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ギレリス ~ ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第31番
エミール・ギレリスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、第32番をはじめ数曲のソナタが未録音のために、曲全集としては未完に終わっている。
最後に録音したのは、ピアノ・ソナタ第30番(1985年8月)と第31番(同9月)。

この録音直後の10月に、ギレリスはモスクワで急逝する。69歳の誕生日を迎える直前だった。
公式には心臓発作と言われているようだが、リヒテルが自身の自伝映画の中で、ギレリスが亡くなったのは医療過誤によるものだと明言している。
リヒテルによれば、当時のモスクワの医療制度は社会主義体制下にあったため、医者の能力や技術はあてになるものではなかったという。
全ての医者がそうであるとは限らないが、医者になるには、ソ連共産党への貢献度とか、コネとかがものをいったんだろう。
ギレリスは、演奏旅行に出かける前に医者へ健康チェックを受けに行った。
そこで予防か何かのために注射をされたのだが、誤って間違った薬を注射されてしまったため、2分と経たないうちにギレリスは命を失ってしまった。
そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は未完の全集となったのだった。

ギレリスが残したピアノ・ソナタは質実剛健。
抑制された表現のなかにも叙情性と繊細さをも兼ね備えていて、誠実さと澄みきった美しさを感じさせる。
一方では、重くてきつく尖ったタッチが、"鋼鉄"のごとく無機的で殺伐としてはいるけれど。
でも、第30番や第31番のピアノ・ソナタは別世界。
不思議な透明感と静謐さに満ちており、これが若いころに「鋼鉄のピアニスト」と言われた人が弾いているとはとても思えない。

ギレリスのベートーヴェン/ピアノ・ソナタ全集
Beethoven: Piano SonatasBeethoven: Piano Sonatas
(2006/11/14)
Emil Gilels

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ギレリスのベートーヴェン/ピアノ・ソナタ集 第27番,第28番,第30番,第31番
Beethoven: Klaviersonaten Nos. 27, 28, 30 & 31 [Germany]Beethoven: Klaviersonaten Nos. 27, 28, 30 & 31 [Germany]
(1998/11/06)
Emil Gilels

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ギレリスが弾いている後期ピアノ・ソナタ集の第30番、第31番は、まさに「明鏡止水」の境地。
ギレリスは昔から強靭なテクニックと迷い無く明晰なピアノを弾いていたけれど、最晩年になってどうしてこのようなピアノを弾くようになったのだろう。
まさか急に訪れる死期を予感していたわけではないだろうけれど、心臓疾患で健康状態が優れないことが影響していたのかも。

ギレリスがその生涯の一番最後に録音した曲がピアノ・ソナタ第31番。
ギレリスが弾く第31番のソナタは、まるで祈りの音楽。
不思議なくらい静謐な美しさに満ちている。本当に天国的な美しさ。
初めて聴いたときは、諦観のようなものが通奏低音のように流れているように思えたけれど、何か理解しがたいものがある気がして、何度も聴いていると、それは諦観ではなくて祈りなのだと気がついた。

第1楽章から、軽やかなタッチと優しさのある音色でゆったりと弾き進んでいく。
フォルテはかなり抑えている。ルバートや強弱の変化・コントラストはもちろんつけているので、平坦な弾き方ではない。
なぜか静謐さが曲全体を支配しており、澄んだ川の水のように、音楽がただただ滑らかに流れていく。
透明感と柔らかさは強く感じられても、晴れやかな明るさに照らされてはいない。

第2楽章は、冒頭から強弱のコントラストが明確な一方、弱音で弾くところは消え入りそうな弱々しさを時々見せる。
展開部はとても軽やかで、抑えたフォルテには力強さはない。
この楽章は来るべき崩壊への予感のような不安が潜んでいると思うけれど、ギレリスの弾くのを聴いていると、その崩壊が避けられないものだと確信しているような諦観が感じられる。

第3楽章のアダージョもこの上ない静謐さと透明感で満たされている。
「嘆きの歌」は、淡々とした弾き方ではあるっても、テンポや強弱の起伏もつけつつ、抑制された叙情を歌っている。
嘆きの気持ちを朗々と歌う叙情的な演奏には人間的な感情が強く感じられるけれど、ギレリスが弾く嘆きの歌は、その感情を心の中で押し殺すかのような声なき「嘆きの歌」のように感じてしまう。

最初のフーガは、優しい響きがこの上もなく美しい。
このフーガを弾くときは、程度の差こそあれ、困難を克服しようとする生気が感じられるものだけれど、ギレリスが弾くフーガにはそういう意志が感じられない。
まるで運命に抗うことを諦め、その運命を受け入れたかのようなフーガ。

2度目の嘆きの歌。右手の旋律はとても弱々しく、今にも消え去ってしまいそう。
左手の和音も時々音がかすれそうになる弱さを見せる。

2度目のフーガ。ウナコルダで消え入りそうな弱音の柔らかな響きで始まる。
高音の澄み切った音色がとても美しいフーガ。
ベートーヴェンではなくバッハを聴いている気がしてきた。
徐々に生気を帯びていくが、テンポはそれほど速くはならないし、フォルテにはなっているが力強さはない。
フィナーレに入る前直前に、両手が交差して弾く数小節には、フィナーレを迎えるまえの軽やかさはない。
逆にとても滑らかなタッチで、余韻を長く残していて、この響きがとても美しく、まるでコラールのよう。

フィナーレに入ってもテンポはほとんど変わらない遅さ。曲自体に推進力があるのに、どうしてこんなに遅く弾いているのだろうと思えるほど。
フォルテで弾いてはいるが、強い意志の感じられるフォルテではない。
ここは力強さや歓喜の気持ちが溢れている旋律のはずだけれど、ギレリスのピアノには心から湧き上がるような生気に溢れた喜びや高揚感はない。
あからさまな歓喜はなくても、慎み深く控えめな喜びや明るさがないとはいえないけれど、それはもう運命を受け入れるしかないといった諦めの境地から照らされているかのようである。
なぜこんなに哀しげに弾くのかと思うほど、哀しさで満たされた明るさがある。

この演奏を聴いてからは、どうしてギレリスはこんな弾き方をしているのだろう、ギレリスなら最後のピアノ・ソナタ第32番をどう弾いただろうかと考えずにはいられなくなってしまった。

tag : ベートーヴェン ギレリス

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すばらしい
こんばんは。
医療過誤ですか。ギレリスの69歳での逝去は早いです。せめて32番を残してくれたらとは、まったく同感です。
芸術家にとってこれから総仕上げのときだったのに。。
祈りのような
ポンコツスクーター様、こんばんは。

急逝したのは、てっきり持病が悪化したからだと思っていました。
リヒテルの証言では、医療過誤が原因なのですが、社会主義国だったので、そういうことは公にしなかったのでしょう。

ギレリスの31番ソナタの演奏は、一心不乱に祈りをささげているようでもあり、まるでその来るべき運命を予感していたのかも....と思うような気がしてくるほどです。
おっしゃる通り、29番を録音した後に、一体何があったのでしょうね?
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クラシック音楽に本と絵・写真に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭、ハルバースタム、アーサー・ヘイリー
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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