ジュリアス・カッチェンにまつわるお話
2008.12.15 20:09| ♪ ジュリアス・カッチェン|
ジュリアス・カッチェンは42歳の若さで亡くなったアメリカ人ピアニスト。
カッチェンの伝記を探したけれど、書籍としてまとまったものはなく、一般に知られているプロフィールは簡単なもので、DECCAが公表している資料が主な情報源になっている。
アラウ、ゼルキン、ルービンシュタイン、リヒテルといったキャリアの長い巨匠クラスのピアニストなら、日本語や英語版の伝記・映像記録が入手できるけれど、早逝したピアニストの伝記となるとなかなか見つからない。
それではちょっと淋しい気がしたので、公開資料をもとにカッチェンについてまとめてみました。
生い立ち
1926年8月15日、米国ニュージャージー州ロング・ブランチで生まれる。父方の祖父の名と同じJuliusと名付けられた。
彼の家庭は音楽一家で、ロシアから移民した母方の祖父母(Mandell Svet&Rosalie E Parsonnet Svet)はモスクワとワルシャワの音楽院で教鞭をとっていた。
父方の祖父母(Julius Katchen&Nettie Katchen)も移民だった。祖母Nettieの父はロシアの詩人Isaac Rabinowitz。欧州のギムナジウムを卒業したNettieはプロではないが優れたピアニストだった。
カッチェンの母Lucille Svet-Katchenはフォンテヌブローのアメリカ音楽院でイシドール・フィリップに師事、弁護士の父Ira Katchenは熟練したアマチュアヴァイオリニストでもあった。2歳年下の妹Rita(結婚後はRita Katchen-Hillman)もピアノとヴァイオリンを弾き、ニュージャージー学生オーケストラとオバーリン音楽院オーケストラ(オハイオ州)のコンサートマスターだった。
カッチェンは14歳までは自宅でピアノを練習しており、音楽家の家族から家庭で音楽教育を受けていた。カッチェンにピアノの手ほどきをしたのは母方の祖母Rosalie E Parsonnet Svet、理論を教えたのは祖父Mandell Svet。
カッチェンが1954年に初来日した際、帝国ホテルで行われた対談でこう話している。
「(母親だけでなく)祖母にも習いました。祖母はモスクワとワルシャワの音楽学校の先生でした。祖父も音楽理論の教授でした。ですからアメリカ育ちですが、私は実は伝統的なロシアの音楽教育をうけたわけです。私の家庭は、いわば私設のロシアのコンセルヴァトワールでした。」
「私が習ったのは、レシェティツキーの流派のメトードですが、個々のそれぞれ異なる性格、音楽性、肉体的条件を尊重し、洞察し、その自然な成長と待つという方法です。」
(出典:『TBS Vintage Classics/Julias Katchen』のブックレットに記載されている『音楽の友』1955年3月号の「<対談>カッチェンとの五十五分間」)
10歳でモーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」を Newarkの演奏会で弾いてデビュー。
そのことを聞いたオーマンディがカッチェンを招き、1年後にPhiladelphia Academy of Musicでフィラデルフィア管弦楽団と同曲を演奏。その1ヶ月後、ニューヨークのカーネギーホールで、バルビローリの指揮でこのコンチェルトを弾いたのだった。
NYタイムズはカッチェンの演奏について「11歳の少年にこれ以上望むことはできないだろう。」と賞賛した。その後、カッチェンはシカゴ交響楽団、デトロイト交響楽団とも共演し、ニューヨークでリサイタルも行い、天才少年として全米で知られるようになった。
12歳の時には、ニューヨークのタウンホールで初のリサイタルを行い、1939年7月には、Lewisohn StadiumでEfrem Kurtz指揮ニューヨーク・フィルハーモニックとシューマンの「ピアノ協奏曲」を演奏した。
学校生活
14歳までは自宅で祖父母から音楽を学んでいたが、カッチェンの父は、まず正規の教育をきちんを受けるべきで、ピアノが優先されてはいけないという考えを持っていた。
カッチェンは音楽学校には行かず、普通の公立高校(ロング・ブランチ・ハイスクール)からベンシルベニアのハヴァフォード大学(Haverford College)に進学した。ハヴァフォード大学は、名門リベラル・アーツ・カレッジ群のリトル・アイビーの一校。カッチェンは1946年卒。
大学では、哲学と英文学を専攻し、学生自治活動(student politics)にも関わっていた。大学3年生のときには、”Phi Beta Kappa”(ファイベータカッパクラブ:成績優秀な大学生・卒業生から成る米国最古で最も有名な友愛会)のメンバーに指名された。(※クラブのメンバーになることは米国の大学生にとっての最大の栄誉だという。)
ピアニストとしての活動を(ほぼ)休止し、一般大学で学生生活を送ったことついて、カッチェン自身は、”知的好奇心を育ててくれたことで、レパートリーとしてより精神的な面でチャレンジングな作品への関心を持つようになった”と言っている。
カレッジ時代でのピアノの教師はデイヴィッド・サパートンだけだった。(※デヴィット・サパートン(1889-1970)は、ゴドフスキーの娘婿でブゾーニにも師事したヴィルトオーゾ系ピアニスト。ボレットが師事していた。)
カッチェンは、学業のかたわら、キャンパスでは定期的にリサイタルを行っていた。1944年12月には、カーネギーホールでリサイタルを行っている。
1946年にカレッジの4年課程を3年間で終え哲学の学位をとり、首席で卒業。この優秀な学業成績によって、フランス政府から奨学金を得て、1946年にパリへ留学(※音楽留学したのではない)。
ピアニストとしてのキャリア
パリに到着した1946年の秋、米国代表としてENESCOフェスティバルで演奏するよう要請され、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番<皇帝>」をクレツキ指揮フランス国立放送管弦楽団の伴奏で演奏し、放送された。その3日後、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」、1週間後には、シューマンの「ピアノ協奏曲」を演奏。
このフェスティバルでは、11日間で7回のコンサートで演奏して注目され、同世代の中でも最も優れたピアニストの一人として、瞬く間に広く認めらるようになった。
この演奏会を機に、欧州での演奏会の膨大なオファーが舞い込むことになり、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」をNice Opera Houseで弾き、2月にはパリでリサイタル・デビュー。1947年春に、欧州各国の首都9都市(ローマ、ベニス、ナポリ、パリ、ロンドン、ストックホルム、コペンハーゲン、チューリヒ、ザルツブルク)でリサイタルと演奏会を行った。4月にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と、5月にはオットー・クレンペラーと共演。その年の終わりには、アメリカツアーを開始。
その頃までに、パリを拠点として欧州で頻繁に演奏活動を行っているが、米国で演奏することはそれほど多くはなかった。
米国でも定期的に演奏活動を行ったが、彼はパリに永住した。1956年には、Arlette Patouと結婚している。
カッチェンが米国に戻らなかったのは、職業上の理由といわれており、カッチェンは「米国では音楽学生同士は建設的な関係にあって友人同士でさえある。お互いのコンサートに行っては誉めあう。パリでは、コンサートへ行くのは同僚ピアニストの失敗や欠点を探しにいくためだ」とインタビューで話していた。
(※これは定説のようだが、カッチェン自身はインタビューで「私は欧州の音楽院の雰囲気(環境)についてかなり不健全なものを感じています。」と話している。詳しくは後述の「米国と欧州の音楽環境の違い」を参照)
カッチェンの通常の演奏活動は6カ国に渡っていた。カッチェンは1シーズンに100回以上のコンサートで演奏するエネルギッシュなピアニストだった。アテネでは3週間の間に12回のリサイタルを行ったことがある。
彼の主要レパートリーは、ベートーヴェン、ブラームス、それに、ロシアのヴィルオソーゾ作品。演奏活動の初期の頃は、チャイコフスキー・プロコフィエフ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲」やバラキエフのイスメライ、ムソグルスキーの「展覧会の絵」などの独奏曲をよく弾いていた。
カッチェンは、大規模なプログラムを好み、ロンドンのロイヤルフェスティバルホールのコンサートでは、一晩でベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」、ブラームス「ピアノ協奏曲第2番」の3つのコンチェルトを演奏。
※並外れた体力・集中力・持続力が要求されるので、今では(おそらく当時も)こんなプログラムを組むピアニストはまずいないと思う。
1960年10月23日には、ロイヤルフェスティバルホールのリサイタルで、シューベルトの「ピアノ・ソナタ第21番」、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」を弾いた後で、アンコールとしてベートーヴェンの「熱情ソナタ全楽章」を弾いた。
※計算すると全部で2時間以上は弾いていたはず。それも大曲ばかり。アンコールで熱情ソナタを全楽章弾くピアニストも珍しい。
1964年4月12日~22日にロンドンのウィグモアホールで行った4回のリサイタルで、ブラームスのピアノ独奏曲の全曲連続演奏会を行った。同じプログラムをケンブリッジ、ニューヨーク、ベルリン、アムステルダムでも演奏している。独奏曲、協奏曲、ピアノを含む室内楽作品全曲の連続演奏会をベルリン、ロンドン、ニューヨーク、ウィーンなどで開催するというほど、ブラームス作品への取り組みには並々ならぬものがあった。
カッチェンは日本の骨董品である「根付」蒐集に情熱的とさえいえるほど熱心だったが、それと同じように、音楽に対する情熱と興味は尽きることはなく、決して限られた作品に通じたスペシャリストであろうとはしなかった。
ブラームス、ベートーヴェンからガーシュイン、プロコフィエフ、ラフマニノフ、バルトークまで彼のレパートリーはひろがっていき、イスメライを弾いたときは、”腕が4本あるのではないかと思っても許されるだろう”と新聞で評された。
カッチェンが共演した指揮者は、アンセルメ、ベーム、ショルティ、クーベリック、ヨッフム、クレンペラー、モントゥー、クリュイタンス、ベイヌム、ケルテス、アルヘンタ、フェレンチク、コンヴィチュニー、ミュンヒンガー、マーク、ブリテン、フィストゥラーリ、ボールト、ケンペ、ガンバなど。
若かったことと演奏活動で多忙だったせいか弟子はほとんどとらなかった。唯一の弟子と言われているのが、パスカル・ロジェで、およそ2年間カッチェンの元で学んでいる。
また、ジャン=ロドルフ・カールス(Jean-Rodolphe Kars,1947年生])カッチェンに師事していたらしい。カールスはインドのカルカッタで生まれたオーストリア人。リーズ国際コンクール(1966年)とメシアン国際コンクール(1968年)に入賞。1977年にカトリックに改宗し、宗教の道に進むため、コンサートピアニストとして公式な演奏活動を1981年を最後に終了。1986年に司祭となったという異色のピアニスト。カールスは、1958年~64年の間パリ音楽院に在学し、カッチェンの元でも学んでいた。
それに、「ハンガリー舞曲集」で連弾していたピアニストのジャン=ピエール・マルティは、実はカッチェンの弟子(pupil)だったという。
カッチェンは、ヨゼフ・スーク、ヤーノシュ・シュタルケルと演奏した室内楽でも、ピアノ伴奏者として優秀だった。それは、室内楽であれ協奏曲であれ、彼のパートナーの音色に合わせた弾き方ができるというカメレオンのような変幻自在なところがあったからである。
1961年、1966年にプラドで開催された「カザルス音楽祭」では、カザルスやオイストラフの伴奏者をつとめていた。
当時、カッチェンは”あまりに急ぎすぎる”、”衝動的に(情熱に駆られてともいえる)突進する”とずっと批判されていた。
これに対して、編集者のジェレミー・ヘイズは「それほどに音楽的な衝動に突き動かされてピアニストが弾いているのを聴くことができるというのは、驚くべきことだ」と言っている。
※確かに、チャイコフスキーやラフマニノフの「ピアノ協奏曲」では、カッチェンが突進(rush)しているのが良くわかる。カッチェンの演奏は理知的なアプローチだと言われたりするが、いろんな演奏の録音を聴いていると、かなり感情が嵩ぶって弾いているところも少なくない。感情(激情)と理性との間を絶えず行き来しつつバランスをとりながら弾いているという感じの方が強い。
※1968年録音のベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第32番」第2楽章第3変奏でも何かに駆られたように速くなっていく。その数ヶ月後に録音したプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」では、曲が白熱してくるとテンポが速くなりはするが、以前の突進するようなことはなく、完全にテンポ(と自分自身)をコントロールするようになっていた。
彼の音楽への興味は、ヴィルトオーゾ的だとか爆発力がある(volatile)かというものさしでは、推し量ることができないものだった。
イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは自作のオーケストラとピアノのための変奏曲<Diversions>を録音するために、ソリストを特にカッチェンに依頼した。その曲のもつ多くのひらめきを表現するのに、カッチェンは理想的にふさわしいピアニストだと思えたからだった。
彼が弾いた米国の作曲家コープランド、フォス、ローレムの曲も、カッチェンの並外れた感性が光る演奏である。(その3人の作曲家の作品で録音が残っているのは、ローレムの「ピアノ・ソナタ第2番」)
カッチェンはプラハ音楽祭でも度々演奏していた。確実にわかっているだけでも、1955年にバッハのコラール前奏曲「深き苦しみの淵より、われ汝に呼ばわる BWV686」、ベートーヴェン「ピアノソナタ第32番」、ブラームス「ピアノ・ソナタ第3番」、メンデルスゾーン「アンダンテとロンド・カプリチオーソ」、ムソルグスキー「展覧会の絵」、、1966年にピエトロ・アージェント(アルヘンタとも読める)指揮プラハ交響楽団の伴奏でモーツァルト「ピアノ協奏曲第23番」、1968年にスークの伴奏者としてブラームス「ヴァイオリンソナタ」全曲、ノイマン指揮プラハ響の伴奏でベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」を演奏している。
モーツァルト「ピアノ協奏曲第23番」はライブ録音CDが残っている(CDはすでに廃盤)。
吉田秀和氏の著書『世界のピアニスト』(新潮文庫)では、「フライシャー、ジャニス、カッチェン、イストミン」という章がある。若手のアメリカ人ピアニストを取り上げたもので、カッチェンついて”すばらしいピアニスト”と評している。
吉田氏は、1967~68年にベルリンに滞在していた頃に、マゼール指揮ラジオ・シンフォニー・オーケストラの伴奏でカッチェンが弾くラフマニノフの「パガニーニのテーマによるヴァリエーション」を聴いたという。ラフマニノフの曲はあまり好きではなかったせいか、ちょっともたれてしまったそうだが、若手のアメリカ人ピアニスト4人のなかでは、テクニックが一番良く、音量もたっぷりあり立派な演奏だったという。
1968年12月11日、ザ・ローリング・ストーンズが企画し豪華ゲストを迎えて制作された「ロックン・ロール・サーカス」で、カッチェンはファリャ「火祭りの踊り」とモーツァルト「ピアノ・ソナタ第15番」第1楽章を弾いている。
カッチェンが最後に行った公開演奏は、1968年12月12日、ケルテス指揮ロンドン交響楽団の伴奏によるラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」を弾いたコンサートだった。
この演奏会から約4ヵ月後の1969年4月29日、カッチェンは肺ガンのため42歳の若さで亡くなった。
録音
ピアニストとしての活動が20年ほどと短かったけれど、レパートリーは幅広く数多くの録音を残している。
再録音した曲もかなりあり、(ブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」「ヘンデルバリエーション」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」など)
録音した作品は、ベートーヴェン、ブラームス、リスト、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、グリーグ、シューマン、モーツァルト、ショパン、ラヴェル、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ムソルグスキー、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ブリテン、ローレム、ファリャ、バッハ(ヘス編曲)など。(ライブ録音には、ドビュッシー、バッハの作品もある)
キャリア後年では、主要なドイツロマン派音楽がレパートリーの多くを占めるようになっていったが、キャリア初期では同時代音楽の擁護者(champion)だった。
しかし、"musique concrète"(現代音楽の一様式)のようなものに対しては、理解することができなかった。「どうして醜い音を作り出したり、不快なもの(nastiness)に集中し続けなければいけないんだ?」と言っていた。
同時代の作曲家のなかでは、本当に親近感を持っていた作曲家もいた。
カッチェンはブリテンをとても称賛していた。ブリテン自身の指揮で「ディバージョンズ」を録音するために、ブリテンが特にソリストにカッチェンを指名したとき、カッチェンはブリテンにさらに「ピアノ協奏曲」を作曲するよう説き伏せたのだった。
同時代の米国人作曲家(コープランド、フォス、ローレムなど)の作品も多数初演しており、欧州ではガーシュウィン「前奏曲」とバルトーク「ミクロコスモス」を初めて演奏した。
戦後パリに住んでいたアメリカ人作曲家のネッド・ローレムとは、「ピアノ・ソナタ第2番」を初録音して以来、友人となった。カッチェンをソリストとしてローレムが作曲した「ピアノ協奏曲第2番」もカッチェンがパリで初演している。
ica盤ライブ録音集のブックレットで、カッチェンのピアニズムを次のように評している。
カッチェンの技巧については、chrome-platedであり、太刀打ちできないほど冴えていた。1950年代は、何よりもスピードを追求していたために、ある種の詩的なものが欠けて音楽性が乏しく、パワフルで明快な演奏といえる。後年になると、シューベルトの最後のソナタやベートーヴェンのディアベリ変奏曲のような偉大な作品に対して、哲学的な観点から熟考したカッチェンの解釈が注目される。
彼の生涯が終わりへと向かっていたが、カッチェンはブラームスの音楽の深さに気がつき始めた。もし、彼がガンで42歳の若さでこの世を去らなければ、音楽的により深い解釈者へと深化していたかもしれない。しかし、カッチェンが聴衆に人気があり、彼の録音の多くはベストセラーとなっていたことは否定できない。ブラームスのピアノ・ソナタ第3番で、ピアノソロのLPレコードでファーストチョイスの演奏家であったのは間違いない。
一番最初の録音(DECCA)は、1949年、彼が23歳の時に弾いたブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」。
DECCAが、カッチェンが20歳になる前にすでに契約をしていたというのは驚き。(カッチェンは、飛び級で普通よりも早く大学を卒業した)
この時の録音を担当したのは、かの有名なDECCAのプロデューサー、ジョン・カルショー。このほかにもカッチェンの録音を担当していた。 (※こんなところでカルショーの名前が出てくるとは予想外だった。カッチェンとカルショーとは家族ぐるみの付き合いがある友人同士だったそうで、カルショーの自伝でもカッチェンに関するエピソードが何回か登場する。)
その後はブラームス以外の作曲家の録音も多かったが、ブラームス作品全集の録音には、再録を含めて約9年間をかけて取り組み、1965年にブラームスのピアノ独奏曲全集の録音を完成させた。この全集の評価は高く、カッチェン=ブラームスのスペシャリストというイメージが定着した。日本人評論家では吉田秀和氏が、「これはとても良い演奏です。じつにりっぱなもので、(中略)、技術も内容も、ともに整った名演です」と評している。
この他のブラームス作品の録音には、「ピアノ協奏曲第1番・第2番」、「ヴァイオリン・ソナタ全集」(Vn:スーク、ロッシ(1番は未録音))、「ピアノ三重奏曲全集」(Vn:スーク、Cello:シュタルケル)が残されている。
シュタルケルは『ヤーノシュ・シュタルケル 自伝』(原題:The World of Music According to Starker)で、カッチェンとの出会いと録音のことを回想している。
カッチェンとシュタルケルが初めて出会ったのは1948年のパリ。シュタルケルがパリを離れる準備をしているときに、(哲学を専攻し大学を飛び級で卒業後、フランス政府の奨学金を得た)カッチェンがパリへ移ってきたのだった。
1966年にシュタルケルがマーキュリーとの独占契約を解消し、アディロンダック音楽祭の創設に関わっていた頃、カッチェンがシュタルケルを訪ねてきて、一緒にブラームスのピアノ室内楽を録音しないかと提案。シュタルケルが呼吸が合うかどうか試してみようと答えたので、数ヵ月後、シュタルケルが演奏会をしていたロッテルダムにカッチェンがパリからやってきて、チェロソナタを一緒に弾いてみた。それから彼らのブラームスの室内楽録音計画がスタート。
2人は1968年にオールドバラでスークと出会い、ロンドン公演のあとに、ブリテンがオールドバラに建てたコンサートホールでブラームスの「三重奏曲全集」を録音した。そのとき、彼ら3人はブリテンとピーター・ピアーズとともに楽しい一夜を過ごしたという。
カッチェン、スーク、シュタルケルのトリオが行ったピアノ三重奏曲の録音を機に、各地の音楽祭や南アフリカ共和国(シュタルケルは1959年にアフリカ大陸の数カ国でコンサートツアーをしたことがある)などから、山のように演奏依頼がやってきたという。
このトリオとして引き続き、1969年春にブラームスの「ピアノ四重奏曲」・「ピアノ五重奏曲」の録音と、「チェロ・ソナタ第1番」の再録を開始する予定だったが、4月にカッチェンが急逝したため、この計画は実現しなかった。
カッチェンとシュタルケルは、すでに「チェロ・ソナタ第1番」と「チェロ・ソナタ第2番」を録音していたが、リリースされているのは第2番のみ。再録音できなかった第1番は公開されていない。
※スークとシュタルケルは、ブッフビンダーを新たにピアニストに迎えて、トリオ演奏活動を続けた。
2016年9月にリリースされた『ジュリアス・カッチェン/DECCA録音全集』には、ブラームスの「クラリネットソナタ第1番&第2番」の未公開録音が収録されている。ヴァイオリニストのThea Kingが、同曲をNina Milkinaと録音してから5年未満だったため、契約上リリースできず、そのままお蔵入りとなっていたもの。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲などの録音を担当したプロデュサーによれば、カッチェンは、スタジオ録音であっても、各楽章は1つの曲としてまとまったものであるべきだという考え方だった。そのため、スタジオ録音でもほとんど編集をしていなかった。
ベートーヴェンの代表作品を立て続けに3曲と「ディアベリ変奏曲」のような複雑な曲を録音するのに要したのは、3時間の録音セッションが2回足らずだった。
カッチェンは、1961年に東欧からウィーンへ回る演奏旅行中に、ウィーンでハチャトリアンの「ピアノ協奏曲」を作曲者自身の指揮で録音する予定だった。ところが、東欧滞在中にカッチェンが政治的な発言(ベルリンの壁を非難した)をしたために、ソ連当局がこれを中傷と受け取り、ハチャトリアンにカッチェンと共演することを禁止した。結局、ハチャトリアンは録音予定をキャンセルし、「ピアノ協奏曲」の録音は実現しなかった。
1968年11月に、ケルテス指揮ロンドン交響楽団の伴奏により、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」をスタジオ録音をしている。このラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」が、カッチェンが残した最後の録音となった。
パーソナリティ
子供の頃のカッチェンは優れた水泳選手であり卓球選手でもあった。ピアノの練習をしていないときは庭で野球をするのが大好きだった。
※カッチェンのタッチは力強く、音量も大きいし、指回りも抜群に良い。難曲のコンチェルトを一晩に数曲演奏するほどのスタミナもある。それはこの運動能力の高さと頑強な体力によるものではないかと思う。
※カッチェンは、英語のほかフランス語、ドイツ語など全部で4ヶ国語を話すことができたらしい。カルショーも自伝で、カッチェンは数ヶ国語が流暢に話せると書いていた。
カッチェンの親しい友人で、戦後の一時期カッチェンと同じパリで暮らしていたピアニスト仲間のゲイリー・グラフマンは、カッチェンと一緒にいるのは、まるで川の急流のなかに立っているようだった、と喩えていた。
「カッチェンは、彼の想像力をかきたてるものなら、どんなものに対しても、情熱と莫大なエネルギーを注いでいた。一緒にいる人間は必ずそれに押し流されてしまうんだ。彼の情熱のもつエネルギーにみんなが感染していったよ。」
カッチェンはレコーディングが好きだったが、スタジオ録音の時でさえ、自然に熱情や興奮が湧き上がってくるといううらやむべき才能があった。
グラフマンはカッチェンと一緒に、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の録音でピアノを弾いていたこともある。
1980年代に、グラフマンはあるインタビューの中で、カッチェンを最も好きなピアニストの一人にあげている。特にカッチェンのブラームスが大好きで、彼が残した数多くの録音のなかでも、カッチェンの貴重な遺産というべき演奏だと言っている。(『ピアニストとのひととき(下)』より)
録音を担当したDECCAのプロデューサーはカッチェンについて、「いつも大きな笑顔を浮かべ、エネルギッシュで社交的だった。陽気で誰からも愛される性格で、自己中心的(egocentric)なところがあるが、それがとても魅力的だった」と言っている。
カッチェンのスタジオへ行ってみると、何年も弾いていなかった曲を新たに練習し、電話で演奏会の打ち合わせをし、メイドに部屋掃除の指示を与え、何千個もの骨董品の「根付」を手入れし、彼の膝の上で動き回っている子供を優しくあやしていたという、実に多忙でエネルギッシュな日常だった。
カッチェンは1956年にLe Vesinet出身のAriette Patouxと結婚した。彼らは熱心で辣腕の根付収集家だった。
彼らの根付コレクションのうち195点がロンドンのサザビーズで2005年11月8日と2006年7月13日にオークションにかけられ、総額120万ポンド(220万ドル)で落札された。
2016年と2017年には、さらに392点がBonhamsのオークションで総額230万ポンド(300万ドル)で落札された。特にカッチェンのお気に入りだった牙中作”Shaggy dog and pup”(牙中[げちゅう/Gechu]は18世紀の有名な根付師)の落札価格22万1千ポンドは、根付オークション史上2番目の高値だった。
音楽でもそれ以外のことでも、彼は競争心や嫉妬には全く無縁だった。カッチェンは自分自身の弾き方が好きだったし自信を持ってはいたが、リヒテルとギレリスが彼の理想とするピアニストだった。
プロデューサーのカルショーは、DECCAの専属ピアニストの中で、「カッチェンは嫉妬心とは一番無縁」なピアニストだと言っていた。
彼はただ単に音楽をすることを愛していた。音楽を生み出し、音楽をつくり続けていくことだけを望んでいた。彼は毎日12時間練習し、コンサートで年に100回以上ピアノを弾いていた。膨大な量の音楽に取り組むことこそがまさに彼の喜びとするものであり、決して飽くことがなかった。
彼はピアニストとしての謙虚さも持っていた。コンサートでの演奏が上出来だったときは、翌日友人のグラフマンに「昨日のコンサートの演奏は素晴らしかったよ!」と、朝食のテーブルで、誇らしげに事細かにコンサートの様子を話していた。演奏の出来が悪くて納得がいかなかった時は、「絶望的に酷かった!」と意気消沈して、グラフマンにどこがどう悪かったのか、また同じように順々と細部にいたるまで話したのだった。
プロデューサーのRay Minshullの回想では、カッチェンがリラックスできる唯一の姿勢は、椅子に座ってピアノの鍵盤へ腕を伸ばしているとき。
公開演奏を愛する天性の”showman”(舞台人)だったが、スタジオ録音でも大抵はくつろいで(at home)、強い集中力のおかげで長時間の録音も平気だった。
しかし、「Encore集」の録音では、カッチェンが思っていたほどにスムーズには進まなかった。「スタジオ録音の冷静さのなかでは、大成功したコンサートの最後にアンコール曲を次から次へと弾くような雰囲気や気持ちに達することは、不可能だった。とうとう諦めて、友人30人に来てもらって、多少なりともライブを行い、1時間が過ぎて聴衆が盛り上がった頃には、いつものようにアンコール曲を弾く用意ができたのだった」
米国と欧州の音楽環境の違い
1962年11月18日付New York Timesに掲載された音楽評論家Alan Richのインタビューで、カッチェンは米国と欧州の音楽教育やコンサートピアニストとしてのあり方の違いについて、語っている。(出典:audite盤CDのブックレット)
カッチェンは米国人生まれの米国育ちなのに、欧州でピアニストとしての存在感と名声を確立したけれど、米国では15年もの間、演奏舞台には姿を見せなかった。
「(長らく米国で演奏することがなかったのは)、むしろ、どこで(演奏する)機会があるのかという問題です。私は、ここ(米国)で受けた教育を欧州で受けることはできませんでした。しかし、実際のキャリア形成という点になると、米国よりも欧州の方がより多くのもの-演奏会の日程(concert dates)のオファーやより良く成長するための環境-を提供してくれたように思えます。」
「今日の米国は、ピアニストにとって世界中でもっとも優れた教育を提供しています。ヒトラーのせいで、偉大な教師たちが30年代に渡米し、今でもその多くが米国に残っています。私は、欧州の音楽院の雰囲気(環境)についてかなり不健全なものを感じています。学生たちにあまりにも多くの競争心を植え付けています。コンクールというのは、学校で行われている賞を競う競技会で、全ての学生たちの頂点に一人のピアニストが上り詰めるものですが、これが学生たちのなかに不健全な態度を生んでいます。
米国では、ピアニストはともに成長するようにまとまっており、友人同士にさえなれるのです。誰かが他の学生の演奏会に行くと、喝采します。パリでは、他人の演奏を聴きに行くのは、自分の首を絞める(失敗する)ところ見ることを期待しているからです。」
(※意外なことは、"カッチェンが欧州を拠点に演奏活動を続けたのは米国の音楽界の雰囲気に否定的だったから"という定説とは違うこと。それとは逆に、欧州の音楽院のドライな競争的雰囲気は不健全で、友人同士にさえなれる米国の音楽院の方がむしろ健康的だと思っていたようだ)
「米国では、学生はピアノ教育の偉大な伝統に加わることができます。ロシアのヴィルトオーソの伝統は、ホロヴィッツのようなピアニストが体現しています。また、ゼルキンは室内楽に重きを置きつつ、古典的なドイツ的アプローチを明らかにしています。米国人ピアニストの多くは、私自身を含めて、両者のアイデアを個人的に組み合わせています。」
「しかし、欧州で教育を受けてしまえば、演奏家は自己表現(実現)する機会にずっと恵まれています。演奏会の日程やレパートリーのために競争することは米国よりも少ないのです。例えば、昨シーズン、私は24の協奏曲と10種類のリサイタルプログラムで演奏しました。米国では、マネージャーからのプレッシャーのために、もっと少ない数の曲を頻繁に弾くように、かなり制限されることになるでしょう。」
「米国では、都市や町へやってくるときには、soup-to-nuts(幅広い)プログラムにすることと、聴衆が理解できない曲を演奏しないよう注意することを勧められます。マネージャーは常に聴衆を過小評価しています。欧州の聴衆の場合は、ずっと洗練されていると信頼されています。さらに、演奏家の成長にとってとても重要なことですが、欧州では同じ都市に何度も演奏しに戻ってくる機会がずっと多いのです。それにより、自分自身の聴衆を作りあげ、徐々により難しいプログラムを提供することができるのです。」
「米国の演奏家は、欧州でよく演奏しているプログラムの種類を批判されています。バッハからブーレーズに至るまでざっと見渡したようなプログラムのことです。欧州の聴衆は演奏家が本当にぴったり合っている(close)と感じるものを表現する特化したプログラムを好みます。たとえば、私はオール・ブラームス・リサイタルをドイツでずっと行ってきましたが、それは成功しています。今、ブラームスのピアノ作品全てをロンドンレコードで録音しているところですが、ここでもそのシリーズを演奏したいと思っていますし、聴衆はコンサートにやってくると思います。しかし、眉をひそめて、”バッハの作品はどこにあるんだ?”、”なんてことだ、ショパンがない!” そういうものです。私が言っているのは、聴衆のことではなくて、マネージャーのことです。」
「しかし、私が”expatriate”(故国を捨てた)と呼ばれることを拒否する理由でもあるのですが、ニューヨークに戻って来たことに大きな喜びを感じています。米国でのキャリアが欠けていることは、私が不完全なのだと感じさせられます。私には、故国が認めてくれること(approval)が必要なのです。確かに、私はすでに名声を得て(established)います。自分の街のタウンホールでデビューする若手ピアニストの”オール・オア・ナッシング”という感情をもって、今週のフィルハーモニックとの演奏会に臨んでいるわけではありません。しかし、米国が、私にとっては存在していないのだというふりをするのは、それと同じくらいに不合理でしょう。」
エピソード
リヒテルが1960年に鉄のカーテンを超えて初めて西側を訪問後、西側のレコード会社へのレコーディングをソ連当局が許可するらしいという話が持ち上がった。
1961年にリヒテルがパリに滞在中、欧米のレコード会社の代表たちは、リヒテルとの面会を求めて滞在先のホテルへ殺到していた。リヒテルには、滞在中の街で姿を消すことがあるという妙なクセがあった。この時もリヒテルが行方不明になって、ソ連の随行員たちは右往左往。
その晩、デッカのプロデューサーであるカルショーは、非常に親しい友人でもあるカッチェン夫妻宅へ寝酒を飲みに入った。そこでピアノの前に座っていたのは、「天使のようにブラームスを奏でていた」リヒテル。カッチェンは数ヶ国語を流暢に話せたので、リヒテルもコミュニケーションがとれて、とてもくつろいだ様子だった。
(出典:ジョン・カルショー著『レコードはまっすぐに』)
1962年、東ベルリンと東ドイツで予定されていた12公演のコンサートツアーをキャンセル。その報復措置として、ソ連の作曲家ハチャトリアンはウィーンで予定されていたカッチェンとの録音予定をキャンセルした。カッチェンは、その1年前にハチャトリアンの指揮で東ベルリンで協奏曲を演奏していた。コンサートツアーをキャンセルした理由は、演奏会を行うことはカッチェンが”東ドイツの共産主義体制を認めたことになり”、プロバガンダのために利用されるということを学んだからだという。
(出典:meloclassic盤CDのブックレット)
当時、悪名高いアパルトヘイト(人種隔離政策)を取っていた南アフリカ共和国でのコンサートでの、カッチェンの率直さ(directness)を物語るエピソード。
”champion of the underdog”(弱者のために戦う人)カッチェンは、ケープタウンのSoweto township(ソウェト/非白人居住地域)で無料のコンサートを行うと主張したことが、南アフリカ政府の連中の癇に障った。南ア政府は、カッチェンがコンサートのために搭乗する予定だった国有の南アフリカ航空のケープタウン-ヨハネスブルク行のフライトをキャンセルしたが、カッチェンは後続の飛行機に搭乗して彼らの企みを妨害した。カッチェンがコンサート会場に現れると、いつも”白人限定”のイベントに参加することを禁止されていた聴衆から鳴り響く拍手で歓迎された。
別の演奏会では、ケープタウンのシティホールの舞台上に歩み寄って、この街はこの”heap of trash”(ぽんこつ)よりももっと良いピアノがふさわしいと宣言し、50ポンド紙幣をピアノの上にぴしゃりと置いて、”あなた方の街にふさわしいピアノを購入するための基金を始めるために”と言った。
(出典:『ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集』)のブックレット)
1959年、中国人の若手ピアニストであるフー・ツォンが、留学先のポーランドから英国ロンドンへ亡命する。フー・ツォンは第5回ショパンコンクールでアジア人初の第3位に入賞し、その後東欧で演奏活動をしていた。当時、共産主義政権下の中国では思想改造運動が盛んで、ポーランドの音楽院を卒業後農村労働に従事するよう中国政府からフー・ツォンに召還命令が出たため、彼は悩んだ末に亡命を決意する。
8歳年下の中国人ピアニストの音楽性を高く評価していたカッチェンは、彼のロンドン亡命に際して、旅費やロンドンでの生活を援助したという。
(出典:森岡葉著『望郷のマズルカ ― 激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』)
ピアニストで音楽理論家・批評家でもあるチャールズ・ローゼンが語っている珍しい逸話。
「カッチェンはステージに上がると聴衆のなかの任意の一人に目標を定め、その人のために弾いたと言われる。これは心理的刺激にすぎず、美的陶酔と性的興奮とを混同している。もしこの選ばれた一人が他の聴衆よりも演奏を堪能したとしたら、カッチェンは狼狽したにちがいない。」
(出典:ローゼン著『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』)
17歳~20歳の時にカッチェンに師事していたパスカル・ロジェが、カッチェンとの思い出を語っている。
ロジェが17歳の時、カッチェンに初めて自分の演奏を聴いてもらうと、「君はテクニックがありすぎるね」と言われたという。カッチェンがロジェにアドバイスしたことは、「ピアノから離れなさい。ものを考えたり、本を読んだり、美術館で絵画を見たり、芸術、文学、哲学・・・色々なものを受け入れて視野を広げることも大事ですよ。1日10時間もピアノの前で練習していたら、他のものに対する好奇心を失ってしまう。音楽はピアノの前で考えるだけでなく、人生を知ることでもあり、他人の心情に思いをはせることでもあるのだから」
ある日先生(カッチェン)から「今面白い企画展が開催されているから、今日はレッスンの代わりにこれを見に行かないか?」と言われ、一緒に美術館に行ったこともあったそうだ。
(出典:ピティナ「香港国際ピアノコンクール(4)パスカル・ロジェ先生が語る10代の教育」)
1969年1月、ロジェがサル・ガヴォーでパリ・デビューコンサートを飾ったとき、カッチェンは次のような推薦文を書いている。
「パスカル・ロジェは生まれながらの自然なヴィルトゥオーソである。私はついぞ彼の技巧上の制約を発見できなかった」。カッチェンはさらにロジェの演奏の特色として「ロマン派的な高揚、驚くべきリズミックなヴァイタリティ、ビューティフル・サウンド、フランス人特有の詩趣」を挙げている。
(出典:ロジェ&デュトワ指揮モントリオール交響楽団『ラヴェル:ピアノ協奏曲』(DECCA・国内盤)のライナーノートより)
カッチェンが初めて弾く曲を習得するときは、最初は完全にピアノから離れて、楽譜を読み込んでいくのが習慣だった。「私がピアノに向かう時は、単に頭の中にある設計図(blueprint)を実現するだけなのです。」
カッチェンが米国の作曲家ネッド・ローレムの「ピアノ・ソナタ第2番」を演奏して以来、彼と友人となったローレムはこう回想している。
「カッチェンは光速のごとき素早さでたちどころに(楽曲を)習得してしまう能力と、悪名高いまでに驚くほど正確に記憶する能力を持っていた。それは、知的な記憶能力によるものではなくて、いってみれば直観をもつ指とでもいうものから来ている。彼の手が全て覚えているんだ。演奏旅行に行くときも、カッチェンは楽譜を全然持って行かなかったのを覚えているよ。楽譜は彼の頭の中にコピーされているのではなく、指先に写真のように写し取られているんだ。」
1968年12月、最後のコンサートでラヴェルのピアノ協奏曲を弾いた頃には、すでにガンに蝕まれており、健康状態は悪化していたが、カッチェンは決してそれに負けることはなかった。グラフマンは回想して「カッチェンは全力で病気と闘っていた。カッチェンは闘病生活を”まるでエロール・フリンの映画のフェンシングの試合のようだ”と言っていた。」
カッチェンは化学療法のためにロンドンに滞在していて、昼間は病院で治療を受け、夜は自宅でブラームスのピアノ曲全集を弾いていた。しかし、最後にはガンが彼を打ち負かしたのだった。
作曲家ローレムはこう言っている。
「驚異的な速さで習得していくカッチェンの並外れた能力が偶然の産物だと考えることは、天賦の才能というものは結局はその対価を支払わされるものだということを無視している。時としてその対価は恐ろしく高くつくものだ。カッチェンは本当に活発に動き回っていた。日中には12時間もピアノを練習し、その後に出掛けて我々友人とバーで酒を酌み交わし、翌朝も早起きして、同じような生活を繰り返していた。私にとって、カッチェンの限界を知らない興味と活力と、それに昼夜の別ない生活は、ボードレールのように、1度の人生でその3倍の人生を生きたということをまさに体現している。彼が4月に亡くなった時、カッチェンは42歳ではなく、126歳だったんだ。」
ジュリアス・カッチェンのディスコグラフィ
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備考
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【出典】
- DECCAが公表している英文および日本語資料(CDのブックレット等)
- ジョン・カルショー著『レコードはまっすぐに-あるプロデューサーの回想』(学習研究社,2005年)
- シュタルケル著『ヤーノシュ・シュタルケル 自伝』(愛育社,2008年)
- ディヴィッド・デュバル著『ピアニストとのひととき(下)』(ムジカノーヴァ,1992年)
- 吉田秀和著『世界のピアニスト』(新潮文庫,1983年)[現在はちくま文庫から<吉田秀和コレクション>として出版。ただし、カッチェンに関する章は未収録]
- 森岡葉著『望郷のマズルカ ― 激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』(ショパン,2007年)
- チャールズ・ローゼン著『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』(みすず書房,2009年)
- プラハ音楽祭ライブ録音CDのブックレット
- ica盤ライブ録音集CDのブックレット
- 『TBS Vintage Classics/Julias Katchen』のブックレット
- audite盤CD(ベルリンでの放送用録音集)のブックレット
- meloclassic盤CD(ヘッセンでの放送用録音集)のブックレット
- 『ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集』のブックレット
- プロフィール(thestore24.com)
- プロフィール(ml.naxos.jp)
- プロフィール(naxosmusiclibrary.com)
- プロフィール(en.wikipedia.org)
- プロフィール(alchetron.com)
- ”In Memoriam”(Department of Music at Haverford College)に掲載されているプロフィール
- ピティナ「香港国際ピアノコンクール(4)パスカル・ロジェ先生が語る10代の教育」
- ジャン=ロドルフ・カールスのプロフィール(en.wikipedia.org)
- 『Julius Katchen: Piano Recitals 1946-1965』のブックレット
- New Jersey Jewish News - October 21, 1976。カッチェンの祖母Nettie Katchenの追悼記事
- The Julius and Arlette Katchen Collection of Fine Netsuke(part1~part3)[Bonhams]
- Haverford News,1944.3.8"。ハヴァフォード入学後、Roberts Hallで3回目の学内リサイタル開催を知らせる大学ニュース
- ”Katchen Relaxes on Floor ” (ABC weeklyVol. 19 No. 6, 9 February 1957/by ARTHUR JACOBS, air Mail from London ) オーストラリアツアー予定の30歳のカッチェンに対して、ABC社記者がロンドンで行ったインタビュー記事。
【参考サイト】
ピアニスト内藤晃さんによる紹介記事
ピアニストの中川和義さんによるカッチェンのCD評
中川さんによれば、カッチェンは1954年に彼が28才の時に来日公演を行っていて、20歳代の、それもヨーロッパ以外のピアニストとしての来日は、初めてのことだったそうです。
アフリカ演奏旅行を終えて来日したので、アフリカと違って生水が飲め、ピアノの状態が素晴らしいと大変感激していたと回想している。アフリカツアーでは2ヶ月間で50回のコンサートを行っていた。
彼のピアノは、「健康で、小細工が無く、素直に音楽と対決し、管弦楽のような巨大な音響で、さすが大国アメリカの代表する若手」だと評している。ただし、活躍がすぎて、雑な演奏があったことは事実だとも指摘している。
音楽評論家の吉田秀和氏によるカッチェンのCD評
吉田秀和氏が『世界のピアニスト』(新潮文庫版)の「フライシャー、ジャニス、カッチェン、イストミン」という章のなかで、カッチェンについてこう評している。
「ブラームスのピアノ曲が全部入っているレコードをききましたが、これはとても良い演奏です。じつにりっぱなもので、ケンプなどとは傾向が違いますから、比較して論じるわけにはいきませんが、技術も内容も、ともに整った名演です。僕はいま生きているピアニストでブラームスを聴くのだったら、ゲルバーとカッチェンが一番良いと思います。」
「このレコードで弾いているブラームスの一番のピアノ・ソナタなどは、ほんとに面白く弾いている。『第三ピアノ・ピアノ』もそうですが、カッチェンの演奏で聴くと、『ピアノ・ソナタ第一番』など、こんなに面白い曲をどうしてみんなが弾かないのかと思うほどです。このソナタは緩徐楽章がほかのソナタに比べて、切れぎれですけどね。この人はほんとによいピアニストです。ベートーヴェンのピアノ曲だって、これだけの力があれば、りっぱに弾くでしょう。」
松本大輔著「クラシックは死なない!」
カッチェンのCDシリーズ『The Art of Julius Katchen』を詳しく紹介している。
カッチェンのお墓[Find a Grave]
カッチェンと父母・妹のお墓の所在と写真が載っている。
【記事作成・更新日】2008.12.15 作成-2022.6.10 更新
カッチェンの伝記を探したけれど、書籍としてまとまったものはなく、一般に知られているプロフィールは簡単なもので、DECCAが公表している資料が主な情報源になっている。
アラウ、ゼルキン、ルービンシュタイン、リヒテルといったキャリアの長い巨匠クラスのピアニストなら、日本語や英語版の伝記・映像記録が入手できるけれど、早逝したピアニストの伝記となるとなかなか見つからない。
それではちょっと淋しい気がしたので、公開資料をもとにカッチェンについてまとめてみました。

1926年8月15日、米国ニュージャージー州ロング・ブランチで生まれる。父方の祖父の名と同じJuliusと名付けられた。
彼の家庭は音楽一家で、ロシアから移民した母方の祖父母(Mandell Svet&Rosalie E Parsonnet Svet)はモスクワとワルシャワの音楽院で教鞭をとっていた。
父方の祖父母(Julius Katchen&Nettie Katchen)も移民だった。祖母Nettieの父はロシアの詩人Isaac Rabinowitz。欧州のギムナジウムを卒業したNettieはプロではないが優れたピアニストだった。
カッチェンの母Lucille Svet-Katchenはフォンテヌブローのアメリカ音楽院でイシドール・フィリップに師事、弁護士の父Ira Katchenは熟練したアマチュアヴァイオリニストでもあった。2歳年下の妹Rita(結婚後はRita Katchen-Hillman)もピアノとヴァイオリンを弾き、ニュージャージー学生オーケストラとオバーリン音楽院オーケストラ(オハイオ州)のコンサートマスターだった。
カッチェンは14歳までは自宅でピアノを練習しており、音楽家の家族から家庭で音楽教育を受けていた。カッチェンにピアノの手ほどきをしたのは母方の祖母Rosalie E Parsonnet Svet、理論を教えたのは祖父Mandell Svet。
カッチェンが1954年に初来日した際、帝国ホテルで行われた対談でこう話している。
「(母親だけでなく)祖母にも習いました。祖母はモスクワとワルシャワの音楽学校の先生でした。祖父も音楽理論の教授でした。ですからアメリカ育ちですが、私は実は伝統的なロシアの音楽教育をうけたわけです。私の家庭は、いわば私設のロシアのコンセルヴァトワールでした。」
「私が習ったのは、レシェティツキーの流派のメトードですが、個々のそれぞれ異なる性格、音楽性、肉体的条件を尊重し、洞察し、その自然な成長と待つという方法です。」
(出典:『TBS Vintage Classics/Julias Katchen』のブックレットに記載されている『音楽の友』1955年3月号の「<対談>カッチェンとの五十五分間」)
10歳でモーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」を Newarkの演奏会で弾いてデビュー。
そのことを聞いたオーマンディがカッチェンを招き、1年後にPhiladelphia Academy of Musicでフィラデルフィア管弦楽団と同曲を演奏。その1ヶ月後、ニューヨークのカーネギーホールで、バルビローリの指揮でこのコンチェルトを弾いたのだった。
NYタイムズはカッチェンの演奏について「11歳の少年にこれ以上望むことはできないだろう。」と賞賛した。その後、カッチェンはシカゴ交響楽団、デトロイト交響楽団とも共演し、ニューヨークでリサイタルも行い、天才少年として全米で知られるようになった。
12歳の時には、ニューヨークのタウンホールで初のリサイタルを行い、1939年7月には、Lewisohn StadiumでEfrem Kurtz指揮ニューヨーク・フィルハーモニックとシューマンの「ピアノ協奏曲」を演奏した。

14歳までは自宅で祖父母から音楽を学んでいたが、カッチェンの父は、まず正規の教育をきちんを受けるべきで、ピアノが優先されてはいけないという考えを持っていた。
カッチェンは音楽学校には行かず、普通の公立高校(ロング・ブランチ・ハイスクール)からベンシルベニアのハヴァフォード大学(Haverford College)に進学した。ハヴァフォード大学は、名門リベラル・アーツ・カレッジ群のリトル・アイビーの一校。カッチェンは1946年卒。
大学では、哲学と英文学を専攻し、学生自治活動(student politics)にも関わっていた。大学3年生のときには、”Phi Beta Kappa”(ファイベータカッパクラブ:成績優秀な大学生・卒業生から成る米国最古で最も有名な友愛会)のメンバーに指名された。(※クラブのメンバーになることは米国の大学生にとっての最大の栄誉だという。)
ピアニストとしての活動を(ほぼ)休止し、一般大学で学生生活を送ったことついて、カッチェン自身は、”知的好奇心を育ててくれたことで、レパートリーとしてより精神的な面でチャレンジングな作品への関心を持つようになった”と言っている。
カレッジ時代でのピアノの教師はデイヴィッド・サパートンだけだった。(※デヴィット・サパートン(1889-1970)は、ゴドフスキーの娘婿でブゾーニにも師事したヴィルトオーゾ系ピアニスト。ボレットが師事していた。)
カッチェンは、学業のかたわら、キャンパスでは定期的にリサイタルを行っていた。1944年12月には、カーネギーホールでリサイタルを行っている。
1946年にカレッジの4年課程を3年間で終え哲学の学位をとり、首席で卒業。この優秀な学業成績によって、フランス政府から奨学金を得て、1946年にパリへ留学(※音楽留学したのではない)。

パリに到着した1946年の秋、米国代表としてENESCOフェスティバルで演奏するよう要請され、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番<皇帝>」をクレツキ指揮フランス国立放送管弦楽団の伴奏で演奏し、放送された。その3日後、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」、1週間後には、シューマンの「ピアノ協奏曲」を演奏。
このフェスティバルでは、11日間で7回のコンサートで演奏して注目され、同世代の中でも最も優れたピアニストの一人として、瞬く間に広く認めらるようになった。
この演奏会を機に、欧州での演奏会の膨大なオファーが舞い込むことになり、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」をNice Opera Houseで弾き、2月にはパリでリサイタル・デビュー。1947年春に、欧州各国の首都9都市(ローマ、ベニス、ナポリ、パリ、ロンドン、ストックホルム、コペンハーゲン、チューリヒ、ザルツブルク)でリサイタルと演奏会を行った。4月にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と、5月にはオットー・クレンペラーと共演。その年の終わりには、アメリカツアーを開始。
その頃までに、パリを拠点として欧州で頻繁に演奏活動を行っているが、米国で演奏することはそれほど多くはなかった。
米国でも定期的に演奏活動を行ったが、彼はパリに永住した。1956年には、Arlette Patouと結婚している。
カッチェンが米国に戻らなかったのは、職業上の理由といわれており、カッチェンは「米国では音楽学生同士は建設的な関係にあって友人同士でさえある。お互いのコンサートに行っては誉めあう。パリでは、コンサートへ行くのは同僚ピアニストの失敗や欠点を探しにいくためだ」とインタビューで話していた。
(※これは定説のようだが、カッチェン自身はインタビューで「私は欧州の音楽院の雰囲気(環境)についてかなり不健全なものを感じています。」と話している。詳しくは後述の「米国と欧州の音楽環境の違い」を参照)
カッチェンの通常の演奏活動は6カ国に渡っていた。カッチェンは1シーズンに100回以上のコンサートで演奏するエネルギッシュなピアニストだった。アテネでは3週間の間に12回のリサイタルを行ったことがある。
彼の主要レパートリーは、ベートーヴェン、ブラームス、それに、ロシアのヴィルオソーゾ作品。演奏活動の初期の頃は、チャイコフスキー・プロコフィエフ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲」やバラキエフのイスメライ、ムソグルスキーの「展覧会の絵」などの独奏曲をよく弾いていた。
カッチェンは、大規模なプログラムを好み、ロンドンのロイヤルフェスティバルホールのコンサートでは、一晩でベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」、ブラームス「ピアノ協奏曲第2番」の3つのコンチェルトを演奏。
※並外れた体力・集中力・持続力が要求されるので、今では(おそらく当時も)こんなプログラムを組むピアニストはまずいないと思う。
1960年10月23日には、ロイヤルフェスティバルホールのリサイタルで、シューベルトの「ピアノ・ソナタ第21番」、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」を弾いた後で、アンコールとしてベートーヴェンの「熱情ソナタ全楽章」を弾いた。
※計算すると全部で2時間以上は弾いていたはず。それも大曲ばかり。アンコールで熱情ソナタを全楽章弾くピアニストも珍しい。
1964年4月12日~22日にロンドンのウィグモアホールで行った4回のリサイタルで、ブラームスのピアノ独奏曲の全曲連続演奏会を行った。同じプログラムをケンブリッジ、ニューヨーク、ベルリン、アムステルダムでも演奏している。独奏曲、協奏曲、ピアノを含む室内楽作品全曲の連続演奏会をベルリン、ロンドン、ニューヨーク、ウィーンなどで開催するというほど、ブラームス作品への取り組みには並々ならぬものがあった。
カッチェンは日本の骨董品である「根付」蒐集に情熱的とさえいえるほど熱心だったが、それと同じように、音楽に対する情熱と興味は尽きることはなく、決して限られた作品に通じたスペシャリストであろうとはしなかった。
ブラームス、ベートーヴェンからガーシュイン、プロコフィエフ、ラフマニノフ、バルトークまで彼のレパートリーはひろがっていき、イスメライを弾いたときは、”腕が4本あるのではないかと思っても許されるだろう”と新聞で評された。
カッチェンが共演した指揮者は、アンセルメ、ベーム、ショルティ、クーベリック、ヨッフム、クレンペラー、モントゥー、クリュイタンス、ベイヌム、ケルテス、アルヘンタ、フェレンチク、コンヴィチュニー、ミュンヒンガー、マーク、ブリテン、フィストゥラーリ、ボールト、ケンペ、ガンバなど。
若かったことと演奏活動で多忙だったせいか弟子はほとんどとらなかった。唯一の弟子と言われているのが、パスカル・ロジェで、およそ2年間カッチェンの元で学んでいる。
また、ジャン=ロドルフ・カールス(Jean-Rodolphe Kars,1947年生])カッチェンに師事していたらしい。カールスはインドのカルカッタで生まれたオーストリア人。リーズ国際コンクール(1966年)とメシアン国際コンクール(1968年)に入賞。1977年にカトリックに改宗し、宗教の道に進むため、コンサートピアニストとして公式な演奏活動を1981年を最後に終了。1986年に司祭となったという異色のピアニスト。カールスは、1958年~64年の間パリ音楽院に在学し、カッチェンの元でも学んでいた。
それに、「ハンガリー舞曲集」で連弾していたピアニストのジャン=ピエール・マルティは、実はカッチェンの弟子(pupil)だったという。
カッチェンは、ヨゼフ・スーク、ヤーノシュ・シュタルケルと演奏した室内楽でも、ピアノ伴奏者として優秀だった。それは、室内楽であれ協奏曲であれ、彼のパートナーの音色に合わせた弾き方ができるというカメレオンのような変幻自在なところがあったからである。
1961年、1966年にプラドで開催された「カザルス音楽祭」では、カザルスやオイストラフの伴奏者をつとめていた。
当時、カッチェンは”あまりに急ぎすぎる”、”衝動的に(情熱に駆られてともいえる)突進する”とずっと批判されていた。
これに対して、編集者のジェレミー・ヘイズは「それほどに音楽的な衝動に突き動かされてピアニストが弾いているのを聴くことができるというのは、驚くべきことだ」と言っている。
※確かに、チャイコフスキーやラフマニノフの「ピアノ協奏曲」では、カッチェンが突進(rush)しているのが良くわかる。カッチェンの演奏は理知的なアプローチだと言われたりするが、いろんな演奏の録音を聴いていると、かなり感情が嵩ぶって弾いているところも少なくない。感情(激情)と理性との間を絶えず行き来しつつバランスをとりながら弾いているという感じの方が強い。
※1968年録音のベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第32番」第2楽章第3変奏でも何かに駆られたように速くなっていく。その数ヶ月後に録音したプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」では、曲が白熱してくるとテンポが速くなりはするが、以前の突進するようなことはなく、完全にテンポ(と自分自身)をコントロールするようになっていた。
彼の音楽への興味は、ヴィルトオーゾ的だとか爆発力がある(volatile)かというものさしでは、推し量ることができないものだった。
イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは自作のオーケストラとピアノのための変奏曲<Diversions>を録音するために、ソリストを特にカッチェンに依頼した。その曲のもつ多くのひらめきを表現するのに、カッチェンは理想的にふさわしいピアニストだと思えたからだった。
彼が弾いた米国の作曲家コープランド、フォス、ローレムの曲も、カッチェンの並外れた感性が光る演奏である。(その3人の作曲家の作品で録音が残っているのは、ローレムの「ピアノ・ソナタ第2番」)
カッチェンはプラハ音楽祭でも度々演奏していた。確実にわかっているだけでも、1955年にバッハのコラール前奏曲「深き苦しみの淵より、われ汝に呼ばわる BWV686」、ベートーヴェン「ピアノソナタ第32番」、ブラームス「ピアノ・ソナタ第3番」、メンデルスゾーン「アンダンテとロンド・カプリチオーソ」、ムソルグスキー「展覧会の絵」、、1966年にピエトロ・アージェント(アルヘンタとも読める)指揮プラハ交響楽団の伴奏でモーツァルト「ピアノ協奏曲第23番」、1968年にスークの伴奏者としてブラームス「ヴァイオリンソナタ」全曲、ノイマン指揮プラハ響の伴奏でベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」を演奏している。
モーツァルト「ピアノ協奏曲第23番」はライブ録音CDが残っている(CDはすでに廃盤)。
吉田秀和氏の著書『世界のピアニスト』(新潮文庫)では、「フライシャー、ジャニス、カッチェン、イストミン」という章がある。若手のアメリカ人ピアニストを取り上げたもので、カッチェンついて”すばらしいピアニスト”と評している。
吉田氏は、1967~68年にベルリンに滞在していた頃に、マゼール指揮ラジオ・シンフォニー・オーケストラの伴奏でカッチェンが弾くラフマニノフの「パガニーニのテーマによるヴァリエーション」を聴いたという。ラフマニノフの曲はあまり好きではなかったせいか、ちょっともたれてしまったそうだが、若手のアメリカ人ピアニスト4人のなかでは、テクニックが一番良く、音量もたっぷりあり立派な演奏だったという。
1968年12月11日、ザ・ローリング・ストーンズが企画し豪華ゲストを迎えて制作された「ロックン・ロール・サーカス」で、カッチェンはファリャ「火祭りの踊り」とモーツァルト「ピアノ・ソナタ第15番」第1楽章を弾いている。
カッチェンが最後に行った公開演奏は、1968年12月12日、ケルテス指揮ロンドン交響楽団の伴奏によるラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」を弾いたコンサートだった。
この演奏会から約4ヵ月後の1969年4月29日、カッチェンは肺ガンのため42歳の若さで亡くなった。

ピアニストとしての活動が20年ほどと短かったけれど、レパートリーは幅広く数多くの録音を残している。
再録音した曲もかなりあり、(ブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」「ヘンデルバリエーション」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」など)
録音した作品は、ベートーヴェン、ブラームス、リスト、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、グリーグ、シューマン、モーツァルト、ショパン、ラヴェル、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ムソルグスキー、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ブリテン、ローレム、ファリャ、バッハ(ヘス編曲)など。(ライブ録音には、ドビュッシー、バッハの作品もある)
キャリア後年では、主要なドイツロマン派音楽がレパートリーの多くを占めるようになっていったが、キャリア初期では同時代音楽の擁護者(champion)だった。
しかし、"musique concrète"(現代音楽の一様式)のようなものに対しては、理解することができなかった。「どうして醜い音を作り出したり、不快なもの(nastiness)に集中し続けなければいけないんだ?」と言っていた。
同時代の作曲家のなかでは、本当に親近感を持っていた作曲家もいた。
カッチェンはブリテンをとても称賛していた。ブリテン自身の指揮で「ディバージョンズ」を録音するために、ブリテンが特にソリストにカッチェンを指名したとき、カッチェンはブリテンにさらに「ピアノ協奏曲」を作曲するよう説き伏せたのだった。
同時代の米国人作曲家(コープランド、フォス、ローレムなど)の作品も多数初演しており、欧州ではガーシュウィン「前奏曲」とバルトーク「ミクロコスモス」を初めて演奏した。
戦後パリに住んでいたアメリカ人作曲家のネッド・ローレムとは、「ピアノ・ソナタ第2番」を初録音して以来、友人となった。カッチェンをソリストとしてローレムが作曲した「ピアノ協奏曲第2番」もカッチェンがパリで初演している。
ica盤ライブ録音集のブックレットで、カッチェンのピアニズムを次のように評している。
カッチェンの技巧については、chrome-platedであり、太刀打ちできないほど冴えていた。1950年代は、何よりもスピードを追求していたために、ある種の詩的なものが欠けて音楽性が乏しく、パワフルで明快な演奏といえる。後年になると、シューベルトの最後のソナタやベートーヴェンのディアベリ変奏曲のような偉大な作品に対して、哲学的な観点から熟考したカッチェンの解釈が注目される。
彼の生涯が終わりへと向かっていたが、カッチェンはブラームスの音楽の深さに気がつき始めた。もし、彼がガンで42歳の若さでこの世を去らなければ、音楽的により深い解釈者へと深化していたかもしれない。しかし、カッチェンが聴衆に人気があり、彼の録音の多くはベストセラーとなっていたことは否定できない。ブラームスのピアノ・ソナタ第3番で、ピアノソロのLPレコードでファーストチョイスの演奏家であったのは間違いない。
一番最初の録音(DECCA)は、1949年、彼が23歳の時に弾いたブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」。
DECCAが、カッチェンが20歳になる前にすでに契約をしていたというのは驚き。(カッチェンは、飛び級で普通よりも早く大学を卒業した)
この時の録音を担当したのは、かの有名なDECCAのプロデューサー、ジョン・カルショー。このほかにもカッチェンの録音を担当していた。 (※こんなところでカルショーの名前が出てくるとは予想外だった。カッチェンとカルショーとは家族ぐるみの付き合いがある友人同士だったそうで、カルショーの自伝でもカッチェンに関するエピソードが何回か登場する。)
その後はブラームス以外の作曲家の録音も多かったが、ブラームス作品全集の録音には、再録を含めて約9年間をかけて取り組み、1965年にブラームスのピアノ独奏曲全集の録音を完成させた。この全集の評価は高く、カッチェン=ブラームスのスペシャリストというイメージが定着した。日本人評論家では吉田秀和氏が、「これはとても良い演奏です。じつにりっぱなもので、(中略)、技術も内容も、ともに整った名演です」と評している。
この他のブラームス作品の録音には、「ピアノ協奏曲第1番・第2番」、「ヴァイオリン・ソナタ全集」(Vn:スーク、ロッシ(1番は未録音))、「ピアノ三重奏曲全集」(Vn:スーク、Cello:シュタルケル)が残されている。
シュタルケルは『ヤーノシュ・シュタルケル 自伝』(原題:The World of Music According to Starker)で、カッチェンとの出会いと録音のことを回想している。
カッチェンとシュタルケルが初めて出会ったのは1948年のパリ。シュタルケルがパリを離れる準備をしているときに、(哲学を専攻し大学を飛び級で卒業後、フランス政府の奨学金を得た)カッチェンがパリへ移ってきたのだった。
1966年にシュタルケルがマーキュリーとの独占契約を解消し、アディロンダック音楽祭の創設に関わっていた頃、カッチェンがシュタルケルを訪ねてきて、一緒にブラームスのピアノ室内楽を録音しないかと提案。シュタルケルが呼吸が合うかどうか試してみようと答えたので、数ヵ月後、シュタルケルが演奏会をしていたロッテルダムにカッチェンがパリからやってきて、チェロソナタを一緒に弾いてみた。それから彼らのブラームスの室内楽録音計画がスタート。
2人は1968年にオールドバラでスークと出会い、ロンドン公演のあとに、ブリテンがオールドバラに建てたコンサートホールでブラームスの「三重奏曲全集」を録音した。そのとき、彼ら3人はブリテンとピーター・ピアーズとともに楽しい一夜を過ごしたという。
カッチェン、スーク、シュタルケルのトリオが行ったピアノ三重奏曲の録音を機に、各地の音楽祭や南アフリカ共和国(シュタルケルは1959年にアフリカ大陸の数カ国でコンサートツアーをしたことがある)などから、山のように演奏依頼がやってきたという。
このトリオとして引き続き、1969年春にブラームスの「ピアノ四重奏曲」・「ピアノ五重奏曲」の録音と、「チェロ・ソナタ第1番」の再録を開始する予定だったが、4月にカッチェンが急逝したため、この計画は実現しなかった。
カッチェンとシュタルケルは、すでに「チェロ・ソナタ第1番」と「チェロ・ソナタ第2番」を録音していたが、リリースされているのは第2番のみ。再録音できなかった第1番は公開されていない。
※スークとシュタルケルは、ブッフビンダーを新たにピアニストに迎えて、トリオ演奏活動を続けた。
2016年9月にリリースされた『ジュリアス・カッチェン/DECCA録音全集』には、ブラームスの「クラリネットソナタ第1番&第2番」の未公開録音が収録されている。ヴァイオリニストのThea Kingが、同曲をNina Milkinaと録音してから5年未満だったため、契約上リリースできず、そのままお蔵入りとなっていたもの。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲などの録音を担当したプロデュサーによれば、カッチェンは、スタジオ録音であっても、各楽章は1つの曲としてまとまったものであるべきだという考え方だった。そのため、スタジオ録音でもほとんど編集をしていなかった。
ベートーヴェンの代表作品を立て続けに3曲と「ディアベリ変奏曲」のような複雑な曲を録音するのに要したのは、3時間の録音セッションが2回足らずだった。
カッチェンは、1961年に東欧からウィーンへ回る演奏旅行中に、ウィーンでハチャトリアンの「ピアノ協奏曲」を作曲者自身の指揮で録音する予定だった。ところが、東欧滞在中にカッチェンが政治的な発言(ベルリンの壁を非難した)をしたために、ソ連当局がこれを中傷と受け取り、ハチャトリアンにカッチェンと共演することを禁止した。結局、ハチャトリアンは録音予定をキャンセルし、「ピアノ協奏曲」の録音は実現しなかった。
1968年11月に、ケルテス指揮ロンドン交響楽団の伴奏により、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」をスタジオ録音をしている。このラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」が、カッチェンが残した最後の録音となった。
![]() | ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集(35CD) (2016年08月31日) |

子供の頃のカッチェンは優れた水泳選手であり卓球選手でもあった。ピアノの練習をしていないときは庭で野球をするのが大好きだった。
※カッチェンのタッチは力強く、音量も大きいし、指回りも抜群に良い。難曲のコンチェルトを一晩に数曲演奏するほどのスタミナもある。それはこの運動能力の高さと頑強な体力によるものではないかと思う。
※カッチェンは、英語のほかフランス語、ドイツ語など全部で4ヶ国語を話すことができたらしい。カルショーも自伝で、カッチェンは数ヶ国語が流暢に話せると書いていた。
カッチェンの親しい友人で、戦後の一時期カッチェンと同じパリで暮らしていたピアニスト仲間のゲイリー・グラフマンは、カッチェンと一緒にいるのは、まるで川の急流のなかに立っているようだった、と喩えていた。
「カッチェンは、彼の想像力をかきたてるものなら、どんなものに対しても、情熱と莫大なエネルギーを注いでいた。一緒にいる人間は必ずそれに押し流されてしまうんだ。彼の情熱のもつエネルギーにみんなが感染していったよ。」
カッチェンはレコーディングが好きだったが、スタジオ録音の時でさえ、自然に熱情や興奮が湧き上がってくるといううらやむべき才能があった。
グラフマンはカッチェンと一緒に、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の録音でピアノを弾いていたこともある。
1980年代に、グラフマンはあるインタビューの中で、カッチェンを最も好きなピアニストの一人にあげている。特にカッチェンのブラームスが大好きで、彼が残した数多くの録音のなかでも、カッチェンの貴重な遺産というべき演奏だと言っている。(『ピアニストとのひととき(下)』より)
録音を担当したDECCAのプロデューサーはカッチェンについて、「いつも大きな笑顔を浮かべ、エネルギッシュで社交的だった。陽気で誰からも愛される性格で、自己中心的(egocentric)なところがあるが、それがとても魅力的だった」と言っている。
カッチェンのスタジオへ行ってみると、何年も弾いていなかった曲を新たに練習し、電話で演奏会の打ち合わせをし、メイドに部屋掃除の指示を与え、何千個もの骨董品の「根付」を手入れし、彼の膝の上で動き回っている子供を優しくあやしていたという、実に多忙でエネルギッシュな日常だった。
カッチェンは1956年にLe Vesinet出身のAriette Patouxと結婚した。彼らは熱心で辣腕の根付収集家だった。
彼らの根付コレクションのうち195点がロンドンのサザビーズで2005年11月8日と2006年7月13日にオークションにかけられ、総額120万ポンド(220万ドル)で落札された。
2016年と2017年には、さらに392点がBonhamsのオークションで総額230万ポンド(300万ドル)で落札された。特にカッチェンのお気に入りだった牙中作”Shaggy dog and pup”(牙中[げちゅう/Gechu]は18世紀の有名な根付師)の落札価格22万1千ポンドは、根付オークション史上2番目の高値だった。
音楽でもそれ以外のことでも、彼は競争心や嫉妬には全く無縁だった。カッチェンは自分自身の弾き方が好きだったし自信を持ってはいたが、リヒテルとギレリスが彼の理想とするピアニストだった。
プロデューサーのカルショーは、DECCAの専属ピアニストの中で、「カッチェンは嫉妬心とは一番無縁」なピアニストだと言っていた。
彼はただ単に音楽をすることを愛していた。音楽を生み出し、音楽をつくり続けていくことだけを望んでいた。彼は毎日12時間練習し、コンサートで年に100回以上ピアノを弾いていた。膨大な量の音楽に取り組むことこそがまさに彼の喜びとするものであり、決して飽くことがなかった。
彼はピアニストとしての謙虚さも持っていた。コンサートでの演奏が上出来だったときは、翌日友人のグラフマンに「昨日のコンサートの演奏は素晴らしかったよ!」と、朝食のテーブルで、誇らしげに事細かにコンサートの様子を話していた。演奏の出来が悪くて納得がいかなかった時は、「絶望的に酷かった!」と意気消沈して、グラフマンにどこがどう悪かったのか、また同じように順々と細部にいたるまで話したのだった。
プロデューサーのRay Minshullの回想では、カッチェンがリラックスできる唯一の姿勢は、椅子に座ってピアノの鍵盤へ腕を伸ばしているとき。
公開演奏を愛する天性の”showman”(舞台人)だったが、スタジオ録音でも大抵はくつろいで(at home)、強い集中力のおかげで長時間の録音も平気だった。
しかし、「Encore集」の録音では、カッチェンが思っていたほどにスムーズには進まなかった。「スタジオ録音の冷静さのなかでは、大成功したコンサートの最後にアンコール曲を次から次へと弾くような雰囲気や気持ちに達することは、不可能だった。とうとう諦めて、友人30人に来てもらって、多少なりともライブを行い、1時間が過ぎて聴衆が盛り上がった頃には、いつものようにアンコール曲を弾く用意ができたのだった」

1962年11月18日付New York Timesに掲載された音楽評論家Alan Richのインタビューで、カッチェンは米国と欧州の音楽教育やコンサートピアニストとしてのあり方の違いについて、語っている。(出典:audite盤CDのブックレット)
カッチェンは米国人生まれの米国育ちなのに、欧州でピアニストとしての存在感と名声を確立したけれど、米国では15年もの間、演奏舞台には姿を見せなかった。
「(長らく米国で演奏することがなかったのは)、むしろ、どこで(演奏する)機会があるのかという問題です。私は、ここ(米国)で受けた教育を欧州で受けることはできませんでした。しかし、実際のキャリア形成という点になると、米国よりも欧州の方がより多くのもの-演奏会の日程(concert dates)のオファーやより良く成長するための環境-を提供してくれたように思えます。」
「今日の米国は、ピアニストにとって世界中でもっとも優れた教育を提供しています。ヒトラーのせいで、偉大な教師たちが30年代に渡米し、今でもその多くが米国に残っています。私は、欧州の音楽院の雰囲気(環境)についてかなり不健全なものを感じています。学生たちにあまりにも多くの競争心を植え付けています。コンクールというのは、学校で行われている賞を競う競技会で、全ての学生たちの頂点に一人のピアニストが上り詰めるものですが、これが学生たちのなかに不健全な態度を生んでいます。
米国では、ピアニストはともに成長するようにまとまっており、友人同士にさえなれるのです。誰かが他の学生の演奏会に行くと、喝采します。パリでは、他人の演奏を聴きに行くのは、自分の首を絞める(失敗する)ところ見ることを期待しているからです。」
(※意外なことは、"カッチェンが欧州を拠点に演奏活動を続けたのは米国の音楽界の雰囲気に否定的だったから"という定説とは違うこと。それとは逆に、欧州の音楽院のドライな競争的雰囲気は不健全で、友人同士にさえなれる米国の音楽院の方がむしろ健康的だと思っていたようだ)
「米国では、学生はピアノ教育の偉大な伝統に加わることができます。ロシアのヴィルトオーソの伝統は、ホロヴィッツのようなピアニストが体現しています。また、ゼルキンは室内楽に重きを置きつつ、古典的なドイツ的アプローチを明らかにしています。米国人ピアニストの多くは、私自身を含めて、両者のアイデアを個人的に組み合わせています。」
「しかし、欧州で教育を受けてしまえば、演奏家は自己表現(実現)する機会にずっと恵まれています。演奏会の日程やレパートリーのために競争することは米国よりも少ないのです。例えば、昨シーズン、私は24の協奏曲と10種類のリサイタルプログラムで演奏しました。米国では、マネージャーからのプレッシャーのために、もっと少ない数の曲を頻繁に弾くように、かなり制限されることになるでしょう。」
「米国では、都市や町へやってくるときには、soup-to-nuts(幅広い)プログラムにすることと、聴衆が理解できない曲を演奏しないよう注意することを勧められます。マネージャーは常に聴衆を過小評価しています。欧州の聴衆の場合は、ずっと洗練されていると信頼されています。さらに、演奏家の成長にとってとても重要なことですが、欧州では同じ都市に何度も演奏しに戻ってくる機会がずっと多いのです。それにより、自分自身の聴衆を作りあげ、徐々により難しいプログラムを提供することができるのです。」
「米国の演奏家は、欧州でよく演奏しているプログラムの種類を批判されています。バッハからブーレーズに至るまでざっと見渡したようなプログラムのことです。欧州の聴衆は演奏家が本当にぴったり合っている(close)と感じるものを表現する特化したプログラムを好みます。たとえば、私はオール・ブラームス・リサイタルをドイツでずっと行ってきましたが、それは成功しています。今、ブラームスのピアノ作品全てをロンドンレコードで録音しているところですが、ここでもそのシリーズを演奏したいと思っていますし、聴衆はコンサートにやってくると思います。しかし、眉をひそめて、”バッハの作品はどこにあるんだ?”、”なんてことだ、ショパンがない!” そういうものです。私が言っているのは、聴衆のことではなくて、マネージャーのことです。」
「しかし、私が”expatriate”(故国を捨てた)と呼ばれることを拒否する理由でもあるのですが、ニューヨークに戻って来たことに大きな喜びを感じています。米国でのキャリアが欠けていることは、私が不完全なのだと感じさせられます。私には、故国が認めてくれること(approval)が必要なのです。確かに、私はすでに名声を得て(established)います。自分の街のタウンホールでデビューする若手ピアニストの”オール・オア・ナッシング”という感情をもって、今週のフィルハーモニックとの演奏会に臨んでいるわけではありません。しかし、米国が、私にとっては存在していないのだというふりをするのは、それと同じくらいに不合理でしょう。」

リヒテルが1960年に鉄のカーテンを超えて初めて西側を訪問後、西側のレコード会社へのレコーディングをソ連当局が許可するらしいという話が持ち上がった。
1961年にリヒテルがパリに滞在中、欧米のレコード会社の代表たちは、リヒテルとの面会を求めて滞在先のホテルへ殺到していた。リヒテルには、滞在中の街で姿を消すことがあるという妙なクセがあった。この時もリヒテルが行方不明になって、ソ連の随行員たちは右往左往。
その晩、デッカのプロデューサーであるカルショーは、非常に親しい友人でもあるカッチェン夫妻宅へ寝酒を飲みに入った。そこでピアノの前に座っていたのは、「天使のようにブラームスを奏でていた」リヒテル。カッチェンは数ヶ国語を流暢に話せたので、リヒテルもコミュニケーションがとれて、とてもくつろいだ様子だった。
(出典:ジョン・カルショー著『レコードはまっすぐに』)
1962年、東ベルリンと東ドイツで予定されていた12公演のコンサートツアーをキャンセル。その報復措置として、ソ連の作曲家ハチャトリアンはウィーンで予定されていたカッチェンとの録音予定をキャンセルした。カッチェンは、その1年前にハチャトリアンの指揮で東ベルリンで協奏曲を演奏していた。コンサートツアーをキャンセルした理由は、演奏会を行うことはカッチェンが”東ドイツの共産主義体制を認めたことになり”、プロバガンダのために利用されるということを学んだからだという。
(出典:meloclassic盤CDのブックレット)
当時、悪名高いアパルトヘイト(人種隔離政策)を取っていた南アフリカ共和国でのコンサートでの、カッチェンの率直さ(directness)を物語るエピソード。
”champion of the underdog”(弱者のために戦う人)カッチェンは、ケープタウンのSoweto township(ソウェト/非白人居住地域)で無料のコンサートを行うと主張したことが、南アフリカ政府の連中の癇に障った。南ア政府は、カッチェンがコンサートのために搭乗する予定だった国有の南アフリカ航空のケープタウン-ヨハネスブルク行のフライトをキャンセルしたが、カッチェンは後続の飛行機に搭乗して彼らの企みを妨害した。カッチェンがコンサート会場に現れると、いつも”白人限定”のイベントに参加することを禁止されていた聴衆から鳴り響く拍手で歓迎された。
別の演奏会では、ケープタウンのシティホールの舞台上に歩み寄って、この街はこの”heap of trash”(ぽんこつ)よりももっと良いピアノがふさわしいと宣言し、50ポンド紙幣をピアノの上にぴしゃりと置いて、”あなた方の街にふさわしいピアノを購入するための基金を始めるために”と言った。
(出典:『ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集』)のブックレット)
1959年、中国人の若手ピアニストであるフー・ツォンが、留学先のポーランドから英国ロンドンへ亡命する。フー・ツォンは第5回ショパンコンクールでアジア人初の第3位に入賞し、その後東欧で演奏活動をしていた。当時、共産主義政権下の中国では思想改造運動が盛んで、ポーランドの音楽院を卒業後農村労働に従事するよう中国政府からフー・ツォンに召還命令が出たため、彼は悩んだ末に亡命を決意する。
8歳年下の中国人ピアニストの音楽性を高く評価していたカッチェンは、彼のロンドン亡命に際して、旅費やロンドンでの生活を援助したという。
(出典:森岡葉著『望郷のマズルカ ― 激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』)
ピアニストで音楽理論家・批評家でもあるチャールズ・ローゼンが語っている珍しい逸話。
「カッチェンはステージに上がると聴衆のなかの任意の一人に目標を定め、その人のために弾いたと言われる。これは心理的刺激にすぎず、美的陶酔と性的興奮とを混同している。もしこの選ばれた一人が他の聴衆よりも演奏を堪能したとしたら、カッチェンは狼狽したにちがいない。」
(出典:ローゼン著『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』)
17歳~20歳の時にカッチェンに師事していたパスカル・ロジェが、カッチェンとの思い出を語っている。
ロジェが17歳の時、カッチェンに初めて自分の演奏を聴いてもらうと、「君はテクニックがありすぎるね」と言われたという。カッチェンがロジェにアドバイスしたことは、「ピアノから離れなさい。ものを考えたり、本を読んだり、美術館で絵画を見たり、芸術、文学、哲学・・・色々なものを受け入れて視野を広げることも大事ですよ。1日10時間もピアノの前で練習していたら、他のものに対する好奇心を失ってしまう。音楽はピアノの前で考えるだけでなく、人生を知ることでもあり、他人の心情に思いをはせることでもあるのだから」
ある日先生(カッチェン)から「今面白い企画展が開催されているから、今日はレッスンの代わりにこれを見に行かないか?」と言われ、一緒に美術館に行ったこともあったそうだ。
(出典:ピティナ「香港国際ピアノコンクール(4)パスカル・ロジェ先生が語る10代の教育」)
1969年1月、ロジェがサル・ガヴォーでパリ・デビューコンサートを飾ったとき、カッチェンは次のような推薦文を書いている。
「パスカル・ロジェは生まれながらの自然なヴィルトゥオーソである。私はついぞ彼の技巧上の制約を発見できなかった」。カッチェンはさらにロジェの演奏の特色として「ロマン派的な高揚、驚くべきリズミックなヴァイタリティ、ビューティフル・サウンド、フランス人特有の詩趣」を挙げている。
(出典:ロジェ&デュトワ指揮モントリオール交響楽団『ラヴェル:ピアノ協奏曲』(DECCA・国内盤)のライナーノートより)
カッチェンが初めて弾く曲を習得するときは、最初は完全にピアノから離れて、楽譜を読み込んでいくのが習慣だった。「私がピアノに向かう時は、単に頭の中にある設計図(blueprint)を実現するだけなのです。」
カッチェンが米国の作曲家ネッド・ローレムの「ピアノ・ソナタ第2番」を演奏して以来、彼と友人となったローレムはこう回想している。
「カッチェンは光速のごとき素早さでたちどころに(楽曲を)習得してしまう能力と、悪名高いまでに驚くほど正確に記憶する能力を持っていた。それは、知的な記憶能力によるものではなくて、いってみれば直観をもつ指とでもいうものから来ている。彼の手が全て覚えているんだ。演奏旅行に行くときも、カッチェンは楽譜を全然持って行かなかったのを覚えているよ。楽譜は彼の頭の中にコピーされているのではなく、指先に写真のように写し取られているんだ。」
1968年12月、最後のコンサートでラヴェルのピアノ協奏曲を弾いた頃には、すでにガンに蝕まれており、健康状態は悪化していたが、カッチェンは決してそれに負けることはなかった。グラフマンは回想して「カッチェンは全力で病気と闘っていた。カッチェンは闘病生活を”まるでエロール・フリンの映画のフェンシングの試合のようだ”と言っていた。」
カッチェンは化学療法のためにロンドンに滞在していて、昼間は病院で治療を受け、夜は自宅でブラームスのピアノ曲全集を弾いていた。しかし、最後にはガンが彼を打ち負かしたのだった。
作曲家ローレムはこう言っている。
「驚異的な速さで習得していくカッチェンの並外れた能力が偶然の産物だと考えることは、天賦の才能というものは結局はその対価を支払わされるものだということを無視している。時としてその対価は恐ろしく高くつくものだ。カッチェンは本当に活発に動き回っていた。日中には12時間もピアノを練習し、その後に出掛けて我々友人とバーで酒を酌み交わし、翌朝も早起きして、同じような生活を繰り返していた。私にとって、カッチェンの限界を知らない興味と活力と、それに昼夜の別ない生活は、ボードレールのように、1度の人生でその3倍の人生を生きたということをまさに体現している。彼が4月に亡くなった時、カッチェンは42歳ではなく、126歳だったんだ。」

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備考
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【出典】
- DECCAが公表している英文および日本語資料(CDのブックレット等)
- ジョン・カルショー著『レコードはまっすぐに-あるプロデューサーの回想』(学習研究社,2005年)
- シュタルケル著『ヤーノシュ・シュタルケル 自伝』(愛育社,2008年)
- ディヴィッド・デュバル著『ピアニストとのひととき(下)』(ムジカノーヴァ,1992年)
- 吉田秀和著『世界のピアニスト』(新潮文庫,1983年)[現在はちくま文庫から<吉田秀和コレクション>として出版。ただし、カッチェンに関する章は未収録]
- 森岡葉著『望郷のマズルカ ― 激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』(ショパン,2007年)
- チャールズ・ローゼン著『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』(みすず書房,2009年)
- プラハ音楽祭ライブ録音CDのブックレット
- ica盤ライブ録音集CDのブックレット
- 『TBS Vintage Classics/Julias Katchen』のブックレット
- audite盤CD(ベルリンでの放送用録音集)のブックレット
- meloclassic盤CD(ヘッセンでの放送用録音集)のブックレット
- 『ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集』のブックレット
- プロフィール(thestore24.com)
- プロフィール(ml.naxos.jp)
- プロフィール(naxosmusiclibrary.com)
- プロフィール(en.wikipedia.org)
- プロフィール(alchetron.com)
- ”In Memoriam”(Department of Music at Haverford College)に掲載されているプロフィール
- ピティナ「香港国際ピアノコンクール(4)パスカル・ロジェ先生が語る10代の教育」
- ジャン=ロドルフ・カールスのプロフィール(en.wikipedia.org)
- 『Julius Katchen: Piano Recitals 1946-1965』のブックレット
- New Jersey Jewish News - October 21, 1976。カッチェンの祖母Nettie Katchenの追悼記事
- The Julius and Arlette Katchen Collection of Fine Netsuke(part1~part3)[Bonhams]
- Haverford News,1944.3.8"。ハヴァフォード入学後、Roberts Hallで3回目の学内リサイタル開催を知らせる大学ニュース
- ”Katchen Relaxes on Floor ” (ABC weeklyVol. 19 No. 6, 9 February 1957/by ARTHUR JACOBS, air Mail from London ) オーストラリアツアー予定の30歳のカッチェンに対して、ABC社記者がロンドンで行ったインタビュー記事。
【参考サイト】


中川さんによれば、カッチェンは1954年に彼が28才の時に来日公演を行っていて、20歳代の、それもヨーロッパ以外のピアニストとしての来日は、初めてのことだったそうです。
アフリカ演奏旅行を終えて来日したので、アフリカと違って生水が飲め、ピアノの状態が素晴らしいと大変感激していたと回想している。アフリカツアーでは2ヶ月間で50回のコンサートを行っていた。
彼のピアノは、「健康で、小細工が無く、素直に音楽と対決し、管弦楽のような巨大な音響で、さすが大国アメリカの代表する若手」だと評している。ただし、活躍がすぎて、雑な演奏があったことは事実だとも指摘している。

吉田秀和氏が『世界のピアニスト』(新潮文庫版)の「フライシャー、ジャニス、カッチェン、イストミン」という章のなかで、カッチェンについてこう評している。
「ブラームスのピアノ曲が全部入っているレコードをききましたが、これはとても良い演奏です。じつにりっぱなもので、ケンプなどとは傾向が違いますから、比較して論じるわけにはいきませんが、技術も内容も、ともに整った名演です。僕はいま生きているピアニストでブラームスを聴くのだったら、ゲルバーとカッチェンが一番良いと思います。」
「このレコードで弾いているブラームスの一番のピアノ・ソナタなどは、ほんとに面白く弾いている。『第三ピアノ・ピアノ』もそうですが、カッチェンの演奏で聴くと、『ピアノ・ソナタ第一番』など、こんなに面白い曲をどうしてみんなが弾かないのかと思うほどです。このソナタは緩徐楽章がほかのソナタに比べて、切れぎれですけどね。この人はほんとによいピアニストです。ベートーヴェンのピアノ曲だって、これだけの力があれば、りっぱに弾くでしょう。」

カッチェンのCDシリーズ『The Art of Julius Katchen』を詳しく紹介している。

カッチェンと父母・妹のお墓の所在と写真が載っている。
【記事作成・更新日】2008.12.15 作成-2022.6.10 更新
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