される、そんな時代にロマン・ロランは育ったわけです。」
作曲家ではなく、”演奏家”としてのサン=サーンスの伝記をまとめた記事。
演奏するサン=サーンス[Sibaccio Notes シバッチオ・ノート]
ピアノ&管弦楽版以外に、先に出版された2台のピアノ版とピアノ独奏版がある。
冒頭の黒光りするような厳めしくゾクゾクっとする主題はかなり好き。オリエンタルな”エジプト風”とちがって、ちょっと野生的な感じがする。
終始指が鍵盤上を激しく動き回って、幻想曲なので形式性は弱く、主題を織り込んで展開していったり、サバンナの様子みたいな爽やかで楽し気な旋律や、アラビア風の旋律がでてきたりして、いろいろなモチーフが次々とコラージュみたいに移り変わっていく。
アムランが弾いているピアノ&管弦楽版。
Saint-Saens - Africa (Hamelin)
ちょっと珍しいピアノ独奏版の演奏。この曲に限らず、サン=サーンスが作曲したピアノ独奏版は、オケが入っていなくても気にならないくらいに音色が多彩で響きも厚くてゴージャスに聴こえる。
SAINT-SAËNS Africa, fantaisie Op.89 | B.Ringeissen | vinyl 1975
サン=サーンスの作品リストを眺めていると、中東やアフリカをテーマにした曲がいくつも見つかる。(↓に作品リストの題名からリストアップしてみた)。
歌曲集「ペルシャの歌」 Op.26(1870年)
アルジェリア組曲 Op.60(1891年)
幻想曲「アフリカ」 Op.89(1891年)
アラビア綺想曲 Op.96(1894年)
ピアノ協奏曲第5番ヘ長調 Op.103「エジプト風」(1896年)
軍隊行進曲「ナイル川の岸辺で」 Op.125(1908年)
アルジェの学生に捧げる行進曲 Op.163(1921年)

サン・サーンスの保守主義は,恐らく彼の技法がその天分を越えているという事実に根ざしたものであろう.おもしろいことに,彼は「オリエンタリスト」的画家と親密であった.彼は最初は音楽家として修行させられていたアングルを知っていた.また画家のジョルジュ・クレーリン(George Clairin)と中近東を旅行した.27) 1873年には後に何度も旅をしたアルジェリアに初めて赴いて,そこで『サムソンとデリラ』の一部を含むいくつかの音楽を作曲した.またカナリーズ諸島,ロシア,エジプトを訪れ,さらにインド洋まで東進した.彼の「オリエンタリスト」的作品は,組曲『アルジェリア』と,たいそう激しいムードの変化を伴うピアノ幻想曲『アフリカ』,日本を舞台にした一幕もののオペラでピエール・ロティの小説を基にメサジェが『お菊さん』を作曲した際にそのエキゾチックなハーモニーが影響を与えたと言われる『東洋の姫君』,トルコのエジプト総督アバス・ヒルミに捧げた『ナイルの岸辺』,ピアノ協奏曲第5番『エジプト風』等がある.『エジプト風』はエジプトの朝の再現やナイルの谷でカエルが鳴く声,終楽章で重々しい蒸気船のプロペラの音を表現している.最も注目すべきは,その終楽章のト長調の小節が,恐らくサン・サーンスがアスワン付近で集めたヌビア人の曲であるということであろう.当地では今日に至るまで,ヌビア人の歌や婚礼の音楽がナイル河の様相を主に伝えていると言われている.
ピティナに載っている”サン=サーンス研究者”中西充弥氏による人物・作品解説がわかりやすくて面白い。

「アフリカ(Africa)」というのはラテン語でカルタゴ地域(今の北アフリカ、チュニジアあたり)を指すという。
当時フランスは、マグリブ(リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国)を植民地化していたので、サン=サーンスはこの地域を頻繁に訪れていたという。
この曲には当時の(フランス保護領)フサイン朝チュニジアの国歌が埋め込まれている。
サン=サーンスが初めてアルジェリアを訪れたのが1873年。終焉の地もアルジェだった。
86歳のサン=サーンスは、1921年にアルジェリア旅行中に滞在していた「Hôtel de l’Oasis」で客死。冬のパリで罹った肺炎が悪化したらしい。同年に《アルジェの学生に捧げる行進曲》も作曲しているけど、旅行前か旅行中なのかわからない。


コルトーに向かって「君の楽器は」と尋ねたところ、コルトーが「ピアノです」と答えたので、一流のピアニストだったサン=サーンスが、「君、冗談言っちゃいかんよ」と言ったというのは有名な話。
技巧優れたピアニストのサン=サーンスにとっては、当時学生だったコルトーのピアノはさして上手いとは思えなかったみたい。

代表作のオペラ「サムソンとデリダ」は、初演したフランスでは大して評価されず、くワイマールで初演した時に大成功。フランスでそれほど人気がなかった理由は、「〈動物の謝肉祭〉で有名なカミーユ・サン・サーンスを例にとりますと、彼は現在、軽薄なフランス音楽趣味の典型のように思われています。ところが実際は彼は、交響曲とかピアノ協奏曲とかソナタとかいった、本来はドイツ起源のジャンルを多く創ったせいで、フランスでは売国奴よばわりされて、ほとんどフランスに腰を落ち着けて住めないほど激しく非難されたんですね。実際、彼の多くの作品は、フランスでは演奏してもらえないので、ドイツで初演されています。我々の目からみると「十九世紀の軽薄なフランス音楽」の代表のようなサン・サーンスですら、「ドイツかぶれした難しい音楽を書きすぎる」と攻撃される、そんな時代にロマン・ロランは育ったわけです。」
作曲家ではなく、”演奏家”としてのサン=サーンスの伝記をまとめた記事。

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