ジュリアス・カッチェンにまつわるお話

ジュリアス・カッチェンは42歳の若さで亡くなったアメリカ人ピアニスト。
カッチェンの伝記を探したけれど、書籍としてまとまったものはなく、一般に知られているプロフィールは簡単なもので、DECCAが公表している資料が主な情報源になっている。
アラウ、ゼルキン、ルービンシュタイン、リヒテルといったキャリアの長い巨匠クラスのピアニストなら、日本語や英語版の伝記・映像記録が入手できるけれど、早逝したピアニストの伝記となるとなかなか見つからない。
それではちょっと淋しい気がしたので、公開資料をもとにカッチェンについてまとめてみました。

生い立ち
1926年8月15日、米国ニュージャージー州ロング・ブランチで生まれる。父方の祖父の名と同じJuliusと名付けられた。
彼の家庭は音楽一家で、ロシアから移民した母方の祖父母(Mandell Svet&Rosalie E Parsonnet Svet)はモスクワとワルシャワの音楽院で教鞭をとっていた。
父方の祖父母(Julius Katchen&Nettie Katchen)も移民だった。祖母Nettieの父はロシアの詩人Isaac Rabinowitz。欧州のギムナジウムを卒業したNettieはプロではないが優れたピアニストだった。
カッチェンの母Lucille Svet-Katchenはフォンテヌブローのアメリカ音楽院でイシドール・フィリップに師事、弁護士の父Ira Katchenは熟練したアマチュアヴァイオリニストでもあった。2歳年下の妹Rita(結婚後はRita Katchen-Hillman)もピアノとヴァイオリンを弾き、ニュージャージー学生オーケストラとオバーリン音楽院オーケストラ(オハイオ州)のコンサートマスターだった。
カッチェンは14歳までは自宅でピアノを練習しており、音楽家の家族から家庭で音楽教育を受けていた。カッチェンにピアノの手ほどきをしたのは母方の祖母Rosalie E Parsonnet Svet、理論を教えたのは祖父Mandell Svet。

カッチェンが1954年に初来日した際、帝国ホテルで行われた対談でこう話している。
「(母親だけでなく)祖母にも習いました。祖母はモスクワとワルシャワの音楽学校の先生でした。祖父も音楽理論の教授でした。ですからアメリカ育ちですが、私は実は伝統的なロシアの音楽教育をうけたわけです。私の家庭は、いわば私設のロシアのコンセルヴァトワールでした。」
「私が習ったのは、レシェティツキーの流派のメトードですが、個々のそれぞれ異なる性格、音楽性、肉体的条件を尊重し、洞察し、その自然な成長と待つという方法です。」
(出典:『TBS Vintage Classics/Julias Katchen』のブックレットに記載されている『音楽の友』1955年3月号の「<対談>カッチェンとの五十五分間」)

10歳でモーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」を Newarkの演奏会で弾いてデビュー。
そのことを聞いたオーマンディがカッチェンを招き、1年後にPhiladelphia Academy of Musicでフィラデルフィア管弦楽団と同曲を演奏。その1ヶ月後、ニューヨークのカーネギーホールで、バルビローリの指揮でこのコンチェルトを弾いたのだった。
NYタイムズはカッチェンの演奏について「11歳の少年にこれ以上望むことはできないだろう。」と賞賛した。その後、カッチェンはシカゴ交響楽団、デトロイト交響楽団とも共演し、ニューヨークでリサイタルも行い、天才少年として全米で知られるようになった。
12歳の時には、ニューヨークのタウンホールで初のリサイタルを行い、1939年7月には、Lewisohn StadiumでEfrem Kurtz指揮ニューヨーク・フィルハーモニックとシューマンの「ピアノ協奏曲」を演奏した。

学校生活
14歳までは自宅で祖父母から音楽を学んでいたが、カッチェンの父は、まず正規の教育をきちんを受けるべきで、ピアノが優先されてはいけないという考えを持っていた。
カッチェンは音楽学校には行かず、普通の公立高校(ロング・ブランチ・ハイスクール)からベンシルベニアのハヴァフォード大学(Haverford College)に進学した。ハヴァフォード大学は、名門リベラル・アーツ・カレッジ群のリトル・アイビーの一校。カッチェンは1946年卒。
大学では、哲学と英文学を専攻し、学生自治活動(student politics)にも関わっていた。大学3年生のときには、”Phi Beta Kappa”(ファイベータカッパクラブ:成績優秀な大学生・卒業生から成る米国最古で最も有名な友愛会)のメンバーに指名された。(※クラブのメンバーになることは米国の大学生にとっての最大の栄誉だという。)
ピアニストとしての活動を(ほぼ)休止し、一般大学で学生生活を送ったことついて、カッチェン自身は、”知的好奇心を育ててくれたことで、レパートリーとしてより精神的な面でチャレンジングな作品への関心を持つようになった”と言っている。

カレッジ時代でのピアノの教師はデイヴィッド・サパートンだけだった。(※デヴィット・サパートン(1889-1970)は、ゴドフスキーの娘婿でブゾーニにも師事したヴィルトオーゾ系ピアニスト。ボレットが師事していた。)
カッチェンは、学業のかたわら、キャンパスでは定期的にリサイタルを行っていた。1944年12月には、カーネギーホールでリサイタルを行っている。
1946年にカレッジの4年課程を3年間で終え哲学の学位をとり、首席で卒業。この優秀な学業成績によって、フランス政府から奨学金を得て、1946年にパリへ留学(※音楽留学したのではない)。


ピアニストとしてのキャリア
パリに到着した1946年の秋、米国代表としてENESCOフェスティバルで演奏するよう要請され、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番<皇帝>」をクレツキ指揮フランス国立放送管弦楽団の伴奏で演奏し、放送された。その3日後、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」、1週間後には、シューマンの「ピアノ協奏曲」を演奏。
このフェスティバルでは、11日間で7回のコンサートで演奏して注目され、同世代の中でも最も優れたピアニストの一人として、瞬く間に広く認めらるようになった。
この演奏会を機に、欧州での演奏会の膨大なオファーが舞い込むことになり、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」をNice Opera Houseで弾き、2月にはパリでリサイタル・デビュー。1947年春に、欧州各国の首都9都市(ローマ、ベニス、ナポリ、パリ、ロンドン、ストックホルム、コペンハーゲン、チューリヒ、ザルツブルク)でリサイタルと演奏会を行った。4月にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と、5月にはオットー・クレンペラーと共演。その年の終わりには、アメリカツアーを開始。
その頃までに、パリを拠点として欧州で頻繁に演奏活動を行っているが、米国で演奏することはそれほど多くはなかった。

米国でも定期的に演奏活動を行ったが、彼はパリに永住した。1956年には、Arlette Patouと結婚している。
カッチェンが米国に戻らなかったのは、職業上の理由といわれており、カッチェンは「米国では音楽学生同士は建設的な関係にあって友人同士でさえある。お互いのコンサートに行っては誉めあう。パリでは、コンサートへ行くのは同僚ピアニストの失敗や欠点を探しにいくためだ」とインタビューで話していた。
(※これは定説のようだが、カッチェン自身はインタビューで「私は欧州の音楽院の雰囲気(環境)についてかなり不健全なものを感じています。」と話している。詳しくは後述の「米国と欧州の音楽環境の違い」を参照)

カッチェンの通常の演奏活動は6カ国に渡っていた。カッチェンは1シーズンに100回以上のコンサートで演奏するエネルギッシュなピアニストだった。アテネでは3週間の間に12回のリサイタルを行ったことがある。
彼の主要レパートリーは、ベートーヴェン、ブラームス、それに、ロシアのヴィルオソーゾ作品。演奏活動の初期の頃は、チャイコフスキー・プロコフィエフ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲」やバラキエフのイスメライ、ムソグルスキーの「展覧会の絵」などの独奏曲をよく弾いていた。
カッチェンは、大規模なプログラムを好み、ロンドンのロイヤルフェスティバルホールのコンサートでは、一晩でベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」、ブラームス「ピアノ協奏曲第2番」の3つのコンチェルトを演奏。
※並外れた体力・集中力・持続力が要求されるので、今では(おそらく当時も)こんなプログラムを組むピアニストはまずいないと思う。

1960年10月23日には、ロイヤルフェスティバルホールのリサイタルで、シューベルトの「ピアノ・ソナタ第21番」、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」を弾いた後で、アンコールとしてベートーヴェンの「熱情ソナタ全楽章」を弾いた。
※計算すると全部で2時間以上は弾いていたはず。それも大曲ばかり。アンコールで熱情ソナタを全楽章弾くピアニストも珍しい。

1964年4月12日~22日にロンドンのウィグモアホールで行った4回のリサイタルで、ブラームスのピアノ独奏曲の全曲連続演奏会を行った。同じプログラムをケンブリッジ、ニューヨーク、ベルリン、アムステルダムでも演奏している。独奏曲、協奏曲、ピアノを含む室内楽作品全曲の連続演奏会をベルリン、ロンドン、ニューヨーク、ウィーンなどで開催するというほど、ブラームス作品への取り組みには並々ならぬものがあった。

カッチェンは日本の骨董品である「根付」蒐集に情熱的とさえいえるほど熱心だったが、それと同じように、音楽に対する情熱と興味は尽きることはなく、決して限られた作品に通じたスペシャリストであろうとはしなかった。
ブラームス、ベートーヴェンからガーシュイン、プロコフィエフ、ラフマニノフ、バルトークまで彼のレパートリーはひろがっていき、イスメライを弾いたときは、”腕が4本あるのではないかと思っても許されるだろう”と新聞で評された。

カッチェンが共演した指揮者は、アンセルメ、ベーム、ショルティ、クーベリック、ヨッフム、クレンペラー、モントゥー、クリュイタンス、ベイヌム、ケルテス、アルヘンタ、フェレンチク、コンヴィチュニー、ミュンヒンガー、マーク、ブリテン、フィストゥラーリ、ボールト、ケンペ、ガンバなど。
若かったことと演奏活動で多忙だったせいか弟子はほとんどとらなかった。唯一の弟子と言われているのが、パスカル・ロジェで、およそ2年間カッチェンの元で学んでいる。
また、ジャン=ロドルフ・カールス(Jean-Rodolphe Kars,1947年生])カッチェンに師事していたらしい。カールスはインドのカルカッタで生まれたオーストリア人。リーズ国際コンクール(1966年)とメシアン国際コンクール(1968年)に入賞。1977年にカトリックに改宗し、宗教の道に進むため、コンサートピアニストとして公式な演奏活動を1981年を最後に終了。1986年に司祭となったという異色のピアニスト。カールスは、1958年~64年の間パリ音楽院に在学し、カッチェンの元でも学んでいた。
それに、「ハンガリー舞曲集」で連弾していたピアニストのジャン=ピエール・マルティは、実はカッチェンの弟子(pupil)だったという。

カッチェンは、ヨゼフ・スーク、ヤーノシュ・シュタルケルと演奏した室内楽でも、ピアノ伴奏者として優秀だった。それは、室内楽であれ協奏曲であれ、彼のパートナーの音色に合わせた弾き方ができるというカメレオンのような変幻自在なところがあったからである。
1961年、1966年にプラドで開催された「カザルス音楽祭」では、カザルスやオイストラフの伴奏者をつとめていた。

当時、カッチェンは”あまりに急ぎすぎる”、”衝動的に(情熱に駆られてともいえる)突進する”とずっと批判されていた。
これに対して、編集者のジェレミー・ヘイズは「それほどに音楽的な衝動に突き動かされてピアニストが弾いているのを聴くことができるというのは、驚くべきことだ」と言っている。
※確かに、チャイコフスキーやラフマニノフの「ピアノ協奏曲」では、カッチェンが突進(rush)しているのが良くわかる。カッチェンの演奏は理知的なアプローチだと言われたりするが、いろんな演奏の録音を聴いていると、かなり感情が嵩ぶって弾いているところも少なくない。感情(激情)と理性との間を絶えず行き来しつつバランスをとりながら弾いているという感じの方が強い。
※1968年録音のベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第32番」第2楽章第3変奏でも何かに駆られたように速くなっていく。その数ヶ月後に録音したプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」では、曲が白熱してくるとテンポが速くなりはするが、以前の突進するようなことはなく、完全にテンポ(と自分自身)をコントロールするようになっていた。

彼の音楽への興味は、ヴィルトオーゾ的だとか爆発力がある(volatile)かというものさしでは、推し量ることができないものだった。
イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは自作のオーケストラとピアノのための変奏曲<Diversions>を録音するために、ソリストを特にカッチェンに依頼した。その曲のもつ多くのひらめきを表現するのに、カッチェンは理想的にふさわしいピアニストだと思えたからだった。
彼が弾いた米国の作曲家コープランド、フォス、ローレムの曲も、カッチェンの並外れた感性が光る演奏である。(その3人の作曲家の作品で録音が残っているのは、ローレムの「ピアノ・ソナタ第2番」)

カッチェンはプラハ音楽祭でも度々演奏していた。確実にわかっているだけでも、1955年にバッハのコラール前奏曲「深き苦しみの淵より、われ汝に呼ばわる BWV686」、ベートーヴェン「ピアノソナタ第32番」、ブラームス「ピアノ・ソナタ第3番」、メンデルスゾーン「アンダンテとロンド・カプリチオーソ」、ムソルグスキー「展覧会の絵」、、1966年にピエトロ・アージェント(アルヘンタとも読める)指揮プラハ交響楽団の伴奏でモーツァルト「ピアノ協奏曲第23番」、1968年にスークの伴奏者としてブラームス「ヴァイオリンソナタ」全曲、ノイマン指揮プラハ響の伴奏でベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」を演奏している。
モーツァルト「ピアノ協奏曲第23番」はライブ録音CDが残っている(CDはすでに廃盤)。

吉田秀和氏の著書『世界のピアニスト』(新潮文庫)では、「フライシャー、ジャニス、カッチェン、イストミン」という章がある。若手のアメリカ人ピアニストを取り上げたもので、カッチェンついて”すばらしいピアニスト”と評している。
吉田氏は、1967~68年にベルリンに滞在していた頃に、マゼール指揮ラジオ・シンフォニー・オーケストラの伴奏でカッチェンが弾くラフマニノフの「パガニーニのテーマによるヴァリエーション」を聴いたという。ラフマニノフの曲はあまり好きではなかったせいか、ちょっともたれてしまったそうだが、若手のアメリカ人ピアニスト4人のなかでは、テクニックが一番良く、音量もたっぷりあり立派な演奏だったという。

1968年12月11日、ザ・ローリング・ストーンズが企画し豪華ゲストを迎えて制作された「ロックン・ロール・サーカス」で、カッチェンはファリャ「火祭りの踊り」とモーツァルト「ピアノ・ソナタ第15番」第1楽章を弾いている。

カッチェンが最後に行った公開演奏は、1968年12月12日、ケルテス指揮ロンドン交響楽団の伴奏によるラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」を弾いたコンサートだった。
この演奏会から約4ヵ月後の1969年4月29日、カッチェンは肺ガンのため42歳の若さで亡くなった。


録音
ピアニストとしての活動が20年ほどと短かったけれど、レパートリーは幅広く数多くの録音を残している。
再録音した曲もかなりあり、(ブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」「ヘンデルバリエーション」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」など)
録音した作品は、ベートーヴェン、ブラームス、リスト、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、グリーグ、シューマン、モーツァルト、ショパン、ラヴェル、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ムソルグスキー、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ブリテン、ローレム、ファリャ、バッハ(ヘス編曲)など。(ライブ録音には、ドビュッシー、バッハの作品もある)

キャリア後年では、主要なドイツロマン派音楽がレパートリーの多くを占めるようになっていったが、キャリア初期では同時代音楽の擁護者(champion)だった。
しかし、"musique concrète"(現代音楽の一様式)のようなものに対しては、理解することができなかった。「どうして醜い音を作り出したり、不快なもの(nastiness)に集中し続けなければいけないんだ?」と言っていた。

同時代の作曲家のなかでは、本当に親近感を持っていた作曲家もいた。
カッチェンはブリテンをとても称賛していた。ブリテン自身の指揮で「ディバージョンズ」を録音するために、ブリテンが特にソリストにカッチェンを指名したとき、カッチェンはブリテンにさらに「ピアノ協奏曲」を作曲するよう説き伏せたのだった。
同時代の米国人作曲家(コープランド、フォス、ローレムなど)の作品も多数初演しており、欧州ではガーシュウィン「前奏曲」とバルトーク「ミクロコスモス」を初めて演奏した。
戦後パリに住んでいたアメリカ人作曲家のネッド・ローレムとは、「ピアノ・ソナタ第2番」を初録音して以来、友人となった。カッチェンをソリストとしてローレムが作曲した「ピアノ協奏曲第2番」もカッチェンがパリで初演している。

ica盤ライブ録音集のブックレットで、カッチェンのピアニズムを次のように評している。
カッチェンの技巧については、chrome-platedであり、太刀打ちできないほど冴えていた。1950年代は、何よりもスピードを追求していたために、ある種の詩的なものが欠けて音楽性が乏しく、パワフルで明快な演奏といえる。後年になると、シューベルトの最後のソナタやベートーヴェンのディアベリ変奏曲のような偉大な作品に対して、哲学的な観点から熟考したカッチェンの解釈が注目される。
彼の生涯が終わりへと向かっていたが、カッチェンはブラームスの音楽の深さに気がつき始めた。もし、彼がガンで42歳の若さでこの世を去らなければ、音楽的により深い解釈者へと深化していたかもしれない。しかし、カッチェンが聴衆に人気があり、彼の録音の多くはベストセラーとなっていたことは否定できない。ブラームスのピアノ・ソナタ第3番で、ピアノソロのLPレコードでファーストチョイスの演奏家であったのは間違いない。


一番最初の録音(DECCA)は、1949年、彼が23歳の時に弾いたブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」。
DECCAが、カッチェンが20歳になる前にすでに契約をしていたというのは驚き。(カッチェンは、飛び級で普通よりも早く大学を卒業した)
この時の録音を担当したのは、かの有名なDECCAのプロデューサー、ジョン・カルショー。このほかにもカッチェンの録音を担当していた。 (※こんなところでカルショーの名前が出てくるとは予想外だった。カッチェンとカルショーとは家族ぐるみの付き合いがある友人同士だったそうで、カルショーの自伝でもカッチェンに関するエピソードが何回か登場する。)

その後はブラームス以外の作曲家の録音も多かったが、ブラームス作品全集の録音には、再録を含めて約9年間をかけて取り組み、1965年にブラームスのピアノ独奏曲全集の録音を完成させた。この全集の評価は高く、カッチェン=ブラームスのスペシャリストというイメージが定着した。日本人評論家では吉田秀和氏が、「これはとても良い演奏です。じつにりっぱなもので、(中略)、技術も内容も、ともに整った名演です」と評している。

この他のブラームス作品の録音には、「ピアノ協奏曲第1番・第2番」、「ヴァイオリン・ソナタ全集」(Vn:スーク、ロッシ(1番は未録音))、「ピアノ三重奏曲全集」(Vn:スーク、Cello:シュタルケル)が残されている。
シュタルケルは『ヤーノシュ・シュタルケル 自伝』(原題:The World of Music According to Starker)で、カッチェンとの出会いと録音のことを回想している。
カッチェンとシュタルケルが初めて出会ったのは1948年のパリ。シュタルケルがパリを離れる準備をしているときに、(哲学を専攻し大学を飛び級で卒業後、フランス政府の奨学金を得た)カッチェンがパリへ移ってきたのだった。
1966年にシュタルケルがマーキュリーとの独占契約を解消し、アディロンダック音楽祭の創設に関わっていた頃、カッチェンがシュタルケルを訪ねてきて、一緒にブラームスのピアノ室内楽を録音しないかと提案。シュタルケルが呼吸が合うかどうか試してみようと答えたので、数ヵ月後、シュタルケルが演奏会をしていたロッテルダムにカッチェンがパリからやってきて、チェロソナタを一緒に弾いてみた。それから彼らのブラームスの室内楽録音計画がスタート。
2人は1968年にオールドバラでスークと出会い、ロンドン公演のあとに、ブリテンがオールドバラに建てたコンサートホールでブラームスの「三重奏曲全集」を録音した。そのとき、彼ら3人はブリテンとピーター・ピアーズとともに楽しい一夜を過ごしたという。
カッチェン、スーク、シュタルケルのトリオが行ったピアノ三重奏曲の録音を機に、各地の音楽祭や南アフリカ共和国(シュタルケルは1959年にアフリカ大陸の数カ国でコンサートツアーをしたことがある)などから、山のように演奏依頼がやってきたという。
このトリオとして引き続き、1969年春にブラームスの「ピアノ四重奏曲」・「ピアノ五重奏曲」の録音と、「チェロ・ソナタ第1番」の再録を開始する予定だったが、4月にカッチェンが急逝したため、この計画は実現しなかった。
カッチェンとシュタルケルは、すでに「チェロ・ソナタ第1番」と「チェロ・ソナタ第2番」を録音していたが、リリースされているのは第2番のみ。再録音できなかった第1番は公開されていない。
※スークとシュタルケルは、ブッフビンダーを新たにピアニストに迎えて、トリオ演奏活動を続けた。

2016年9月にリリースされた『ジュリアス・カッチェン/DECCA録音全集』には、ブラームスの「クラリネットソナタ第1番&第2番」の未公開録音が収録されている。ヴァイオリニストのThea Kingが、同曲をNina Milkinaと録音してから5年未満だったため、契約上リリースできず、そのままお蔵入りとなっていたもの。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲などの録音を担当したプロデュサーによれば、カッチェンは、スタジオ録音であっても、各楽章は1つの曲としてまとまったものであるべきだという考え方だった。そのため、スタジオ録音でもほとんど編集をしていなかった。

ベートーヴェンの代表作品を立て続けに3曲と「ディアベリ変奏曲」のような複雑な曲を録音するのに要したのは、3時間の録音セッションが2回足らずだった。


カッチェンは、1961年に東欧からウィーンへ回る演奏旅行中に、ウィーンでハチャトリアンの「ピアノ協奏曲」を作曲者自身の指揮で録音する予定だった。ところが、東欧滞在中にカッチェンが政治的な発言(ベルリンの壁を非難した)をしたために、ソ連当局がこれを中傷と受け取り、ハチャトリアンにカッチェンと共演することを禁止した。結局、ハチャトリアンは録音予定をキャンセルし、「ピアノ協奏曲」の録音は実現しなかった。

1968年11月に、ケルテス指揮ロンドン交響楽団の伴奏により、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」をスタジオ録音をしている。このラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」が、カッチェンが残した最後の録音となった。

ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集(35CD) ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集(35CD)
(2016年08月31日)





パーソナリティ
子供の頃のカッチェンは優れた水泳選手であり卓球選手でもあった。ピアノの練習をしていないときは庭で野球をするのが大好きだった。
※カッチェンのタッチは力強く、音量も大きいし、指回りも抜群に良い。難曲のコンチェルトを一晩に数曲演奏するほどのスタミナもある。それはこの運動能力の高さと頑強な体力によるものではないかと思う。

※カッチェンは、英語のほかフランス語、ドイツ語など全部で4ヶ国語を話すことができたらしい。カルショーも自伝で、カッチェンは数ヶ国語が流暢に話せると書いていた。

カッチェンの親しい友人で、戦後の一時期カッチェンと同じパリで暮らしていたピアニスト仲間のゲイリー・グラフマンは、カッチェンと一緒にいるのは、まるで川の急流のなかに立っているようだった、と喩えていた。
「カッチェンは、彼の想像力をかきたてるものなら、どんなものに対しても、情熱と莫大なエネルギーを注いでいた。一緒にいる人間は必ずそれに押し流されてしまうんだ。彼の情熱のもつエネルギーにみんなが感染していったよ。」
カッチェンはレコーディングが好きだったが、スタジオ録音の時でさえ、自然に熱情や興奮が湧き上がってくるといううらやむべき才能があった。
グラフマンはカッチェンと一緒に、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の録音でピアノを弾いていたこともある。
1980年代に、グラフマンはあるインタビューの中で、カッチェンを最も好きなピアニストの一人にあげている。特にカッチェンのブラームスが大好きで、彼が残した数多くの録音のなかでも、カッチェンの貴重な遺産というべき演奏だと言っている。(『ピアニストとのひととき(下)』より)

録音を担当したDECCAのプロデューサーはカッチェンについて、「いつも大きな笑顔を浮かべ、エネルギッシュで社交的だった。陽気で誰からも愛される性格で、自己中心的(egocentric)なところがあるが、それがとても魅力的だった」と言っている。
カッチェンのスタジオへ行ってみると、何年も弾いていなかった曲を新たに練習し、電話で演奏会の打ち合わせをし、メイドに部屋掃除の指示を与え、何千個もの骨董品の「根付」を手入れし、彼の膝の上で動き回っている子供を優しくあやしていたという、実に多忙でエネルギッシュな日常だった。

カッチェンは1956年にLe Vesinet出身のAriette Patouxと結婚した。彼らは熱心で辣腕の根付収集家だった。
彼らの根付コレクションのうち195点がロンドンのサザビーズで2005年11月8日と2006年7月13日にオークションにかけられ、総額120万ポンド(220万ドル)で落札された。
2016年と2017年には、さらに392点がBonhamsのオークションで総額230万ポンド(300万ドル)で落札された。特にカッチェンのお気に入りだった牙中作”Shaggy dog and pup”(牙中[げちゅう/Gechu]は18世紀の有名な根付師)の落札価格22万1千ポンドは、根付オークション史上2番目の高値だった。

音楽でもそれ以外のことでも、彼は競争心や嫉妬には全く無縁だった。カッチェンは自分自身の弾き方が好きだったし自信を持ってはいたが、リヒテルとギレリスが彼の理想とするピアニストだった。
プロデューサーのカルショーは、DECCAの専属ピアニストの中で、「カッチェンは嫉妬心とは一番無縁」なピアニストだと言っていた。
彼はただ単に音楽をすることを愛していた。音楽を生み出し、音楽をつくり続けていくことだけを望んでいた。彼は毎日12時間練習し、コンサートで年に100回以上ピアノを弾いていた。膨大な量の音楽に取り組むことこそがまさに彼の喜びとするものであり、決して飽くことがなかった。

彼はピアニストとしての謙虚さも持っていた。コンサートでの演奏が上出来だったときは、翌日友人のグラフマンに「昨日のコンサートの演奏は素晴らしかったよ!」と、朝食のテーブルで、誇らしげに事細かにコンサートの様子を話していた。演奏の出来が悪くて納得がいかなかった時は、「絶望的に酷かった!」と意気消沈して、グラフマンにどこがどう悪かったのか、また同じように順々と細部にいたるまで話したのだった。

プロデューサーのRay Minshullの回想では、カッチェンがリラックスできる唯一の姿勢は、椅子に座ってピアノの鍵盤へ腕を伸ばしているとき。

公開演奏を愛する天性の”showman”(舞台人)だったが、スタジオ録音でも大抵はくつろいで(at home)、強い集中力のおかげで長時間の録音も平気だった。
しかし、「Encore集」の録音では、カッチェンが思っていたほどにスムーズには進まなかった。「スタジオ録音の冷静さのなかでは、大成功したコンサートの最後にアンコール曲を次から次へと弾くような雰囲気や気持ちに達することは、不可能だった。とうとう諦めて、友人30人に来てもらって、多少なりともライブを行い、1時間が過ぎて聴衆が盛り上がった頃には、いつものようにアンコール曲を弾く用意ができたのだった」


米国と欧州の音楽環境の違い
1962年11月18日付New York Timesに掲載された音楽評論家Alan Richのインタビューで、カッチェンは米国と欧州の音楽教育やコンサートピアニストとしてのあり方の違いについて、語っている。(出典:audite盤CDのブックレット)

カッチェンは米国人生まれの米国育ちなのに、欧州でピアニストとしての存在感と名声を確立したけれど、米国では15年もの間、演奏舞台には姿を見せなかった。
「(長らく米国で演奏することがなかったのは)、むしろ、どこで(演奏する)機会があるのかという問題です。私は、ここ(米国)で受けた教育を欧州で受けることはできませんでした。しかし、実際のキャリア形成という点になると、米国よりも欧州の方がより多くのもの-演奏会の日程(concert dates)のオファーやより良く成長するための環境-を提供してくれたように思えます。」

「今日の米国は、ピアニストにとって世界中でもっとも優れた教育を提供しています。ヒトラーのせいで、偉大な教師たちが30年代に渡米し、今でもその多くが米国に残っています。私は、欧州の音楽院の雰囲気(環境)についてかなり不健全なものを感じています。学生たちにあまりにも多くの競争心を植え付けています。コンクールというのは、学校で行われている賞を競う競技会で、全ての学生たちの頂点に一人のピアニストが上り詰めるものですが、これが学生たちのなかに不健全な態度を生んでいます。
米国では、ピアニストはともに成長するようにまとまっており、友人同士にさえなれるのです。誰かが他の学生の演奏会に行くと、喝采します。パリでは、他人の演奏を聴きに行くのは、自分の首を絞める(失敗する)ところ見ることを期待しているからです。」
(※意外なことは、"カッチェンが欧州を拠点に演奏活動を続けたのは米国の音楽界の雰囲気に否定的だったから"という定説とは違うこと。それとは逆に、欧州の音楽院のドライな競争的雰囲気は不健全で、友人同士にさえなれる米国の音楽院の方がむしろ健康的だと思っていたようだ)

「米国では、学生はピアノ教育の偉大な伝統に加わることができます。ロシアのヴィルトオーソの伝統は、ホロヴィッツのようなピアニストが体現しています。また、ゼルキンは室内楽に重きを置きつつ、古典的なドイツ的アプローチを明らかにしています。米国人ピアニストの多くは、私自身を含めて、両者のアイデアを個人的に組み合わせています。」

「しかし、欧州で教育を受けてしまえば、演奏家は自己表現(実現)する機会にずっと恵まれています。演奏会の日程やレパートリーのために競争することは米国よりも少ないのです。例えば、昨シーズン、私は24の協奏曲と10種類のリサイタルプログラムで演奏しました。米国では、マネージャーからのプレッシャーのために、もっと少ない数の曲を頻繁に弾くように、かなり制限されることになるでしょう。」
「米国では、都市や町へやってくるときには、soup-to-nuts(幅広い)プログラムにすることと、聴衆が理解できない曲を演奏しないよう注意することを勧められます。マネージャーは常に聴衆を過小評価しています。欧州の聴衆の場合は、ずっと洗練されていると信頼されています。さらに、演奏家の成長にとってとても重要なことですが、欧州では同じ都市に何度も演奏しに戻ってくる機会がずっと多いのです。それにより、自分自身の聴衆を作りあげ、徐々により難しいプログラムを提供することができるのです。」

「米国の演奏家は、欧州でよく演奏しているプログラムの種類を批判されています。バッハからブーレーズに至るまでざっと見渡したようなプログラムのことです。欧州の聴衆は演奏家が本当にぴったり合っている(close)と感じるものを表現する特化したプログラムを好みます。たとえば、私はオール・ブラームス・リサイタルをドイツでずっと行ってきましたが、それは成功しています。今、ブラームスのピアノ作品全てをロンドンレコードで録音しているところですが、ここでもそのシリーズを演奏したいと思っていますし、聴衆はコンサートにやってくると思います。しかし、眉をひそめて、”バッハの作品はどこにあるんだ?”、”なんてことだ、ショパンがない!” そういうものです。私が言っているのは、聴衆のことではなくて、マネージャーのことです。」

「しかし、私が”expatriate”(故国を捨てた)と呼ばれることを拒否する理由でもあるのですが、ニューヨークに戻って来たことに大きな喜びを感じています。米国でのキャリアが欠けていることは、私が不完全なのだと感じさせられます。私には、故国が認めてくれること(approval)が必要なのです。確かに、私はすでに名声を得て(established)います。自分の街のタウンホールでデビューする若手ピアニストの”オール・オア・ナッシング”という感情をもって、今週のフィルハーモニックとの演奏会に臨んでいるわけではありません。しかし、米国が、私にとっては存在していないのだというふりをするのは、それと同じくらいに不合理でしょう。」


エピソード
リヒテルが1960年に鉄のカーテンを超えて初めて西側を訪問後、西側のレコード会社へのレコーディングをソ連当局が許可するらしいという話が持ち上がった。
1961年にリヒテルがパリに滞在中、欧米のレコード会社の代表たちは、リヒテルとの面会を求めて滞在先のホテルへ殺到していた。リヒテルには、滞在中の街で姿を消すことがあるという妙なクセがあった。この時もリヒテルが行方不明になって、ソ連の随行員たちは右往左往。
その晩、デッカのプロデューサーであるカルショーは、非常に親しい友人でもあるカッチェン夫妻宅へ寝酒を飲みに入った。そこでピアノの前に座っていたのは、「天使のようにブラームスを奏でていた」リヒテル。カッチェンは数ヶ国語を流暢に話せたので、リヒテルもコミュニケーションがとれて、とてもくつろいだ様子だった。
(出典:ジョン・カルショー著『レコードはまっすぐに』

1962年、東ベルリンと東ドイツで予定されていた12公演のコンサートツアーをキャンセル。その報復措置として、ソ連の作曲家ハチャトリアンはウィーンで予定されていたカッチェンとの録音予定をキャンセルした。カッチェンは、その1年前にハチャトリアンの指揮で東ベルリンで協奏曲を演奏していた。コンサートツアーをキャンセルした理由は、演奏会を行うことはカッチェンが”東ドイツの共産主義体制を認めたことになり”、プロバガンダのために利用されるということを学んだからだという。
(出典:meloclassic盤CDのブックレット

当時、悪名高いアパルトヘイト(人種隔離政策)を取っていた南アフリカ共和国でのコンサートでの、カッチェンの率直さ(directness)を物語るエピソード。
”champion of the underdog”(弱者のために戦う人)カッチェンは、ケープタウンのSoweto township(ソウェト/非白人居住地域)で無料のコンサートを行うと主張したことが、南アフリカ政府の連中の癇に障った。南ア政府は、カッチェンがコンサートのために搭乗する予定だった国有の南アフリカ航空のケープタウン-ヨハネスブルク行のフライトをキャンセルしたが、カッチェンは後続の飛行機に搭乗して彼らの企みを妨害した。カッチェンがコンサート会場に現れると、いつも”白人限定”のイベントに参加することを禁止されていた聴衆から鳴り響く拍手で歓迎された。
別の演奏会では、ケープタウンのシティホールの舞台上に歩み寄って、この街はこの”heap of trash”(ぽんこつ)よりももっと良いピアノがふさわしいと宣言し、50ポンド紙幣をピアノの上にぴしゃりと置いて、”あなた方の街にふさわしいピアノを購入するための基金を始めるために”と言った。
(出典:『ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集』)のブックレット)

1959年、中国人の若手ピアニストであるフー・ツォンが、留学先のポーランドから英国ロンドンへ亡命する。フー・ツォンは第5回ショパンコンクールでアジア人初の第3位に入賞し、その後東欧で演奏活動をしていた。当時、共産主義政権下の中国では思想改造運動が盛んで、ポーランドの音楽院を卒業後農村労働に従事するよう中国政府からフー・ツォンに召還命令が出たため、彼は悩んだ末に亡命を決意する。
8歳年下の中国人ピアニストの音楽性を高く評価していたカッチェンは、彼のロンドン亡命に際して、旅費やロンドンでの生活を援助したという。
(出典:森岡葉著『望郷のマズルカ ― 激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』

ピアニストで音楽理論家・批評家でもあるチャールズ・ローゼンが語っている珍しい逸話。
「カッチェンはステージに上がると聴衆のなかの任意の一人に目標を定め、その人のために弾いたと言われる。これは心理的刺激にすぎず、美的陶酔と性的興奮とを混同している。もしこの選ばれた一人が他の聴衆よりも演奏を堪能したとしたら、カッチェンは狼狽したにちがいない。」
(出典:ローゼン著『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』

17歳~20歳の時にカッチェンに師事していたパスカル・ロジェが、カッチェンとの思い出を語っている。
ロジェが17歳の時、カッチェンに初めて自分の演奏を聴いてもらうと、「君はテクニックがありすぎるね」と言われたという。カッチェンがロジェにアドバイスしたことは、「ピアノから離れなさい。ものを考えたり、本を読んだり、美術館で絵画を見たり、芸術、文学、哲学・・・色々なものを受け入れて視野を広げることも大事ですよ。1日10時間もピアノの前で練習していたら、他のものに対する好奇心を失ってしまう。音楽はピアノの前で考えるだけでなく、人生を知ることでもあり、他人の心情に思いをはせることでもあるのだから」
ある日先生(カッチェン)から「今面白い企画展が開催されているから、今日はレッスンの代わりにこれを見に行かないか?」と言われ、一緒に美術館に行ったこともあったそうだ。
(出典:ピティナ「香港国際ピアノコンクール(4)パスカル・ロジェ先生が語る10代の教育」

1969年1月、ロジェがサル・ガヴォーでパリ・デビューコンサートを飾ったとき、カッチェンは次のような推薦文を書いている。
「パスカル・ロジェは生まれながらの自然なヴィルトゥオーソである。私はついぞ彼の技巧上の制約を発見できなかった」。カッチェンはさらにロジェの演奏の特色として「ロマン派的な高揚、驚くべきリズミックなヴァイタリティ、ビューティフル・サウンド、フランス人特有の詩趣」を挙げている。
(出典:ロジェ&デュトワ指揮モントリオール交響楽団『ラヴェル:ピアノ協奏曲』(DECCA・国内盤)のライナーノートより

カッチェンが初めて弾く曲を習得するときは、最初は完全にピアノから離れて、楽譜を読み込んでいくのが習慣だった。「私がピアノに向かう時は、単に頭の中にある設計図(blueprint)を実現するだけなのです。」

カッチェンが米国の作曲家ネッド・ローレムの「ピアノ・ソナタ第2番」を演奏して以来、彼と友人となったローレムはこう回想している。
「カッチェンは光速のごとき素早さでたちどころに(楽曲を)習得してしまう能力と、悪名高いまでに驚くほど正確に記憶する能力を持っていた。それは、知的な記憶能力によるものではなくて、いってみれば直観をもつ指とでもいうものから来ている。彼の手が全て覚えているんだ。演奏旅行に行くときも、カッチェンは楽譜を全然持って行かなかったのを覚えているよ。楽譜は彼の頭の中にコピーされているのではなく、指先に写真のように写し取られているんだ。」

1968年12月、最後のコンサートでラヴェルのピアノ協奏曲を弾いた頃には、すでにガンに蝕まれており、健康状態は悪化していたが、カッチェンは決してそれに負けることはなかった。グラフマンは回想して「カッチェンは全力で病気と闘っていた。カッチェンは闘病生活を”まるでエロール・フリンの映画のフェンシングの試合のようだ”と言っていた。」
カッチェンは化学療法のためにロンドンに滞在していて、昼間は病院で治療を受け、夜は自宅でブラームスのピアノ曲全集を弾いていた。しかし、最後にはガンが彼を打ち負かしたのだった。

作曲家ローレムはこう言っている。
「驚異的な速さで習得していくカッチェンの並外れた能力が偶然の産物だと考えることは、天賦の才能というものは結局はその対価を支払わされるものだということを無視している。時としてその対価は恐ろしく高くつくものだ。カッチェンは本当に活発に動き回っていた。日中には12時間もピアノを練習し、その後に出掛けて我々友人とバーで酒を酌み交わし、翌朝も早起きして、同じような生活を繰り返していた。私にとって、カッチェンの限界を知らない興味と活力と、それに昼夜の別ない生活は、ボードレールのように、1度の人生でその3倍の人生を生きたということをまさに体現している。彼が4月に亡くなった時、カッチェンは42歳ではなく、126歳だったんだ。」

 ジュリアス・カッチェンのディスコグラフィ


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備考
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【出典】
- DECCAが公表している英文および日本語資料(CDのブックレット等)
- ジョン・カルショー著『レコードはまっすぐに-あるプロデューサーの回想』(学習研究社,2005年)
- シュタルケル著『ヤーノシュ・シュタルケル 自伝』(愛育社,2008年)
- ディヴィッド・デュバル著『ピアニストとのひととき(下)』(ムジカノーヴァ,1992年)
- 吉田秀和著『世界のピアニスト』(新潮文庫,1983年)[現在はちくま文庫から<吉田秀和コレクション>として出版。ただし、カッチェンに関する章は未収録]
- 森岡葉著『望郷のマズルカ ― 激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』(ショパン,2007年)
- チャールズ・ローゼン著『ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために』(みすず書房,2009年)
- プラハ音楽祭ライブ録音CDのブックレット
- ica盤ライブ録音集CDのブックレット
- 『TBS Vintage Classics/Julias Katchen』のブックレット
- audite盤CD(ベルリンでの放送用録音集)のブックレット
- meloclassic盤CD(ヘッセンでの放送用録音集)のブックレット
- 『ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集』のブックレット
- プロフィール(thestore24.com)
- プロフィール(ml.naxos.jp)
- プロフィール(naxosmusiclibrary.com)
- プロフィール(en.wikipedia.org)
- プロフィール(alchetron.com)
- ”In Memoriam”(Department of Music at Haverford College)に掲載されているプロフィール
- ピティナ「香港国際ピアノコンクール(4)パスカル・ロジェ先生が語る10代の教育」
- ジャン=ロドルフ・カールスのプロフィール(en.wikipedia.org)
- 『Julius Katchen: Piano Recitals 1946-1965』のブックレット
- New Jersey Jewish News - October 21, 1976。カッチェンの祖母Nettie Katchenの追悼記事
- The Julius and Arlette Katchen Collection of Fine Netsuke(part1~part3)[Bonhams]
- Haverford News,1944.3.8"。ハヴァフォード入学後、Roberts Hallで3回目の学内リサイタル開催を知らせる大学ニュース
- ”Katchen Relaxes on Floor ” (ABC weeklyVol. 19 No. 6, 9 February 1957/by ARTHUR JACOBS, air Mail from London )  オーストラリアツアー予定の30歳のカッチェンに対して、ABC社記者がロンドンで行ったインタビュー記事。


【参考サイト】
ピアニスト内藤晃さんによる紹介記事

ピアニストの中川和義さんによるカッチェンのCD評
中川さんによれば、カッチェンは1954年に彼が28才の時に来日公演を行っていて、20歳代の、それもヨーロッパ以外のピアニストとしての来日は、初めてのことだったそうです。
アフリカ演奏旅行を終えて来日したので、アフリカと違って生水が飲め、ピアノの状態が素晴らしいと大変感激していたと回想している。アフリカツアーでは2ヶ月間で50回のコンサートを行っていた。
彼のピアノは、「健康で、小細工が無く、素直に音楽と対決し、管弦楽のような巨大な音響で、さすが大国アメリカの代表する若手」だと評している。ただし、活躍がすぎて、雑な演奏があったことは事実だとも指摘している。

音楽評論家の吉田秀和氏によるカッチェンのCD評
吉田秀和氏が『世界のピアニスト』(新潮文庫版)の「フライシャー、ジャニス、カッチェン、イストミン」という章のなかで、カッチェンについてこう評している。
「ブラームスのピアノ曲が全部入っているレコードをききましたが、これはとても良い演奏です。じつにりっぱなもので、ケンプなどとは傾向が違いますから、比較して論じるわけにはいきませんが、技術も内容も、ともに整った名演です。僕はいま生きているピアニストでブラームスを聴くのだったら、ゲルバーとカッチェンが一番良いと思います。」
「このレコードで弾いているブラームスの一番のピアノ・ソナタなどは、ほんとに面白く弾いている。『第三ピアノ・ピアノ』もそうですが、カッチェンの演奏で聴くと、『ピアノ・ソナタ第一番』など、こんなに面白い曲をどうしてみんなが弾かないのかと思うほどです。このソナタは緩徐楽章がほかのソナタに比べて、切れぎれですけどね。この人はほんとによいピアニストです。ベートーヴェンのピアノ曲だって、これだけの力があれば、りっぱに弾くでしょう。」

松本大輔著「クラシックは死なない!」
カッチェンのCDシリーズ『The Art of Julius Katchen』を詳しく紹介している。

カッチェンのお墓[Find a Grave]
カッチェンと父母・妹のお墓の所在と写真が載っている。


【記事作成・更新日】2008.12.15 作成-2022.6.10 更新

タグ:カッチェン

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コメント

すごい

こんにちは。

すごい!よくまとめられましたね。
これでカッチェンの生涯が一望できます。

小さな伝記ではありますが

よんちゃん様

コメントありがとうございます。
自分で翻訳したのでところどころ怪しい訳がありますが、日本語で書かれたカッチェンの資料としては、かなり詳しいものになったと思います。

ロレムが言うように、カッチェンは普通のピアニストが一生かけてすることをわずか20年くらいの間にやりとげてしまったのでしょう。

凄い人だったんですね

こんばんは♪
カッチェンがお好きなんですね。とても詳細に、しかも分かりやすくまとめてあって驚きました。

42歳は若いですよね。精力的でない人が長寿だと言う気は毛頭ありませんが、カッチェンは生涯疲弊を見せずに駆け足で過ごしたのかなと思いました。(そう言えばモーツァルトの生涯に似ているような)

年間の演奏会の数もかなり多くて、名声を博したようですが、なぜ日本ではあまり知られていないのでしょうね?
私も、このブログを訪問するまで、彼の名前さえ全く知りませんでした。(まあ、そもそも奏者について全然詳しくないのですが)
これを読んで感心するばかりじゃなく、実際どんな演奏をする人だったのか知りたくなってきました^^*
今度は是非カッチェンを聴いてみます!!

カッチェンのピアノはとっても素敵です

エウロパ 様

コメントありがとうございます。
私はカッチェンの名前だけは知っていたのですが、演奏を聴いたことはありませんでした。「クラシックは死なない!」という本に詳しく紹介されていたのを読んでから、聴き始めたのです。彼の演奏を聴けば聴くほど素晴らしくて、早逝したのが惜しまれてなりません。

>カッチェンは生涯疲弊を見せずに駆け足で過ごしたのかなと思いました。

本当にそうですね。短い一生という運命なので、神様がカッチェンに特別な才能を授けたのではないかとさえ思ってしまいます。

>年間の演奏会の数もかなり多くて、名声を博したようですが、なぜ日本ではあまり知られていないのでしょうね?

昔の日本の音楽界はヨーロッパ志向が強かったらしく、伝統の浅い米国の若手ピアニストだったため、評価されていなかったようです。彼は欧州で活躍していたピアニストなんですけどね。
早逝したため、CD時代に新しい録音が出てこなかったのも知名度が低い理由の一つだと思います。古い録音だと音質があまり良くないことも多いです。

カッチェンの演奏は、youtubeにもいくつか映像がアップされています。
ベートーヴェンの第4コンチェルトのライブ映像は、何度も繰り返し見るくらい好きです。おそらく彼が亡くなる半年~1年前くらいの時の演奏です。

カッチェンは、曲によってかなりピアノの弾き方が変わります。
ブラームスのピアノ曲集は定評がありますが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲集のBOXセットも安くて演奏内容も良いものです。32番ソナタやディアベリまで入っています。
スピード感のあるのがよければ、チャイコフスキーのピアノ協奏曲は良いですね。苦手なチャイコですが、これは大好きな演奏です。
ジャズがお好きなら、マントヴァーニと組んだガーシュウィンはとってもカッコイイ演奏です。
ご自分のお好きな曲の演奏で、聴いてみてくださいね。

聞こえない!ので、買います。

こんにちは。
なるほど、そういう背景があったのですね。音質重視の鑑賞者も多いようですから、録音した時代だけで射程外と判断されるかもしれませんね。

ベートーヴェンの第4コンチェルトのライブ映像を見てみましたが、音量が小さくて仄かにしか聞こえませんでした;優雅な演奏だなあというのはよく分かりましたが。
youtubeは諦めてベートーヴェンの協奏曲集を購入しようと思います♪ディアベリ変奏曲も入っているとは…早く聴きたいです。

マントヴァーニ

こんにちは。

>ジャズがお好きなら、マントヴァーニと組んだガーシュウィンはとってもカッコイイ演奏です<

高校、大学とイージーリスニングをよく聞きました。その中でマントヴァーニが一番好きなんです。だから僕にとっては驚きの組み合わせです。
この組み合わせによる、ガーシュウィンのピアノ協奏曲について教えてください。

ピアノ協奏曲集はとてもお勧めです

エウロパ様

コメントありがとうございます。
音が聞こえないとはかったとは残念。パソコンとyoutubeのボリュームの両方を上げると聴こえたんですが...。この演奏はきりっとしてとても気品のあるピアノです。

私は某サイトの回し者ではないんですが、私はこれを買いました。コストパフォーマンスはとても良いと思います。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2538849

ピアノ協奏曲については、以下の記事を書いています。
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-887.html

32番ソナタは次の記事です。ご参考まで。
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-885.html

ディアベリはまだちゃんと聴きこんでいないので感想は書いていないのです。ゼルキンの演奏も聴いて、違いをわかるようにしておかないといけないので。

カッチェンの演奏が気に入ってもらえたら、私もとても嬉しいです。

マントヴァーニ&カッチェンは最高です

よんちゃん様

コメントありがとうございます。
マントヴァーニがお好きだったとは、偶然とはいえびっくりですね。
私は自分でピアノを弾くせいか、もっぱらクレイダーマンに凝ってました。

マントヴァーニ&カッチェンのガーシュインについて感想を書いた記事をアップしておきました。ご参考にどうぞ。
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-905.html

CDはHMVかamazonで入手できます。HMVなら試聴可能です。

このCDのレビューをいろいろ調べましたが、ブログで書かれた方は皆さん大変満足しておられました。

カッチェンについて初めていろいろ知りました

はじめまして。ひろはやと申します。

今日何となくブラームスのヴァイオリンソナタ(第1番から第3番まで)を聴きたくなって、手元にあるCD(スーク/カッチェンDECCA1967.3録音)を聴きながら、ネット検索でこのサイトを拝見しました。

これまでスークをメインに聴いてまして、志鳥栄八郎著「世界の名曲とレコード」(増補改訂版)によれば、「スークの情感豊かな表情はすばらしいが、カッチェンのピアノがスークと溶け合わないところのあるのが惜しい」と言われていたのでサブ的位置づけが自分の中にずっとあったのですが、あらためてこの膨大なカッチェンの記事を読み、印象が大きく変わりました。

今後ともよろしくお願いします。

室内楽のカッチェン

ひろはや様、はじめまして。
ご訪問、コメントありがとうございます!

志鳥氏は、そういう捉え方をされていたのですね。
室内楽でピアノを弾いている時のカッチェンは、ソロとは印象が変わります。
あまりでしゃばらず、ヴァイオリンに寄り添うような少し控えめなところがありますが、柔らかく美しい音と品のある叙情感が好きですね。
それをどう評価するかは、聴く側の問題なので、志鳥氏には物足りなく思えたのでしょう。
この曲集ではシェリング&ルービンシュタインが定番でしょうが、ピアノが強すぎて、時としてヴァイオリンよりも目立っているのではないかと思ってます。

スーク/カッチェン/シュタルケルのブラームスのピアノトリオ全集も良いですね。
DENON盤のスーク・トリオの演奏とはいろいろ違うところもあって、聴き比べると面白いと思います。
私はブラームス作品については、メインで聴くのはカッチェンの録音です。
他のピアニストでもいろいろ聴いていて、好きなものもたくさんありますが、それでも、私のなかではカッチェンがベストなのです。

ヴァイオリニストなら、スークとツィンマーマンが好きで、CDはほとんど持っています。
スークは、音の美しさと情念過剰でない均整のとれた叙情感がとても私好みなのです。

また、お時間のおありのときにお立ち寄りくださいませ。
こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。

ブラームスのピアノトリオを聴いてみたいと思います

ひろはやです。再度の訪問をさせていただきます。

スーク/カッチェン/シュタルケルのブラームスのピアノトリオ全集は、これまで聴いたことがありません、というか、このピアノトリオ自体聴いたことがありません。

そこで、手始めに、NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリー)でこの曲を聴き込んでみたいと思います。リストには何種類もありますが、ボロディン・トリオのものから始めます。

今日は連休最後になりますが、楽しい時間を過ごすことが出来そうです。

ありがとうございました。

ピアノトリオ全集も素敵です

ひろはや様、こんにちは。
再度のご訪問とコメント、ありがとうございます!

ブラームスのピアノトリオ全集は、ヴァイオリンソナタほどには聴かれていないようです。
第1番が一番有名ですが、他の2曲もそれぞれ個性があって、どれも好きです。
スーク/カッチェン/シュタルケルは、なかなか渋みのある演奏です。
第1番の冒頭から独特のタッチで、とてもゆったりとしたテンポで弱音の出だしから、一気に盛り上がっていくところが好きです。ここはスークトリオとはかなり違います。
ボロディントリオ盤は聴いたことがないので、私も聴いてみようと思います。

私もNMLの団体会員で、もう数年間使ってます。とても重宝なサービスですね。
悩ましいのは、参加レーベルが激増していろんな録音が聴けるため、欲しいCDが増える一方なのです。
NMLに入ればCD購入枚数が減るかなと思ったら、全然減ってません。
その代わり、CDを購入してハズレることが激減しましたから、結局、効率的にCDを買うことができているのだと思います。

連休最後の日なので、ゆっくりブラームスをお楽しみくださいね。

No title

yoshimi さま

昨日、カッチェンの弾くハンガリー舞曲集を聴き、彼に対する興味が高まりました。

そうしたところ、なんと素晴らしいブログに出会ったことでしょう!

ピアノの演奏もそうであるように、文章もまた、そのひとの熱意をこちらに伝える表現手段ですね。

カッチェンのひととなりをすこし知ることができて、彼を一層好きになりました。

ありがとうございます。
また訪問させていただきます。

カッチェン、素晴らしいピアニストですね!

araiさま、はじめまして。
ブログへのご訪問、コメント、どうもありがとうございます。

カッチェンのピアノソロのハンガリー舞曲集、とっても良いですね!
他のピアニストの録音もいくつか聴きましたが、カッチェンに匹敵すると思ったのはキーシンくらいです。

カッチェンの録音を初めて聴いたのは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集です。
それ以来すっかりはまってしまいました。
早世したせいかカッチェンを知っている人も録音を聴いたことがある人も多くはありませんし、情報も少ないですね。
このまま忘れられていくのはあまりに惜しいピアニストです。
そう思ってコツコツと記事を書きためて来ました。
これが、彼のことをもっと好きになるきっかけになれたのでしたら、大変嬉しいです。

今後もカッチェンの録音をフォローして、記事を書いていくことにしています。
またお時間のあるときにお立ち寄りくださいませ。
今後ともよろしくお願いいたします。

ブラームス全集がききたくなりました

yoshimi さま

ご返信ありがとうございます。


さっそく、カッチェンのブラームスのsolo piano全集を注文したaraiです。

そして、いまちょうどGELBERのベートーベン、ピアノ ヴァリエーションを聴いていまして、では、カッチェンが弾くベートーベンは、どう響くのだろうと、好奇心満点になっています。


著名人にたいして、そのひとがもしも、近所に住んでいたならば、と考える習慣のある私は、やはり、カッチェンについても、かれがもしも近所に住んでいたならば、と想像します。

yoshimiさまの記事から察するに、カッチェンはひょっとすると、他者には温厚で、フェアであることを信条とするなんとも魅力あふれた人物だったのではないかと、思うのです。
そのような、近所の優しいお兄ちゃんが、実は、ピアニストだった、となれば、わたしは間違いなく、彼の音楽活動への応援を惜しまないでしょう。

なんとなく、ですが、自制心の強く、温厚であろう彼が、しかし演奏は情熱あふれんばかり・・・・音楽におさまらないだけの才能を、彼は制御して、そのすべてをピアノに向けていたのかなぁ、と、そんな空想が止みません。

ブラームスの全集がとどくのが、たのしみです。

そしてそれを聴き終えたら、また、yoshimiさまの書かれたレビューを
参考にさせていただいて、次のカッチェンの演奏を選びたいと思っています。

ありがとうございました。




カッチェンのブラームス

araiさま、こんにちは。
再度のコメント、どうもありがとうございます。

カッチェンのブラームス独奏曲全集は、日本と違ってアメリカのamaozonサイトではレビューが多数あり、評価はとても高いです。
昔からの定番ですし、お好みに合えば、ずっと聴き続けられる録音だと思います。
カッチェンのブラームス全集で好きなのは、ヘンデルバリエーション、ピアノソナタ第1番、自作主題の変奏曲、スケルツォ、4つのバラード、後期作品集です。

カッチェンのベートーヴェンは、かなり好みが分かれそうです。
ピアノ協奏曲なら第3番、第4番が特に良いように思います。
第4番の方は若干テンポの問題がありますが、弱音の静謐さが独特です。
ピアノ・ソナタ第32番は、特に第2楽章の落ち着いた静かなタッチと終盤の高揚感が良いですね。
ディアベリも好きですが、他に個性的な録音が多いので、それに比べるとシンプルな演奏だと思います。

珍しいカッチェンのライブ映像があります。
ピアノ協奏曲第4番の第1楽章だけですが、スタジオ録音よりもこちらの方が良いかもしれません。
http://www.youtube.com/watch?v=ClEetPFgjjk

カッチェンは外交的な明るい性格で、自己主張がはっきりした人でしょう。
やや自己中心的なところはありますが嫌味が全くなく、「他者には温厚で、フェア」というのはその通りだと思います。
それに、人懐っこくてとても魅力的な感じがします。

演奏の方は知性と感情がほどよくバランスしているように思います。
時々テンションが高くなってテンポが加速しますが、情熱的であっても、それに溺れることなく、理知的なものを感じます。

このCDの最後のトラックは、カッチェンのインタビューです。彼の肉声が入ってます。
話し方から、カッチェンの人となりが想像できて、楽しいボーナストラックでした。
http://www.amazon.co.jp/Brahms-Piano-Concerto-No-1/dp/B005Y0M572/ref=dm_cd_album_lnk

ブラームス全集を聴かれましたら、またご感想をお聞きしたいです。
それに、他の録音も良いものがいろいろありますので、ぜひお聴きになってくださいね!

ミュンヒンガーとのモーツアルトのピアノ協奏曲は如何ですか?

カッチェンのモーツアルトのピアノ協奏曲第20番と25番のLPレコードを見つけたのですが、カッチェンはブラームスばかりを聞いていたのでまったく見当がつきません。あなたはどう思われますか。

カッチェンのモーツァルトについて

勝又さま、こんにちは。

ご質問の盤については、ミュンヒンガーの指揮の枠がかっちりしていて、ブラームス演奏の時とは違い、カッチェンのピアノが端正で、存在感が控え目な気がします。
ただし、私はモーツァルトはあまり得手ではなく、異聴盤もそれほど聴いてませんから、的確な印象かどうかはわかりません。
ピアニストとしてのカッチェンがとてもお好きなら、コレクターとして聴く価値はあるようには思いますが、”モーツァルト”を聴くことが目的なら、何とも言えません。
amazonやHMVのレビューもご参考にされれば良いかと思います。

なお、第20番はマークとの古いモノラル録音もあり、ステレオ録音とは違った演奏です。
ピアノの音が硬質で力強さがあり、歯切れの良いタッチで若々しい演奏です。
演奏自体は、ステレオ録音のほうがテンポも安定して洗練されていると思います。(音質もずっと良いです)

こんにちは

yoshimiさん、こんにちは。
たまたま、ネット上で、パスカル・ロジェがカッチェンについて語っているインタビュー記事を見つけましたので、ご存じかもしれませんが貼らせていただきます。

http://www.piano.or.jp/report/04ess/livereport/2011/11/10_14313.html

彼はこうアドバイスしてくれました「ピアノから離れなさい。ものを考えたり、本を読んだり、美術館で絵画を見たり、芸術、文学、哲学・・・色々なものを受け入れて視野を広げることも大事ですよ。1日10時間もピアノの前で練習していたら、他のものに対する好奇心を失ってしまう。音楽はピアノの前で考えるだけでなく、人生を知ることでもあり、他人の心情に思いをはせることでもあるのだから」とね。そういえばある日先生から「今面白い企画展が開催されているから、今日はレッスンの代わりにこれを見に行かないか?」と言われ、一緒に美術館に行ったこともありました。
(パスカル・ロジェ)

情報ありがとうございました

Akira様、こんにちは。

教えてくださって、どうもありがとうございます。
ピティナは時々見ているのですが、このインタビューは知りませんでした。
大学で哲学を学んだカッチェンらしい言葉ですね。
早速、記事に情報を追加させていただきます。

そういえば、ロジェの1969年のパリ・デビューコンサートの時に、カッチェンが紹介文を書いていたのを思い出しました。
これも追記しておこうと思います。

カッチェンのピアニズム

yoshimiさま
今回たまたま、ピアニスト ジュリアス・カッチェンの記事を見つけ拝読いたしました。今までこれほど詳細に カッチェンについて書かれた文章は見たことがありません。感動いたしました。

カッチェンのピアニズムには昔から傾倒し、とくにブラームスの曲を聴いたあとは至福感に大満足です。カッチェンに完全にハマってしまった自分ですが、それも当然かもしれません。クラシック音楽について何も知らなかった1960年代に初めて手に入れたLPレコードが英DeccaのベートーヴェンP協5番だったのですから。

ここでカッチェンのLPで珍しいものを紹介しましょう。モノラル時代に録音したシューマンなトッカータ、アラベスク、ファンタジア(英 Decca )です。これを聴くと演奏がどうのこうのと云うより珍しさが先行して不思議な気持ちになります。
youai

「運命の赤い糸」の如く

youai 様、はじめまして。
ご訪問&コメント、どうもありがとうございます。

カッチェンのブラームス、本当にいいですね!
特に好きなのは、ブラームスとベートーヴェンですが、チャイコフスキーやグリーグ、ブリテン、ガーシュウィン、ラヴェルなど、他にも好きな演奏はたくさんあります。

もう50年近く、カッチェンの演奏を聴いてこられたのですね。
私が初めてカッチェンのCDを聴いたのは、ちょうど7年前の今頃です。
まさに「運命の赤い糸」のような出会いだと自分で思ったくらいに、すっかりはまってしまいました。
まとまった伝記らしきものが本にもネット上にもなかったので、カッチェンに関する情報を見つけては記事に書き込んできましたが、一般にはほとんど知られていないことがいろいろわかりました。

CD世代なのでLPは1枚も持っていませんが、ご紹介いただいたシューマンのトッカータ・アラベスク・ファンタジアは、全てCD化されていますね。
「アラベスク」を収録しているCD(廃盤)だけは持っていませんが。
最近はライブ録音も多数リリースされていますので、スタジオ録音にはなかったレパートリーを聴く楽しみが増えて嬉しいです。

ロンドンの街かどで

yoshimiさま
コメントありがとうございます。再度 訪問させていただきました。
最近は、ずい分CD化されているのですね。私は全くのアナログ人間で今だに電蓄でレコードを聴いています。レコードの場合、再生音はともかく ジャケットを見る楽しみがあります。有名無名のデザイナーが描き出したジャケットを見ると、別の芸術の世界に入り込んだ気がします。

" ブラームスはお好き?" ではありませんが、カッチェンの演奏を聴きながら レコードを片手に アフタヌーンティーを楽しむのもいいものです。
カッチェンが亡くなって暫くして、イギリスのロンドンに行く機会がありました。滞在中 レコードハンティングに出かけ、HMVレコード店でカッチェンの最後の録音盤を買い求めました。英Deccaのステレオ盤で プロコフィエフ:P協3番 ・ラヴェル:左手のためのP協 ケルテス / LSOのカップリングです。
この2曲を聴いて、あらためてカッチェンのすごさを感じました。メリハリのあるダイナミックな名演です。お馴染みのケルテス / LSOとの相性がバツグンです!

カッチェンが亡くなったとき、日本でも新聞などで報じられました。しかし、音楽関係誌で特集を企画したり、論評されることもなく終わってしまいました。
この2曲はLPとして英国でリリースされ、日本には入ってこなかったのではないでしょうか。勿論 今ではCD化されて、聴くことは可能でしょうが。

カッチェンのLP

youai様、こんにちは。

カッチェンのCDジャケットは、彼のポートレートを使ったものが多いです。
年齢の異なる写真が載っているので、演奏会で会うことは不可能なカッチェンの顔や姿を見ることができるというのは嬉しいですね。

最近タワーレコードが復刻したCD(ブラームスのピアノ協奏曲第1番&第2番)には、LPのオリジナルジャケットが使われています。これは珍しいですね。
パリの凱旋門を下から見上げた絵でしょうか。
http://tower.jp/item/3715509

カッチェンの住んでいたパリには仕事で行ったことがありますが、ロンドンには行ったことがありません。
録音はDECCAのスタジオがあるロンドンですることが多かったようですね。
プロコフィエフとラヴェルのピアノ協奏曲もCD化されています。
病の翳が全くみられない、目が醒めるように冴えた弾きぶりが素晴らしいです。

今はヤフオクなどで、古いLPがよく出品されていますから、お持ちのLPと同じ盤がそこで見つかる可能性もあります。
でも、日本に輸入されていない稀少盤でしたら、プレミアムがついて高額になりそうです。

カッチェンとショパン

yoshimi様
こんにちは。
先日は早速のコメントをいただきありがとうございます。私はLPオンリーなので、CDについては何も云えませんが、CDジャケットにはカッチェンの珍しい写真が載っているそうで機会があれば見てみたいです。LPのジャケットには演奏家の写真が載っていることは少なく、風景や建造物、イラストが多いです。

今から31年前にブラームスのピアノ作品全集が日本からロンドンレーベルで発売されました。英国、フランス、ドイツのデッカからも同時発売され、ボックスの表紙デザインはそれぞれ異なります。ドイツ・デッカのものは、カッチェンの正面から見た大撮しの写真が載っています。珍しい写真です。

この頃になると、カッチェンの名声も高くなり、フランスのディスク賞をもらったこともプラスして、日本でも注目され始めたと聞きます。

ところで、レパートリーの広いカッチェンですが、ショパンをあまり演奏していませんね。ソナタや小品をいくつか録音していて 聴いてみると モノラルのためか音全体がこもって重くるしく、歯切れのいい繊細なタッチが聴こえてきません。あとにリリースされたステレオのアンコール集に入っているショパンの Polonaise in A flat・Fantasie-Impromptu.OP.66の2曲は強弱が心地よくコントロールされ、スピードに乗ったバランスのよい演奏です。
来日した時の対談では、ショパンのピアノ協奏曲を演奏したいと語っていますが、実現しませんでした。

ショパンのライブ録音

youai様、こんばんは。

カッチェンのCDジャケットなら、amazon、HMV、タワーレコードで検索すれば、いくらでも見ることができます。CDのブックレットにもいろいろ写真が載っていますね。
また、Youtubeには、モノクロのライブ映像がいくつか登録されていますので、カッチェンが演奏する姿そのものを見ることもできます。

ショパン録音は、DECCAのCD/BOXセットのなかに、1枚だけ収録されています。
Polonaise、Fantasie-Impromptuも入ってます。
おそらく、お持ちのLPに収録されていたショパン録音は、全てCD化されているように思います。

私はショパンは好きではないので聴くことはあまりありませんが、ここ数年リリースされたライブ録音のうち3録音にショパンが収録されています。

スタジオ録音にはない曲目:
夜想曲第2番&第8番、子守歌、華麗なる大円舞曲、スケルツォ第3番、練習曲第7番、木枯らしのエチュード。
スタジオ録音と重複している曲目:
バラード第3番、英雄ポロネーズ、幻想即興曲。

ピアノ協奏曲は、今のところライブ録音にも入っていません。演奏会では弾いていたとしても、音質の良い音源が残っていないのかもしれません。

録音年も、1954年(来日公演)、1962・64・65年と、CDごとに異なります。
放送用音源が多いので、昔のライブ録音にしては音質がわりと良いです。(スタジオ録音よりも音質が良いと思います)

参考までに、次の3つがショパンが収録されているライブ録音です。全て試聴ファイルがあります。

Julius Katchen Plays Liszt, Brahms, Beethoven, Schumann and Chopin
http://www.amazon.co.jp/dp/B00I62LGCK

TBS Vintage Classsic ショパン:幻想即興曲他(1954年来日公演)
http://www.amazon.co.jp/dp/B00F55D16K

Ica Classics Legacy
http://www.amazon.co.jp/dp/B005KQ8NVM
※Ballade No. 3のみ。
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yoshimi

Author:yoshimi
<プロフィール>
クラシック音楽に本と絵に囲まれて気ままに暮らす日々。

好きな作曲家:ベートーヴェン、ブラームス、バッハ、リスト。主に聴くのは、ピアノ独奏曲とピアノ協奏曲、ピアノの入った室内楽曲(ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲など)。

好きなピアニスト:カッチェン、レーゼル、ハフ、コロリオフ、フィオレンティーノ、パーチェ、デュシャーブル、ミンナール、アラウ

好きなヴァイオリニスト:F.P.ツィンマーマン、スーク

好きなジャズピアニスト:バイラーク、若かりし頃の大西順子、メルドー(ソロのみ)、エヴァンス

好きな作家;アリステア・マクリーン、エドモンド・ハミルトン、太宰治、菊池寛、芥川龍之介、吉村昭
好きな画家;クリムト、オキーフ、池田遙邨、有元利夫
好きな写真家:アーウィット

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