マニュエル・ロザンタール『ラヴェル その素顔と音楽論』(読書メモ)(2)

    2024.03.15 00:00| ・ 音楽(本&映画)
    ラヴェル その素顔と音楽論ラヴェル その素顔と音楽論
    (1998/12/10)
    Various Artists

    マニュエル ロザンタール (著), マルセル マルナ (編), 伊藤 制子 (翻訳)
    (目次)
    1 ラヴェルをめぐる女性たち
    2 ラヴェルとストラヴィンスキー
    3 同時代の音楽家たち―ドイツ、ロシア、イタリア
    4 ラヴェルの恩師、弟子そして友人たち
    5 フランス音楽へのまなざし―ドビュッシー、ベルリオーズ、プーランク
    6 『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』をめぐって
    7 モンフォール=ラモリのラヴェルの家
    8 素顔のラヴェル―日常生活のひとこま
    9 ラヴェルの評価をめぐって
    10 思い出の演奏家たち
    11 『子供と魔法』から『ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ』まで
    12 スクリャービン、イタリア未来派―同時代の異端者たち

    「自作への批判と修正」
     ラヴェルの出版作品では、誤りがその後引き継がれて定着するようなことはない。逆に、ラヴェルは直したいと思ったかもしれないが、けっきょく修正されなかったものは多い。たとえば、《ラ・ヴァルス》の冒頭は(彼の言い分によると)、「粗雑」な出来である。だが直すのは簡単だ。私自身、演奏のときに、冒頭のコントラバスの分割を修正し、ニュアンスのわずかのちがいを付け加えている。かつてラヴェルにもこの修正を聴いてもらったが、問題はなく、それから冒頭がよく響くようになった。それにひきかえ低音のいくつかを書き替えるのは、作品すべてをやり直さなければいけなくなるので、不可能である。これは、すぐさま聴き手を始めの部分に、引き戻してくれる、一種のダ・カーポなのだ。
     ラヴェルは、こういった間違いひどく嘆いていた。だが私が間違いを見つけると、感謝してくれるまではいかないにせよ、自らの教育成果が表れていると言って、得意気だった。つねに誠実さを失わないラヴェルは、あっさり認めてしまう。「残念だけれど、たしかに君の言う通りだ」。(87頁)


    《ラ・ヴァルス》
     ラヴェルは、《ラ・ヴァルス》の最後の部分の、呪術的とも言える激しさのようなものを誇りに思っていたらしい。最後の部分が、ひじょうに速いテンポで演奏されると、オーケストラのある部分で、半音階的な変化のようなものが生じるのだ。ラヴェルはいつも言っていた。「ここでは、もっと思い切って音を出さないと」。彼が望んだのは、何かもっと「おどろおどろしいもの」らしい。この部分については、「荒れ狂るようなものだ」だと言うべきだろう。・・・そのうえ避けなくてはならない失敗は、同じような動きの部分で、その後テンポを急激に上げることだ。これはラヴェルが望んだことではない。このようにテンポを上げても、フィナーレが壮大さを獲得するわけではないのだ。さらにラヴェルは落ち着いてこう言うのだ「ここで、おしまい」、と。チタ・チタ・タ・・・・・・。もっとゆっくり・・・・・・。(87~88頁)
    Ravel: La valse ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Pablo Heras-Casado



    《優雅で感傷的なワルツ》
    成功作だと言えよう。ラヴェルは、とくに夢のようなエピローグが傑作なのをよくわかっていた。この部分では、あらゆる主題が再登場する。彼はこれをたいそう誇りに思っていたが(この場合はもっともなことだろう)、これが極めて感動的な部分だからだ。この部分に、このように過不足ない情熱を与えることのできる者は少ないだろう。なぜなら、あらゆるモティーフが戻ってきたかと思うと、また消滅しなければならないからだ。(88~89頁)

    Ravel: Valses nobles et sentimentales ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Nicholas Collon


    Maurice Ravel : Valses nobles et sentimentales



    《亡き王女のためのパヴァーヌ》
     ラヴェルは《亡き王女のためのパヴァーヌ》をめぐって、しばしば攻撃された(とくに六人組に。コクトーは「だらけたアルペッジョ」だと皮肉った)。だがラヴェルにしてみれば、これはさほど重要な作品ではないらしい。次のように語っているからだ。「そう、これは美しい曲だが、真の意味では私の作品ではない。これはシャブリエの焼き直しだから。原因はシャブリエにあるよ」。ここまで言うのは正しくないが、ラヴェルは、シャブリエとサティからの影響については、つねづね言及していた。(89頁)

    Ravel "Pavane pour une infante défunte" 1922 piano roll


    Ravel : Pavane pour une infante défunte (Orchestre national de France / Dalia Stasevska)



    《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》
    1)第2楽章(ブルース)
    ラヴェルは、初演ではピアノを自分で担当し、ヴァイオリンは以前から一目置いていた若手ジョルジュ・エネスコに協力してもらおうと考えた。だがエネスコのほうは、最初に譜読みをしたときから、この曲の中間楽章が気に入らないと公言してはばからなかった。(104頁)

     この作品の残りの部分については、エネスコの意見とはちがうのだが(彼は、ソナタという伝統的なジャンルに、ラヴェルが「ジャズの曲」を持ち込んだのが許せなかった)、私が残念に思ったのは、このブルースが(第2楽章に使われている)、本物のジャズではなく(ラヴェルがこう言ったわけではないが、彼はよくわかっていた)、下手なジャズとしか言いようのないものを連想させてしまうからだ。しかもアメリカでのブルースはメランコリーの雰囲気を基調にしているのに、ラヴェルの場合、このブルースには沈んだ気分がまるで反映されていない。

    ここに見られるのは、ジャズの模倣でしかないだろう。偉大なフランスの作曲家のエスプリを持ってしても、乗り越えられないものがある。《子供と魔法》のフォックス=トロットのほうが、ずっとうまくいっているのではないだろうか。
     エネスコのほうは、この第二楽章に拒絶反応を示した。その理由は、こんなジャンルの音楽を弾いてみせるなど、とんでもないということにある。(106頁)

     最初に問うべき問題はこうだ。ラヴェルはなぜ、《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ》などで使ったフランス特有の形式を参考にせずに、ブルースを取り上げたのだろう?(さまざまな要素は、イギリスへ行った際の望郷の念や鳥の鳴き声の模倣に、由来しているらしいのだが)。この問いに答えるのは難しい。
     まず思い出さなくてはならないのは、モンフォールに移り住んだラヴェルは、あまり出かけなかったので、仕事する以外は家で退屈していたということだ。森に散歩に出たとしても、作曲中のものを考えながらである。したがって気分転換が必要だったし、息抜きや休息を求めていたのだろう。(107頁)

     ラヴェルは、作曲技法としてのジャズから得るところもたしかに多かっただろうが、それにもましてジャズが予想外の「息抜き」になっていたのではないだろうか。仕事に疲れたときでも、ラヴェルはパリへ急ぎ、ナイトクラブに駆け込んでいた。夜の生活もそうだが、そこで演奏される音楽も重要だった。ジャズこそ、日々の作曲の仕事から開放していれる息抜きだったからだ。ラヴェルは、長いメランコリックな旋律に魅せられていた。
     ジャズに見られる技法は、ラヴェルがつねに用いてきた技法と共通するところがある。私が言いたいのは、持続音の使い方である。これはつねに同じ枠組みで、和声が変化してもリズムは終始変わらないように見える。この持続音の上で、大胆な旋律線が展開していくのである! ラヴェルがもっともこだわっていたのは、ほかならぬ旋律そのものだったのではないだろうか。(108頁)

    私には、ラヴェルのブルースが、ジャズやアメリカ音楽へのオマージュだったとは思えない。これまであまり使っていなかった手法を取り入れるのも、悪くはないと感じただけだろう。ラヴェルにとってジャズは、全世界的規模の希望のようなものを表現しているように思われたからだ。当時のジャズはもうアメリカのみを象徴するものではなかった。(109頁)

    このブルースは、ラヴェルがジャズにちょっと興味を感じたから使われただけであって、レント楽章の誕生にまつわるひとつのエピソードにすぎない。この楽章は、交響曲や室内楽での中間楽章として作曲されるアダージョやアンダンテとはちがったものになるはずだった。したがって、物想いにふけるようなこの緩徐楽章は、われわれには馴染みのない形式と言語で、構想されたのである。曲の後半でこのブルースには、ある種の冷たさや緊張感、怒りなどが感じられるようになる。これはラヴェルの戦後の作品ではおなじみだ。だんだん緊張が嵩まるが、ついには脱力してしまう・・・・・・。これが極めて印象的なのである。
     同じような表情のうつろいは、ラヴェルの多くの作品でよく見られる。《ラ・ヴァルス》《左手のための協奏曲》《ボレロ》など・・・・・・。これは死への恐れではないだろうか。ラヴェルは、ランブイエの森がとてもお気に入りだったのに、秋にはそこに行ったことはない。紅葉がすばらしですよと勧めても、無駄である。彼にしてみれば、このような美しさこそ、まるで葬式にも似た壮麗さに感じられたのだろう。ラヴェルはこう言っていた「まるで死のような情景だ。大地に落ちたは葉はすべて、腐ってゆくからね」。
     消滅への恐怖・・・・・・。《ラ・ヴァルス》の・・・終結部はひどく不気味な感じがする。《ボレロ》も同じだ。まるで首が切れるかのように唐突に終わるのだから。《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》のブルースも、そして《子供と魔法》のフォックス=トロットもそうだ。複調的なパッセージによって、唐突に終わるのである。
     《ソナタ》をしめくくる楽章は、こんな具合だ。ひじょうに冷淡で抽象的な形式を使うことで、内に秘められたものを隠しているわけだ。ある種の永遠なる動き、果てしなくめぐるロンドのような形式・・・。ラヴェルは永遠なる動きにも非常に執着した(ブルースにも同じような雰囲気がある)。(111~112頁)

    2)破棄された最終楽章
    (破棄された初稿について)「ブルースに続くこの最終楽章は、普通の形式感覚からするとしっくりいっていない」。
    私は新しいフィナーレも魅力的ですかと聞いてみた。「いや、前の方がいい。でも、この《ソナタ》全体とは、もっとうまく調和する形式になっている」。

     「形式」というのは、私に対するラヴェルの教育の中でも魔法のような力をもつ言葉だった。彼いわく、形式こそが、ある作品に個性を与えてくれる(サティの場合では、《梨の実の形をした三つの小品》などがよい例だ)。ラヴェルが作曲について語るとき、決まって口にした言葉は、けっきょく「形式」につきる。事実、彼の音楽は、どんなときでも、周到に構想された形式にぴたりとはまっている。(114頁)

    《ヴァイオリン・ソナタ》のフィナーレをめぐる問題を考えるとき、私は、映画化された『透明人間』が、ラヴェルに与えた衝撃を思い出す。ラヴェルを夢中にさせたのは、この映画の全体ではなく(ごく普通の人間たちが得意な能力を持つ人間を追跡するが、最後にはそれを殺してしまう)、最後のシーンだけだ。このシーンでは、破壊された透明人間が、少しずつ人間の姿に戻っていく。ラヴェルはこういった光景に興奮してしまったのである。この部分について何度語ってくれたことか!
     たしかにこの場面そのものは不思議な感じがしたが、ラヴェルの精神において、これが作曲となんらかの関係があったように思われる。どんな作品であれ、導入部を経て、主題の核心に迫ることができる。だがもっと重要なのは、終わりにすることだ。始めるのは、誰でもできる。そして中間部に難しいパッセージ、そして説得力のある部分があれば、作品全体を知るために最後の部分に期待することになる。つまりもっとも難しいと思われるのはどうやって終わらせるかだろう。未知の音楽の世界において、ともに歩んできた道のりの「終わり」を、だれもがはっきりわかるように示すにはどうしたらよいか、なのだ。
     ラヴェルが『透明人間』に心を動かされたのは、けっきょくこの最後の映像が、彼の音楽家としての興味と一致したからだ。音楽家は、音楽において多くの要素を提示するが(それらが多かれ少なかれ、無意識のうちに過ぎていったとしても)、けっきょくはそれらを要約し、聴き手に「自分たちは、ドビュッシーやラヴェルの世界を共有しているのだ」という感覚を抱かせなくてはならない。ラヴェルは透明人間の死について考えながら(それは、芸術家の復活でもある)、いつも感極まり、ときにはすすり泣きさえして、胸がしめつけられる思いだと話していた。・・・・・・『透明人間』の最後の映像が、きわめて劇的な方法を用いて、ラヴェルに示してくれたのは、作曲家は作品の最後に、個性をちりばめた要素をつねに統合しなくてはならないということだろう。(116~117頁)

    Violin Sonata in G Minor, CD 148, L. 140: I. Allegro Vivo


    Violin Sonata No. 2 in G Major, M. 77: II. Blues. Moderato
    ]

    Violin Sonata in G Minor, CD 148, L. 140: III. Finale. Très animé


    The Invisible Man (1933) - Visible at the End Scene (10/10) | Movieclips

    タグ:ラヴェル

    ※右カラム中段の「タグリスト」でタグ検索できます。

    コメント

    非公開コメント

    ◆カレンダー◆

    04 | 2024/05 | 06
    - - - 1 2 3 4
    5 6 7 8 9 10 11
    12 13 14 15 16 17 18
    19 20 21 22 23 24 25
    26 27 28 29 30 31 -

    ◆ブログ内検索◆

    ◆最近の記事◆

    ◆最近のコメント◆

    ◆カテゴリー◆

    ◆タグリスト◆

    マウスホイールでスクロールします

    ◆月別アーカイブ◆

    MONTHLY

    ◆記事 Title List◆

    全ての記事を表示する

    ◆リンク (☆:相互リンク)◆

    ◆プロフィール◆

    Author:Yoshimi
    <プロフィール>
    クラシック音楽に本と絵に囲まれて気ままに暮らす日々。

    好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

    好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、ミンナール、アラウ

    好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

    好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

    好きな作家;アリステア・マクリーン、エドモンド・ハミルトン、太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭
    好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
    好きな写真家:アーウィット

    ◆お知らせ◆

    ブログ記事はリンクフリーです。ただし、無断コピー・転載はお断りいたします。/ブログ記事を引用される場合は、出典(ブログ名・記事URL)を記載していただきますようお願い致します。(事前・事後にご連絡いただく必要はありません)/スパム投稿や記事内容と関連性の薄い長文のコメント、挙動不審と思われるアクセス行為については、管理人の判断で削除・拒否いたします。/スパム対策のため一部ドメインからのコメント投稿ができません。あしからずご了承ください。